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中国の品格

2012-10-01 18:09:35 | Weblog
私事であるが今、塩野七生女史の『ローマ人の物語』という本を読んでいる。
『ガリア戦記』の部分に来て、ヨーロッパのフランスあたりの紀元前前後の様子が縷々述べられているが、この時代、この辺りのフランスは、ガリア人という野蛮人の群雄割拠する場であって、当時の文明人であるローマ人からすれば、討伐の対象にあたる地域であったらしい。
我々の感覚で分かりやすく言えば、アメリカの西部劇と同じで、西洋の白人がアメリカ大陸のインデアンを、西へ西へと追いやる図と同じである。
これを見ても判るように、人間は如何なる未開人も単独では生きられないわけで、他との連携の中でしか生きれないことは論を待たない。
人が他の人と関わり合って生きるということは、他者との間に何か共通の認識、あるいは価値観を共有することがなければ共存共栄はありえない。
自分と同じ集団の中では、お互いに共通の価値観を共有しなければ、共同生活は成り立たないわけで、その意味で仲間内にはミニマムのモラルが醸成されるのが普通だと思う。
例えば、隣の人のものを盗ってはならないとか、借りたものは返すとか、人の嫁さんと姦通してはならないとか、という社会的規範が自然発生的に生まれると思う。
だがこの規範は、隣の人間集団・隣の部族には及ばないわけで、ここである集団ともう一つの集団との接点では摩擦が起き、トラブルが生じるのは極々普通の人間の在り様だと思う。
シーザーの『ガリア戦記』の時代ならばそれもゆるされるが、それから2千年も経た20世紀では、そんな大昔のことがそのまま通るわけがない。
しかし、アジア大陸の奥地、中国の奥地では、人間の営みは2千年前とほとんど変わっていなかったわけで、中国ではそういう地域と西洋となんら遜色のない都市が同時に存在している。
この文明のマダラ模様が人間の思考の中にもそのまま潜在化しているように思う。
人間の生き様の中では、「人は如何に平和に暮らすか」ということを常に考えて、それに効果があると考えた思考を、その他大勢の人にも知らしめようと思い、それを体系化し、それをある思想として集大成したものがある。
それがそれぞれの信仰であり、あるものは仏教であり、あるものは儒教であり、あるものが道教であり、ヨーロッパではそれがユダヤ教から派生したキリスト教であり、イスラム教になった。
如何なる宗教であろうとも、基本的な原理は共通しているわけで、自分の親を敬い、兄弟は仲良く、年長者を大事に、等という人間ならは極普通の在り様を否定する宗教はありえない。
宗教が違っても、人間としての究極のモラルは共通しているわけで、それがいわば共通認識になっていると考えられる。
自分の親を蔑にして良いという宗教はありえないし、隣のものを盗んで良いという宗教はありえないし、姦通を奨励する宗教もあり得ない。
こういう一般的な常識を踏まえて中国という国を眺めてみると、中国にはこういう人間としての基本的な共通認識を欠いた部分が目に余る。
中国、中華人民共和国は1949年10月毛沢東によって建国されたが、その後1966年昭和41年から1977年昭和52年の間に、中国、いや支那の価値観は根底から破壊されて、ここでアジアに住んでいた太古から連綿と引き継がれた支那人の魂は昇華してしまった。
毛沢東は中華人民共和国の建国の理念というよりも、建国の主体としての人民解放軍の健軍の理念として、3大規律8項注意というものを掲げていた。
こういうスローガンを掲げなければならなかったということは、この人民解放軍の主体というのが無学文盲の無頼漢の集合であった、ということを指し示しており、それを教育するための苦肉の策としての啓もう手段であったわけだ。
人民解放軍という人の集団には、人類の英知としての普通のモラル、人が人として連携するための倫理観、共通認識というものが存在していなかった、ということを露わにしている。
だからそれを説くためのスローガンであったわけだ。
我々日本人は、中国といえばわが日本文化の源流、本流と思い込んでいたが、それは中国のほんの限られた一部を見ていたにすぎず、盲人が像を撫ぜる図でしかなく、中国の大部分はまさしく未開の野蛮人そのものであったわけだ。
毛沢東の長征という大遠征は、こういう未開の地から共産党に忠実な若者を引き抜いてきたわけで、そういう人たちを曲がりなりにも軍隊の組織として見せるためには、3大規律8項注意でもって、近代人の振りを演出をしなければならなかったのである。
ところが革命から17年も経過すると、それらの2世の世代がモノを言うようになって、親の世代を批判するようになり、それが文化大革命であった。
ところが、この中国の建国の理念と、文化大革命の思考転換が中国の歴史としての価値観や、倫理観や、常識を根底から覆してしまったので、今の中国では普通の普遍的な常識や倫理観が存在せず、現代の衣装を着た野蛮人に成り代わってしまって、極めて自然人に近い思考回路になっているということである。
どんな人間の集団でも、その集団の仲間がみて、好ましい立ち居振る舞いとか、好ましい思考回路とか、見習いたいモノの考え方というのはきっとあると思うが、その反対に好ましくない立ち居振る舞いや、嫌われても仕方がないモノの考え方というのもあるはずである。
これを我々日本人は品とか、品位とか、品格という言葉で言い表しているが、中国人には我々の言うこの品とか、品位とか、品格という価値観は全く存在していない。
なにしろ中華4千年とも5千年ともいう悠久の歴史を経た過去の価値観を、共産主義革命とその後の文化大革命で見事にご破算にしてしまったので、恥も外聞も文字通り捨て去ってしまったということだ。
2012年9月27日中国楊外相の国連総会で、尖閣諸島に関する発言もその最たるもので、実に品位に欠けた論旨でしかなく、恥も外聞もかなぐり捨てた、一方的な自己主張のそのものである。
国連という厳かな雰囲気の場で、日本の国家主権を踏み躙り、明らかに日本をあなどった態度の発言は、人間としての品性を欠く態度であって、それのみならず国家としての品位も同時に問われている筈で、そのことが理解しきれないという意味では、極めて野蛮人に近い野生人ということになる。
国連という世界注視の場で、「盗んだ」と言い方は、あまりにも品位を欠いた文言だと思う。
数年前、呉儀という中国副首相の女性が、日本に対して暴言をまき散らしたことがあるが、これらも明らかに品位を欠いた立ち居振る舞いで、今の中国にはこういう品位という価値観が存在していないというれっきとした証拠だと思う。
我々には「実るほど首を垂れる稲穂かな」という言葉があるが、今の漢民族にはこういう価値観は完全に喪失してしまっている。
因みに3大規律8項注の3大規律とは、
1、一切指揮に従って行動せよ。
2、民衆のものは針一本糸一筋も盗るな。
3、獲得したものはすべて中央に提出せよであって、
8大注意とは。
1、話し方は丁寧に。
2、売買はごまかすな。
3、借りた物は返せ。
4、壊したものは弁償しろ。
5、人をののしるな。
6、民衆の家や畑を荒らすな。
7、婦女をからかうな。
8、捕虜を虐待するなとなっているが、呉儀副首相や楊外相の立ち居振る舞いは、完全に3大規律8項注意の8項注意の第5の項目に抵触しているわけで、それを中国国民や本人はどう考えているのであろう。
世界の諸国家が近代化を成す時には、国民を啓もうする意味でのスローガンが必要なことは洋の東西を問わず、日本でも同じように近代化の指針を示すべきスローガンがあった。
それが教育勅語であるが、この教育勅語と中国共産党の3大規律8項注意を比較検討してみると、中国のスローガンの方が極めて具体的で開明的な文言となっている。
日本の教育勅語を同じスタイルで列挙してみると
1、親に孝行、
2、兄弟は仲良く。
3、夫婦は仲睦まじく
4、友達は信じ合いましょう。
5、自分の言動を慎み
9、人格の向上に努めましょう。
10、世のため人のためにつくしましょう。
11、法律を守りましょう。
12、勇気をもって国のために尽くしましょう。
となっており、その内容はかなり抽象的に世情の倫理観を説き、人格の向上を狙った趣がある。
中国のスローガンは『ガリア戦記』の野蛮人に切々と文明を説いている感がするが、日本の場合は既に文明を会得した人に向かって、更なる向上を願っての問い掛けをしているように私には見える。
中国の8大注意の内容は、人としての極々当たりまえの倫理観であって、中国共産党は長征の途中で集まって来た無頼の人々に対して、この点から説かねばならなかったが、日本の場合は国土が狭い分、文化文明も均一化されていたので、そのレベルを飛び越えて、もぅ一段上の倫理を説く必要があったと解釈できる。
しかし、21世紀に中華人民共和国というのは革命から半世紀を経ているわけで、革命の理念を大部分の人が見失ってしまって、元の野蛮人に戻ってしまっているが、物質文明だけは後戻りできないので、結果として野蛮人が近代的な兵器を持った構図になっている。
自分たちの武力が相手、つまり日本よりも巨大で強いとなると、それを背景に居丈高な振る舞いになってくるわけで、それを戒める言葉が8項注意の中の5項目の「人をののしるな」にあたるが、彼らにはもうすでにこのスローガンそのものが忘れ去られているに違いない。
あの10年にも及ぶ文化大革命は、中国の4千年とも5千年ともいう価値観を完全に全否定してしまったので、捨て去られた中には中国共産党の結党の理念、建国の理念も、きれいさっぱり捨て去られたに違いない。
残ったのは赤裸々な自然人としての思考のみで、究極の自己愛、自己弁護、自己利益の追求のみで、彼ら中国人の存在そのものが地球規模で諸悪の根源になっている。
13億の心理的野蛮人が世界を侵食しているのである。
21世紀の地球で、中国人の一人もいない国、地域というのはありうるであろうか。
我々日本人から中国を眺めると、どうしても文化文明の上流という意識が抜けきれずに、遠慮がちに腰の引けた対応になりがちであるが、この日本人の美徳を弱腰とみてあなどってくるのである。
我々は、中国人を信用してはならないということが頭ではなんとなく判るが、現実にはそれを直截に実践することに躊躇してしまう。
要するに、中国人を見る目が甘いということである。
だから「庇を貸して母屋を盗られる」ということになるのである。
中国に進出した日本企業の在り様を見れば一目瞭然であるが、そんなことは進出する前から自明なことで、それを知りつつ進出したということは、完全に日本企業の自己責任である。
8項注意の中には「壊したものは弁償する」ことが謳われているが果たしてどこまで実践されるであろう。
中国を信じる方がバカだ、というれっきとした事例ではないか。
福沢諭吉の『脱亜論』をよくよく吟味して読み返してみるべきだ。
しかし、中国が日本の隣国である現実は変えようがないわけで、こういう価値観の合わない国と如何に付き合うかという問題は、今後の我々にとっても実に悩ましいことである。


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