先週は町内のお祭りであったが、今日は春日井市のお祭りに行ってきた。
これは何の役目もついていないので純粋に見るだけで、お祭りの様子をゆっくり観察することができた。
予め広報で調べておいたので、目的の会場に直行して、そこで始まるのを待っていた。
市庁舎の中で行われるダンスを見ようと思った。
ジャズ・ダンスだとかヒップホップ・ダンスだか知らないが、ああいうものを幼稚園児のような小さな子供にさせるということは、親なり、教える側のセンスが疑われる。
子供の方は、教えられたとおりに健気に体を動かしているが、あれでは完全に大人のコピーであって、ミニ大人を作っているようなもので、その創造性に疑問を感じる。
大人と同じことを幼児にさせるということは、子供にっては酷なことだと思うが、それに気が付かない周りの大人は、如何にも現代の人間らしい在り様だと思う。
如何なる文化も、最初は模倣から始まるのであろうが、それを小さな子供に押し付けるというのは、大いに考えさせられた。
ダンスそのものは小さな子供とはいえ上手にこなしていたが、その衣装といい、ヘアスタイルといい、全て大人のバイアスが掛かっているところがいじましい。
大人の擬態のようなガキの踊りの中にも、フラメンコのダンスがあったが、これは完全に大人のもので、黄昏かけた大人が安心して眺めておれる出し物であった。
ただ舞台が、コンクリートの床に薄いフェルトを敷いたような状況で、フラメンコの踊りには最悪の舞台ではなかったかと思う。
フラメンコと言えば、足で床を叩きだす音も、音楽の一部なのに、その部分がコンクリートの床では、出すべき音が出せなかったので、ダンサーにとっては最悪のコンデイションではなかったと思う。
それに彼女たちはカスタネットも持っていなかったが、これは一体どういう事なのであろう。
私にとってフラメンコと言えばカスタネットがついて回るので、不思議でならなかった。
タップを踏んでも床からの反響の無いフラメンコ・ダンスでは、気の抜けたサイダーと同じで、価値が半減していると思う。ダンサーが可哀そうだ。
映画『裸足のボレロ』の中で、田舎の木の下のダンスのシーンが頭の中を横切って行った。
これは何の役目もついていないので純粋に見るだけで、お祭りの様子をゆっくり観察することができた。
予め広報で調べておいたので、目的の会場に直行して、そこで始まるのを待っていた。
市庁舎の中で行われるダンスを見ようと思った。
ジャズ・ダンスだとかヒップホップ・ダンスだか知らないが、ああいうものを幼稚園児のような小さな子供にさせるということは、親なり、教える側のセンスが疑われる。
子供の方は、教えられたとおりに健気に体を動かしているが、あれでは完全に大人のコピーであって、ミニ大人を作っているようなもので、その創造性に疑問を感じる。
大人と同じことを幼児にさせるということは、子供にっては酷なことだと思うが、それに気が付かない周りの大人は、如何にも現代の人間らしい在り様だと思う。
如何なる文化も、最初は模倣から始まるのであろうが、それを小さな子供に押し付けるというのは、大いに考えさせられた。
ダンスそのものは小さな子供とはいえ上手にこなしていたが、その衣装といい、ヘアスタイルといい、全て大人のバイアスが掛かっているところがいじましい。
大人の擬態のようなガキの踊りの中にも、フラメンコのダンスがあったが、これは完全に大人のもので、黄昏かけた大人が安心して眺めておれる出し物であった。
ただ舞台が、コンクリートの床に薄いフェルトを敷いたような状況で、フラメンコの踊りには最悪の舞台ではなかったかと思う。
フラメンコと言えば、足で床を叩きだす音も、音楽の一部なのに、その部分がコンクリートの床では、出すべき音が出せなかったので、ダンサーにとっては最悪のコンデイションではなかったと思う。
それに彼女たちはカスタネットも持っていなかったが、これは一体どういう事なのであろう。
私にとってフラメンコと言えばカスタネットがついて回るので、不思議でならなかった。
タップを踏んでも床からの反響の無いフラメンコ・ダンスでは、気の抜けたサイダーと同じで、価値が半減していると思う。ダンサーが可哀そうだ。
映画『裸足のボレロ』の中で、田舎の木の下のダンスのシーンが頭の中を横切って行った。