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『「人災」揺るがず』という大見出し

2012-07-25 10:41:49 | Weblog
7月24日の中日新聞朝刊30ページには『「人災」揺るがず』という大見出しで、東京電力福島第1原子力発電所の事故調査に関する記事が出ていた。
この昨年の3月11日に起きた大事故に関しては、あまりにも事故の規模が大きくて、日本のみならず世界的な大問題になっていることは周知の事実である。
この事故は、甚大な被害をもたらした未曾有の事故なので、徹底的な原因究明ということは避けては通れないであろう。
だが、問題とすべきは、その原因究明の仕方というべきか、そのアプローチの在り方であって、事件が発生して既に1年4カ月が過ぎたので、いろいろな組織が原因究明に立ち上がって、その作業も佳境に入って、結論が出始めた。
この日の中日新聞の報ずるところでは、昨日23日に結果報告をしたのは政府事故調査検証委員会の報告で、それ以前には国会事故調査委員会、民間事故独立検証委員会、東京電力調査委員会と単純に見ても4つもの組織が同じ事故を調査しているということになる。
言うまでもなく常識的に考えて、こういう委員会のメンバーは、そのあたりのオッサンやオバサンではなく、それ相応に学識経験豊富で、知見の高い人たちである。
こういう人たちが4つもグループを作って、一つの課題の究明に当たれば、答えは一つに収斂されないことは火を見るよりも明らかなことである。
こんな原発事故を引き合いに出さなくとも、過去の事件でも高名な学識経験者に鑑定を依頼すれば、結論が見いだせなくなって、迷宮入りになることは掃いて捨てるほどある。
古い事件で言えば、下山事件では死後轢断かそうでないかで結論は正反対だし、名張ぶどう酒事件では、歯形が一致するしないで結論は正反対になっている。
高名な学識経験者が、たった一つの真実を見て、結論が正反対になるということならば、彼らの習得した学識経験というものは一体何なのか、ということになるではないか。
今回の東京電力福島第1原子力発電所の事故調査でも、学者を大勢集めてきて「ああでもないこうでもない」と議論を深めれば深めるほど、真実は闇に中に潜り込んでしまうはないか。
大勢の専門家が、一つの真実を掘り下げれば掘り下げるほど、結果が多岐にわたるということは、専門家の持っている知見が、確定的な真実や真理ではないので、それから導かれる結論が他者の攻撃にもろくも敗れ去るということである。
しかし、相手の主張に簡単に屈服してしまえば、自分の権威の低下につながるので、そこで無理を承知で、自己の主張を押し通そうとするので、正反対の結論に至るというわけだ。
今回の事故調査においても、東京電力の事故調査は企業として当然の措置である。
企業の事故調査報告である以上、自分たちに都合の悪い事は隠し、支援の得やすい報告になるのは当然のことである。
当然のこと、公平な視点には立てないわけで、色メガネであるということを考慮して眺めなければならない。
民間の調査委員会というのも、国と企業が癒着して真実を隠ぺいするのではないかという危惧の下に、そうあってはならじというわけで、民間の組織で原因究明をするという志は立派だと思うが、民間だけの力でどこまで真実に迫れるかは甚だ心もとない。
こういう意地の悪い見方を考慮した所為かどうかは知らないが、国の調査機関が二つも同時に存在するというのも実に妙なことではなかろうか。
つまり、政府も国会も自分たちの選択した委員の言う事が信用ならないので、その安全策として2系統のセフテイーネットを講じたという事なのであろうか。
この各々の機関のそれぞれの委員は、それぞれにその分野の専門家なわけで、専門家である限りにおいては、それぞれに確たる信念で持って語られるわけで、その結論はそれぞれに違って当然だと思う。
結果として、甲論乙駁、百家争鳴、十人十色の意見が出て、収斂することはないに違いない。
それぞれの委員会の中では、大方の意見に集約して、各個人では異論を内包しながらも、表面上は一応の妥協でもって意見を一まとめにしての発表であろうと想像する。
この日の新聞の大見出しも『「人災」揺るがず』となっているが、この事件はメデイアの報道を見ているだけでも、「人災」ということは素人目にも明らかではないか。
これはある意味で戦争と同じことであって、我々は戦後67年間も戦争という感覚で自分の身の回りで起きたことを考えたことがないので、その対応に齟齬が生じたのである。
地震が起きて、それによって津波が襲い、原子炉が破損してメルトダウンに至ったという事態は、明らかに国家存亡の危機であった。
民主党政権、および民主党員は、平和志向が極めて強い平和ボケの集団なので、国家存亡の危機という感覚が今に至っても認識しきれていない。
その平和ボケの感覚は、東京電力の社内においても、原子炉のメルトダウンが国家存亡の危機に瀕している、という認識には至っていないと思う。
かつての大戦中の日本軍は、侵攻した先々で、想定外の事態に直面したにもかかわらず、既定の過去の戦訓のみを規範として戦っていたので、大きな敗北に至ったのである。
戦争を遂行する、前線で敵と戦うということは、常に想定外の出来事に遭遇しながらの戦いなわけで、「敵が想定外の出方をしたので負けました」では、軍人、軍部、軍隊として意味をなさない。
かつての日本の軍隊というのは、こういう発想の元で、組織そのものが官僚化していて、常態化した想定外の事態に対して、その対応に失敗したということである。
しかし、軍隊の対応の不味さの元には、政治の舵取りという部分も大いに内在しているわけで、この両者の対応の不味さが相乗効果をなして、大惨事に至ったといえる。
この考え方を今回の原子炉のメルトダウンという事故に置き換えれば、東京電力の組織は、昔の日本軍の組織と同じ軌跡を歩んでいるわけで、政府は政府で、国家の存亡の危機という認識もないままに、人気取り、あるいは良いとこ取り、あるいはスタンドプレーに走ったわけで、事故の本質を全く知らないままに盲人が像を撫ぜるような対応に処したというわけだ。
このすべての報告書が、「万が一の時の備えを考えていなかった」という点を指摘しているが、これは事故後の部外者の無責任な発想だろうと思う。
今回の事故は巨大な地震と津波で原子炉の補器が破損したことで、冷却水を送ることができずメルトダウンに至ったという事であるが、東北地方であるがゆえに地震と津波の被害はある程度は想定に中にあったと思う。
ところが、地震が震度9という今までにない大きなものということは想定外であった。
この巨大地震をあらかじめ想定するということは極めて困難なことだと思う。
事後であればこそ、そういう事が言えるが、「千年に一度あるかないかの地震に対して、安全策を講じよ」という発想は無責任だといえる。
それに関連して、「だから原子力発電は危険だから全部やめてしまえ」という論議も、極めて短絡的な議論であって、こういう発言も良い子ぶった物わかりの良い人気取りのスタンドプレー以外の何物でもない。
ただ、原子力発電という事業は、巨大な資金を要する事業で、誰でも彼でもベンチャー企業できるものではないので、それを推し進めるについては、専門家集団を形成せざるを得ず、それを傍から眺めると原子力村と映ることは致し方ない。
問題は、この原子力村の中の人々が、普通の社会通念上の常識でもって事を処すれば、そう大きな齟齬は生じないはずである。
この原子力村の中の人々が、「どうせ部外者には言っても判らないであろう」と、高を括って自分たちの論理で事を処すと、大きな過誤を招くに違いない。
今回の福島第1発電所の事故でも、地震と津波を受けて東京電力の社内の組織が右往左往して、混乱状態に陥り、指揮命令系統が錯綜して収集がつかなくなってしまったというわけだ。
飛行機にはファイル・セイフという考え方があって、一つの機能が失われても、第2、第3の安全策が使えるようになっているが、原子炉にも当然そういう発想はあったに違いない。
ところがそういう安全策を講ずることは当然のことコストを圧迫するわけで、その部分の甘さが結果としてこういう事故につながったと考えられる。
飛行機の安全策ならば、それに瑕疵があれば直ちに飛行機は墜落してしまうので、ファイル・セイフは切実な問題であるが、原子炉の場合は、そういう目に見る形での瑕疵はないわけで、目に見えないからこそ緊迫感に欠け、疎かになり、安全に対する感覚がマヒしてしまったという事なのであろう。
昔の日本軍が「敵を知り己を知る」という兵法の根本を無視して、奢った思想に嵌り込んで、自縄自縛から抜け出せなかったのと同じ轍を踏襲したという事だ。
昔の日本軍でも、今の東京電力の組織でも、その中枢をなす人たちは、人並み以上に優れた人たちであろうに、どうしてこういう愚昧な失敗をしでかすのだろう。


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