昨日、小学生の孫の運動会を見に行ってきた。
秋晴れの良い天気で子供たちはのびのびと運動会を楽しんでいた。
平和な秋のひと時であったが、私にはいささか考えさせられる一幕があった。
というのは徒競走で一生懸命走っている子供の姿を見ようと、1年生か2年生と思われるくらいのクラスの横に行った時、彼らの応援のシュプレヒコールが「オスプレイカエレ、オスプレイカエレ」というものであった。
最初のうちは何を言っているのか理解できなかったが、よく耳を澄まして聞いて見ると「オスプレイ帰れ!」と言っているようだ。
当人たちはその意味も分かっていないだろうし、先生も教えたわけではないと思う。
そのクラスの中に誰か一人ませた子がいて、沖縄の反体制運動の一環としてのオスプレイ配備反対の画面を見て、それを応援のつもりで大声で叫んだものが、グループ全体に広がっただけのことだと想像する。
テレビの画面に映ったことを、すぐに子供が真似をするということは、テレビ時代になってからは往々にしてあることで、そのこと事態は目新しいものではない。
しかし、考えねばならないことは、それが子供の世界だけのことではなく、大人の世界にも往々にしてあるという事であって、昨今の世相の混乱、混迷は、テレビというメデイアによって引き起こされているのではないか思われる。
対中関係も、尖閣列島の問題など、テレビというメデイアによって明らかに拡大された節がある。
テレビの無い時代だってナショナリズムは大いに盛隆を極めたわけで、極端なナショナリズムがテレビの所為とばかりは言えないが、テレビの映像が世相を形つくるツールになっていることは確かだと思う。
我々が心しなければならないことは、テレビに映った映像を鵜呑みにして、自己の理解を深めたと思い違いをしてはならない、という洞察力の構築である。
テレビで放映された沖縄のオスプレイ配備反対のデモ隊のシュプレヒコールを、小学生が運動会で使っている分には頬笑んで見ておれるが、これと同じことを大の大人が演じているとなると噴飯ものである。
ところが、当人たちはそれに気が付かないところが悲しき現状である。
約40年以上前の反政府運動、反体制運動、例えば安保闘争、学園紛争の時代にも既にテレビはあって、テレビというメデイアはそれを克明に国民に知らしめた。
結果として、事の本質知らないまま、いや知ろうともせずにデモに参加し、自分は世直しに貢献した気分に浸っていた知識人、文化人、大学教授、学生たちがいたわけで、そういう人達が今社会の中枢を成している。
テレビ界のモンスター・田原総一郎自身が述懐している中にも、「日米安保条約の条文を読んだこともないのに、デモに加わっていた」と言っているので、他の人は推して知るべしである。
こういう、自分の脳で物事を考える行為を遺棄した知識人が世に跋扈した挙句が、日本の社会が混迷の極みに至ったという事だと思う。
昨年の東日本大震災で、原子力発電所で大きな事故が起き、大きな被害をこうむったから、「金輪際、日本では原子力発電をしない、禁止する」という発想は、まさしく子供の思考でしかないではないか。
目の前の現実に対して、絵に描いた餅を張り付けて、それを拝んでいさえすれば、災禍は防げるという発想は実にナンセンスそのものではないか。
秋晴れの良い天気で子供たちはのびのびと運動会を楽しんでいた。
平和な秋のひと時であったが、私にはいささか考えさせられる一幕があった。
というのは徒競走で一生懸命走っている子供の姿を見ようと、1年生か2年生と思われるくらいのクラスの横に行った時、彼らの応援のシュプレヒコールが「オスプレイカエレ、オスプレイカエレ」というものであった。
最初のうちは何を言っているのか理解できなかったが、よく耳を澄まして聞いて見ると「オスプレイ帰れ!」と言っているようだ。
当人たちはその意味も分かっていないだろうし、先生も教えたわけではないと思う。
そのクラスの中に誰か一人ませた子がいて、沖縄の反体制運動の一環としてのオスプレイ配備反対の画面を見て、それを応援のつもりで大声で叫んだものが、グループ全体に広がっただけのことだと想像する。
テレビの画面に映ったことを、すぐに子供が真似をするということは、テレビ時代になってからは往々にしてあることで、そのこと事態は目新しいものではない。
しかし、考えねばならないことは、それが子供の世界だけのことではなく、大人の世界にも往々にしてあるという事であって、昨今の世相の混乱、混迷は、テレビというメデイアによって引き起こされているのではないか思われる。
対中関係も、尖閣列島の問題など、テレビというメデイアによって明らかに拡大された節がある。
テレビの無い時代だってナショナリズムは大いに盛隆を極めたわけで、極端なナショナリズムがテレビの所為とばかりは言えないが、テレビの映像が世相を形つくるツールになっていることは確かだと思う。
我々が心しなければならないことは、テレビに映った映像を鵜呑みにして、自己の理解を深めたと思い違いをしてはならない、という洞察力の構築である。
テレビで放映された沖縄のオスプレイ配備反対のデモ隊のシュプレヒコールを、小学生が運動会で使っている分には頬笑んで見ておれるが、これと同じことを大の大人が演じているとなると噴飯ものである。
ところが、当人たちはそれに気が付かないところが悲しき現状である。
約40年以上前の反政府運動、反体制運動、例えば安保闘争、学園紛争の時代にも既にテレビはあって、テレビというメデイアはそれを克明に国民に知らしめた。
結果として、事の本質知らないまま、いや知ろうともせずにデモに参加し、自分は世直しに貢献した気分に浸っていた知識人、文化人、大学教授、学生たちがいたわけで、そういう人達が今社会の中枢を成している。
テレビ界のモンスター・田原総一郎自身が述懐している中にも、「日米安保条約の条文を読んだこともないのに、デモに加わっていた」と言っているので、他の人は推して知るべしである。
こういう、自分の脳で物事を考える行為を遺棄した知識人が世に跋扈した挙句が、日本の社会が混迷の極みに至ったという事だと思う。
昨年の東日本大震災で、原子力発電所で大きな事故が起き、大きな被害をこうむったから、「金輪際、日本では原子力発電をしない、禁止する」という発想は、まさしく子供の思考でしかないではないか。
目の前の現実に対して、絵に描いた餅を張り付けて、それを拝んでいさえすれば、災禍は防げるという発想は実にナンセンスそのものではないか。