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竹島問題

2012-08-25 09:43:36 | Weblog
今年の夏(平成24年)に日本を取り巻くアジアの周辺諸国の動向を見ていると、私は日本語で言うところの『さもしい根性』という言葉を彷彿させられた。
「さもしい」という日本語は、「卑しい」という言葉に限りなく近い語感を持っていて、それは日本語の価値観の中ではほぼ同意語だと思う。
この二つの言葉の正確な使い分けは、浅薄な私には荷が重いが、問題は、我々の価値観が相手に通じないとき、これは感情論の迷路に嵌りこんでしまうということである。
価値観が違うということは、それぞれに違う土俵で一人相撲を取っている図でしかなく、物事の相互理解を深めることに何一つ貢献する要因がない。
東アジアの諸民族の思考の底には、大なり小なり儒教思想というものが伏流水として流れていると思う。
だいたいどの民族でも、年上の者を敬い、皆仲良く、お互いに協力し合って、日々の生活に素直に順応しなさい、というような人の生き様を規定する言葉には、民族が違うからといってそう大きな違いはないと思う。
儒教という土俵の中で、価値観を共有しているはずだが、それが現実にはそうなっていなくて、それぞれが法と秩序に則って正義を貫いているつもりではあるが、その法と秩序という土俵そのものが同じ基準ではなかったというわけだ。
だがこれは生きるということに対するミニマムの潜在意識であって、人間の集団の中に生れ落ちた一人の赤ん坊は、成長するに従い周辺から色んな情報を習得して、潜在意識とは別の後天的な思考を身に付けるのが普通で、この人間の集合がそれぞれの個人の生き方を大きく左右する。
この世に生まれ出た人間は、自分自身が生きんがために、無意識のうちに生命維持のためのベストの選択をするが、その上に後天的に後からついた知恵が集合して、それがマスとして集大成された時、それがある民族の文化になるものと私は考える。
この文化は、その人間の生きる環境、置かれた場所によって、当然のこと地勢的な影響を大きく受ける。
言うまでもなく砂漠で生きる民と、北海の寒冷地で生きる民では考え方も発想も違っていると思う。
この違いは砂漠と寒冷地というような極端な例を持ち出すまでもなく、海を隔てた島と大陸の間にも当然あって当たり前だと考えられる。
それは今さら言うまでもなく、日本とアジア諸国の間にもあって当然なわけで、それが今回の韓国大統領の竹島上陸の問題であり、尖閣列島に対する中国の活動家たちの上陸であったと思う。
特に、韓国の大統領が竹島に上陸したということは、韓国国内向けのパフォーマンスであり、日本に対する恫喝でもあるわけで、こういう恫喝を臆面もなく行うという発想が、朝鮮人の朝鮮人たる所以であって、その部分が、我々日本人から見て「さもしい」という言葉が見事に当てはまるという事だ。
67年前、日本が完膚なきまでにアメリカに敗北した時、焼野原の東京や横浜で、朝鮮人は「自分たちは戦勝国の人間だ」と言って傍若無人に振る舞って、敗戦で権威を失った警察では手に負えず、暴力団の手を借りなければ治められなかった。
つい先ほどまで日本人に対して上目使いに協力する振りをしていても、日本の敗北が現実のものとわかると、臆面もなく掌を反して、水に落ちた犬を叩く、つまり弱みを見せると直ちにつけあがる、というのが彼ら朝鮮人の潜在意識であり、それが彼らの民族性でもある。
戦後の李承晩ラインの設定も、彼ら朝鮮人に弱みを見せると徹底的につけあがる、という典型的な事例であって、竹島はその時に李承晩ラインの内側に設定されたことにより、彼らは自国領だと主張する根拠にしているのである。
こういう態度を武士道をわきまえた日本人は心底軽蔑するが、朝鮮人にはこの我が同胞、日本民族の矜持が理解できないままなのである。
日本の武士道精神は、我が同胞の潜在的な至高の価値観であって、個々の同胞は須らくこの精神に準拠して身を律することを誇りに思っているが、朝鮮人にはこういう民族固有の気高い潜在意識があるようには見えない。
だから彼らの価値観として、そういう行為が人として卑しい行為、さもしい行為、品のない立ち居振る舞い、という認識は微塵も存在していないということだ。
この彼らの潜在意識、彼らの民族性は、日本人の価値観からするとまさしく「さもしい根性」という表現でしか言いようがない。
自分たちの弱さをカモフラージュするために虚勢を張っている姿にしか見えないではないか。
最近の日本はほぼ1年交代で首相が代わっているので、如何にも弱体化したように他者の目に映るのは致し方ないが、その隙を突いて既成事実を作り上げようという魂胆が、戦後の焼野原であばれた朝鮮人同胞の振る舞いと軌を一にしているではないか。
大阪生まれ李明博大統領がその辺りの事情を知らないわけでもない筈なのに、敢えてそれをしたということは、朝鮮民族の民族的潜在意識を脈々と引き継いでいるわけで、それはとりもなおさず我々の価値観で言うところの「さもしい根性」の見事な具現化という他ない。
この「さもしさ」というのは、大統領の竹島訪問のみならず、彼らのいう従軍慰安婦の問題にもいえている。
そもそもこの従軍慰安婦という言葉は日本語にはないモノだが、昨今では日本語の辞書にも掲載されるようになった。
こういう点が「嘘も100篇繰り返すと真実になる」という顕著な事例である。
朝鮮人の「さもしさ」の事例としても、こういう売春婦を政治の舞台に引っ張り上げて、朝鮮の政治家は「こういう賤しい人々の味方でもあるのだよ」ということを臆面もなくPRする心根が問題だと思う。
売春婦までも味方に引き入れなければ、大統領としての人気が維持できないというところが「さもしさ」の具現でもあるわけだ。
もっとも、従軍慰安婦という日本語が日本に無いように、「さもしい」という情感を表現する朝鮮語も、彼らには無いのかもしれない。
我々の価値観では、売春婦というのは最下層の女性という位置づけであるが、朝鮮では必ずしもそうではなくて、案外、社会的な地位が高い職業なのかもしれない。
だからこそ彼の国の大統領までもが、そういう賤業の女性の地位向上に情熱を傾けているのかもしれない。価値観の相違というのは克服のしようがない。
他人の嗜好に良し悪しがつけられないのと同じで、相手が「嫌いだ」というのに「好きになれ」といっても埒が明かないのと同じで、これは平行線のままで終わるほかない。
相手の言い分に整合性がないので、無視するとこちらの不誠実を声高に詰って、自分たちの土俵に上げようとするが、論理的に整合性の在る議論の組み立てを拒み、感情論のみで、「嘘も100回言えば真実になる」という世界なので、私たちとしては対応のしようがない。
彼らには日本流の価値観は通じないことは重々わかっているが、こういう論理の判らない相手に対しては、どういう対処の仕方があるのであろう。
地球規模で見て1+1は2であり、2+2は4であるが、朝鮮民族に限ってはこれがそのまま通らないわけで、1+1が3であり、2+2は5なわけで、「あなた方は間違っていますよ」と言っても、「朝鮮ではこうなのだ」と言われると、後の話が続かなくなってしまう。


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