ものはついでに、新潮社「名短篇」を読み返してみた。こちらは「新潮」創刊100周年(通巻1200号)を記念し、荒川洋治氏を編集長に6年前に刊行されている。そのなかの谷崎潤一郎「京羽二重」を読むと、新潮社が大文豪谷崎を京都の料亭において接待する一部始終が接待される谷崎側から描かれている。豪華絢爛に尽きる宴模様を知るにつけ、一流文士と文芸出版社がとても幸せだった時代について夢想させられる。
なかから一編、太宰治「俗天使」について。これはどうも、へんてこりんな短編である。
作者である“私”は、いつもどおり出版社からの依頼で“例の如き作品”を書きかけるのだが、途中ミケランジェロの「最後の審判」の写真版を見た途端、“例の如き作品”を書き続けるのが馬鹿馬鹿しくなった。でも、担当への義理もあり、明後日までに新潮社に20枚の短編を送らねばならない。やぶれかぶれで「私にも陋巷の聖母があった」という言葉が浮かび、聖母とは似ても似つかぬ女性との邂逅をあれこれ振り返ってみる。ついにはそれも尽き、後半は架空の女性からの自分宛の手紙文でお茶を濁し、最後はついに、こんなふうに結んでいる。「作者は、いま、理由もなく不機嫌である」。
このような書きなぐりに不機嫌もなにもあったものでないと思うのだが、この時の太宰の書くことへの倦怠が、その後の軌跡、つまりは生きることへの倦怠へとつながったのだろう。短編そのものの評価でいうと、駄作である(私はそう思う)。あえて見どころ読みどころを探せば、太宰という天才の懊悩の在り処を垣間見ることが出来ること、そして、本短編に「人間失格」執筆の予告があることくらいか。きっと、編集サイドの狙いとそれほど乖離してはいないと思うのだが・・。
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