読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

吉行淳之介 編 「奇妙な味の小説」

2016-04-09 07:02:57 | Weblog


 いつもの古本屋さんにて購入。
 編者あとがきには、「《奇妙な味》をコンセプトとしたアンソロジー(選集)」とある。全16篇。昭和45年に発行、同63年に文庫化されている。玉石混交・・の感は否めないが、それはそれで《奇妙な味》の選集ということか・・。

 星新一、柴田錬三郎、近藤啓太郎、開高健など、なつかしい名前がならぶなかで、近藤啓太郎「勝負師」が純粋に面白かった。昭和の一時代を風靡した囲碁棋士を実名で登場させている。特にラストには、“カミソリ”と称された棋士の勝負への鬼気迫る執念が描かれている。

 小松左京「召集令状」は、いろんなことを考えさせられる作品だった。
 ある日突然、一人の青年のもとに戦時中の赤紙(召集令状)が届く。きっと何かのいたずらだろうと赤紙を屑籠に捨てた青年は後日失踪。その後、他の同年代の青年にも同じ現象が起き、日本全国に広まっていく。結局それは、時空のねじれによるパラレルワールド、並行するもう一つの世界との接触が原因だった。そしてさらに・・。ネタバラシが目的ではないのでここまでとするが、小松左京という作家の洞察力を窺い知ることができる箇所があるので、挙げておきたい。
 全国的に、赤紙をもらった青年が失踪する現象が広まり、反戦行動が起る。

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…小松左京「召集令状」より

かわってあらわれたのは、陰惨でひたむきな、そしてどう考えてもまとはずれな反戦ムードだった。
「私たちの愛する子供や夫や恋人を、恐ろしい軍隊の手から守りましょう」
母親や主婦の団体が、連日大会をひらいてこう叫んだ。・・・・・たしかにこの招集に対しては、男たちよりも、女たちの方がはげしくたたかう姿勢をしめした。・・・・・だが、たたかうといっても、いったいどうやって?何に対して?
「君たちも、今度はいっしょにたたかってくれ」左翼関係の男が、私たちをアジリに来た。「前の戦争の時は、みんな戦争はいやだという気はありながら、何もせずにズルズルと戦争にまきこまれていった。・・・・・今度こそあの悲惨の二の舞をしないように、われわれは結束してたたかわねばならん」
「何に対して?」と私たちは聞いた。
「むろん、戦争勢力に対してだ!」男は手をふりまわした。
「これはどこか、世界の裏側にかくれている戦争勢力の陰謀にちがいない」
「で、どうやって?」
「国民みんなが団結して否といおう!」男は絶叫した。たとえ君たちがついてこなくとも、おれはただ一人でたたかうぞ。召集をあくまで拒否し、地下にもぐって抵抗をつづける!」

「戦争反対」「召集拒否」のプラカードをもった婦人団体のデモが、毎日街に見られるようになった。・・・・・しかし、その叫びは、まとはずれなままに、いたずらにヒステリックな調子をおびてゆくばかりだった。
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 戦争というとめどない狂気に突然出くわした庶民の行動への、小松左京の洞察は面白い。今から20年ほど前の作品なのだが、現在の社会状況と重ね合わせたくもなる。少し考えすぎだろうか・・。




中村彰彦・山内昌之 「黒船以降」

2016-03-23 07:15:46 | Weblog


 前作「黒船以前 パックス・トクガワーナの時代」の続編である。
 前作が好評だったので、その二匹目を狙ったといったところだろうか。前作同様、世にあまり知られていないエピソードをおりまぜながら時代と人を語り合うという出だしは良かったが、話が進むにつれ、微に入り過ぎて、焦点がぼけてしまったような感がある。
 最終章で、ついでのように保科正之を取りあげているのだが、どうせなら最初に保科を取りあげ、保科が残した遺産としての幕末官僚の活躍という本線から枝葉を広げられなかったか。(こういうのを何とかの卵というのだったろうか・・。)

 とはいいながらも、興味ぶかかった対話の中からひとつ。
 《長州藩の好戦的な体質》という項で、中村彰彦氏は、幕末の長州で活躍した吉田松陰・高杉晋作・山形有朋の三人に共通する身体的特徴として、「顔が長い」ことを指摘している。そのうえで、遠い古代の弥生人が好戦的だったこと、そして長州が大陸文化の窓口だったことをあげ、維新前後に限らず好戦的な長州人の体質は、いわゆる弥生人の渡来と無関係ではないのではないか、というのである。あまりにも飛躍的で、少し間違えば物議をかもしかねない発言である。ただ、応仁の乱を皮切りに100年にわたり殺し合いを繰り返した日本人の好戦的体質が、どこから来たのかを探る一端としては、とても面白く読めた。

佐野眞一「渋沢家三代」(再読)

2016-03-10 10:21:09 | Weblog

 約15年ぶりの再読になる。
 著者には「旅する巨人 宮本常一と渋沢敬三」という作品があり、本書はその中に登場する渋沢敬三についての書き足りない部分を一冊にまとめたものである。「旅する巨人」の2年後、1998年に発行されている。
 “昭和の菅江真澄”とうたわれた宮本常一を、物心両面で支え続けた渋沢敬三とはどんな人物だったのか。そして、その資料渉猟の中に浮かび上がってくる、渋沢栄一という巨魁。著者は、栄一から篤二、敬三へ至る渋沢家の歴史を書くことで、「今や歴史教科書の中に溶暗しかかった」渋沢三代を現代によみがえらせようとした。
 この内容を新書版でというのには少々無理があるように思うが、日本近代の一面の素描として読むには、これはこれでいいのかもしれない。

蛇足をすこし・・。
 著者は、あとがきにおいて『穂積歌子日記』の引用に触れている。穂積歌子は栄一の長女で、法学者穂積陳重の妻である。歌子は1890年から亡くなるまで周辺のことを日記に書き続けた。あとがきで、未公刊部分をも含めた『穂積歌子日記』なくして本書の刊行はなかったと振り返るように、この日記には、栄一・篤二・敬三に関する生々しい出来事が記載されている。さらには、当時の政治経済はじめ、法学・文化・民俗学の周辺を知るうえでも、貴重な資料とされている。結構高価なのだそうで、機会があれば、図書館から借りて読んでみたいものである。




北大路魯山人 「魯山人味道」(再読)

2016-02-19 07:54:54 | Weblog

 先に読んだ阿井景子「おもかげ」に魯山人の名があったのを機に、久し振りに再読。 
 北大路魯山人は、本名を房次郎といった。京都の上鴨川神社の社家(宮守)の子として生まれるも、父の自殺をかわきりに貧農の家に里子に出され、その後何度も養家を転々とした。「兄弟もなし、叔父叔母も、およそ血縁というものに何の縁もなしに、この年まで来ちゃった」と振り返るように、およそ肉親の情愛とは無縁な少年期を過ごした。魯山人が最初にその才を世に知らしめたのは、書においてだった。21歳で日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し、書家に弟子入りし修行を積み、やがて独立する。魯山人はその頃得た収入を、書道・絵画・陶芸の研究や外食に惜しみなくつぎ込んだという。
 この雌伏の時代が、40代までつづいた。その後魯山人が本格的に食の世界に足を踏みいれることになるきっかけを、本人はこのように述懐する。

 「由来?ウン、あれはネ、便利堂の中村竹四郎君が、仕事がないというので、僕も書画道楽だし、いっしょに東中通りに美術店を開いた。大雅堂という店名のね。そのうち常連も出来て、毎日うなぎとかなんとか料理が入る。僕は、ほんとうを言って、そんな料理は美味くはないので、自分だけ、里芋のいいのがあるとこれを煮たり、なすのいいのを見つけて料理したり、塩じゃけを焼いたりして食べたものだ。すると、他の連中が見つけて、美味そうだな、俺にも一つ、というようなことになり、そのうちに、料理屋の品よりこっちがいい、ひとつ料理方を受け持ってくれということになった。僕も好きなものだから、よろしい、とやることになった。そのうち、仲間だけで食べるのは惜しいから、『美食倶楽部』をこしらえようじゃないか、とみなが言い出すようになった。じゃあ、一食二円ということになった。やっているうちに、その中のひとりが、江木衷(法学者・弁護士)は有名な食道楽だ、あの人にぜひひとつ食べさせてやりたい、二十円の膳部をつくってくれ、と言われた。二十円なんて料理を作ったことがないので、少しまごついたが、とにかくやって見ることになった。すると江木さんがよろこんでくれる。こんどは江木さんが食通を引っぱってくるという始末で、狭い東中通りに自動車がたてこんで、巡査に注意される始末だった」(平野雅章氏あとがきより)

 これが、あの「星岡茶寮」設立のきっかけとなり、政・財・官の一流人が魯山人の料理目当てに押し寄せた。そんな食に関する魯山人の所感を一冊にまとめたのが、本書である。食に限らない対象への奥深い洞察が、読む者を取り込んでいく。今回も楽しく読み終えた。


追記
 「海にふぐ山にわらび」という一編があるのだが、これが何度読んでもいい。
 魯山人は、日本の食べ物の中でなにが一番美味かと問われれば、それはふぐだという。広島の牡蠣も、うなぎのかば焼きも、まながつおの味噌漬けも、マグロの握りずしも、すっぽんも、確かにうまいのだが、「味があるだけに、悲しいかな一段下である」という。そして、ふぐと好一対をなす山の美食に、わらびをあげ、この二つこそ無味の味、“味覚の器官を最高度にまで働かせねばやまない”極致なのだという。
 北海道の味のしっかりした魚貝に慣れ親しんできた私には、魯山人のいうふぐのうまさがいまだに理解できない。わらびも・・、近年になって少し分かるような気がしてきたが、無味の味・・には遥か遠い。多分一生無理なのだろう。




阿井景子 「おもかげ (松本清張 北大路魯山人)」

2016-02-11 13:45:31 | Weblog

 北大路魯山人の口述筆記と松本清張番の編集者を経験した著者の、思い出つづりといったところか。編集泣かせといわれた二人の巨人に対し、体当たりで信頼を得ていった経緯が詳細に描かれている。
 読後感としては・・、それなりに読ませる内容になってはいるのだが、なぜこの時期(平成7年発刊)に清張と魯山人だったのか。さらにいうなら、この二人を200ページ足らずの本に収めるって、どうなのか。いかにも安直さを感じる
 ただ、文中に松本清張が著者にあてた手紙が掲載されていて、なるほどこれが清張かと感心させられた。とりあえず、貼り付けておく。 


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『空想には翼を、文章には写実を』というのが、小生の理想とするところです。表現は多岐であっても、文章の根底には写実性がないと読む人の共感は得られません。文章の細部に写実の幕を張ることです。上田秋声のように。
それと裁断法です。ものの見方が確固としていれば、構成はできるだけ通常を避けることができます。ここに作者のアイデアが登場してきます。着想の妙は、必ずしも小説の第一義ではないが、読者を捉える、魅力ある小説を作るという点では不可欠な要素だと思います。『史眼』とともに『洗練されたセンス』が必要となってきます。(前後省略)
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三田村鳶魚 「江戸の女」

2016-02-07 10:16:16 | Weblog

 三田村鳶魚の著作の中から、昭和初期に発表された江戸の女性についての論考を一冊にまとめたものである。近世随筆の編集にも携わった著者は、膨大な文献をもとに、江戸の女性の風俗を独自の視点で考証している。

 「下女の話」を面白く読んだ。
 「下女」とはなんともすごい呼び名だが、昭和初期くらいまで普通に使っていたようで、これを「おさん」とも呼んだ。夏目漱石「吾輩は猫である」にも“吾輩”の天敵 として頻繁に登場する。その「おさん」の由来については、こうである。
 「おさん」には二つの説がある。一つは、大名屋敷に御三の間というのがあり、これは奥方のおられる部屋の次の次の間。略して「お三」。お目見え以下だった。もう一つは「炊爨(すいさん)」から来たという説。飯炊きである。なにやら古文書の中に「賤の赤前垂誰が教けん、縁先の手拭ちよつと額にかりのまゝたき風・・・・・お清所の供御炊くお爨(さん)でありんす」というのがあるそうで、そこからきたのだと。ついでに、天明のころの小話に飯炊き男のことを「さん」といっているのがあり、湯屋の「三助」は火を焚いてかまどの用意をしている意味らしい。
 はじめ、飯炊きは男のものだった。「世間胸算用」「当世乙女織」などに女の飯炊き、あるいはままたきということばがあるらしく、女の飯炊きは珍しかった。これが多くなっていく過程を考えるうえで、荒仕事力仕事に耐えられる農漁村の娘が多く江戸にでてきたことと無関係ではないと、著者はいう。
 話は戻るが、「下女」と一口にいう中にも、上中下があった。下は台所仕事、上は腰元といって奥方の側にいて万端取り仕切る。その中間に仲働きがいて、上下を取り持った。仲働きや腰元になると、洗濯・張物・縫物・裁断とさらに作法・応対もやらなければならない。
 中でも大変なのが、口上である。その時代の女性は、手紙でのやり取りをせず、口上で用を足した。使いの下女は主人の口上を一字一句間違いなく相手に伝え、返事をいただいて帰ってこれも遺漏なく復命する。女性の口上だから、これが長口上である・・。江戸には、これらを完ぺきにこなした女性がいたのである。

 鳶魚江戸学のもっとも特徴的なのは、ともすれば家父長制の犠牲者としてひとくくりにされてきた江戸の女性の中に、したたかに強く生きる姿を見出していることだろう。


鶴見俊輔・加太こうじ他「日本の大衆芸術」

2016-01-31 09:26:57 | Weblog

 これも、いつもの古本屋さんで購入の一冊。
 昭和37年に発行されている。喜劇・落語・漫才・講談・浪曲・流行歌など、日本の大衆芸術(芸能ではなく芸術)の解説書である。8名の共著となっており、代表に鶴見俊輔・加太こうじが名を連ねている。敗戦後間もない日本の大衆芸能を総括するという試み自体は面白い。しかしながら、思想的なことは・・、それはそれとしてさておくとして、あまりにも論点にまとまりがなく、テーマ間の共通性もない。ただ勢いに任せて各自の“芸術”観を述べているに過ぎない。戦後の混沌を懐かしむには、いいのかもしれないが・・。

 日ごろ節操もなく本を読んでいると、これぞ珠玉といえる作品に出合うこともあるが、その逆も少なくない。というより、結構ある。内容を確認せず著者名で購入とか、書評に惹かれて購入とか、そんな場合に多い。中には本の内容が書評を超えないような名著?もある・・。
 いつか、それらの本をずらっと並べて一言レビューを試みるのもいいかもしれない。そんな本が、行き場を失って机の一隅に積み上げられている。




青木玉 「幸田文の箪笥の引き出し」

2016-01-28 07:01:05 | Weblog


 久しぶりの古本屋さん徘徊で目にとまり、購入。
 著者の代表作、「小石川の家」の翌年に発行されている。蛇足ながら、幸田文は著者の実母で、幸田露伴は祖父にあたる。着物に造詣の深かった母子には当然それにまつわる思い出も多く、このエッセイは、「小石川」に載せきれなかった着物話の拾遺といったところか。いわゆる着物に関する専門用語がちりばめられてはいるが、知識がなくとも楽しく読み進められるのは、この著者の人柄を思わせる筆遣いのせいだろう。それはたとえば、こんなところにも表れている。著者の結婚式の招待状をお世話になった大学の先生に届けに伺う際、お気に入りの矢絣を着ていくといい張る著者に母のことば・・。
 
 「先生も見てくださると仰ったのならあんたの好きにしなさい。じゃあ帯は一格上げてつづれにしよう。丸帯はいくら何でも重すぎるからね。でも、普段のままで改まらず伺いましたが、どうぞお許しくださいと申し上げるのよ。そういうことをきちんと行き届くように、その為に口はあるのだから」

 矢絣もつづれも丸帯もよく知らなくとも、こんなやり取りだけで、つい読みこんでしまう。このような、着物のお洒落を女性がした日常が、つい50年ほど前にはあった。そんなことに感心できる本である。



イサベラ・バード 「日本奥地紀行」

2016-01-23 06:52:32 | Weblog

 
 維新後間もない政情不安真っただ中の日本にイギリスからやって来て、よりによって東北北海道への踏破を実行してしまった女性がいる。彼女は、周囲の心配や反対を押し切り、ただ一人の案内人を引き連れ、東京から東北の日本海側をめぐり、蝦夷地にわたり、念願のアイヌ集落へとたどり着く。そして彼女は、その一部始終を、本国の妹に手紙で知らせていた。この紀行文は、その書簡集をベースとしている。妹への私信ということで、そこに体裁や社交辞令はない。明治維新間もない農村部の過酷な生活の実態を、そのまま書き送っている。その中のほんの一部を書き出すと、こんなふうである。

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鬼怒川沿いの村の描写
 (女たちは)仕事中はみな胴着とズボンをつけているが、家にいる時は短い下スカート(腰巻)をつけているだけである。何人かりっぱな家のお母さん方が、この服装だけで少しも恥ずかしいと思わずに、道路を横切り他の家を訪問している姿を私は見た。幼い子供たちは、首から紐でお守り袋をかけたままの裸姿である。彼らの身体や着物、家屋には害虫がたかっている。独立勤勉の人たちに対して汚くてむさくるしいという言葉を用いてよいものならば、彼らはまさにそれである。暗くなると、かぶと虫、くも、わらじ虫が私の部屋に出てきてばか騒ぎをやるのである。同じ家の中に馬がいるので、たくさんの馬蠅がいた。私は携帯用ベッドに虫取り粉をまいたが、毛布を床の上に一分間も置くと、蚤がたかってきて眠ることができなかった。

 農民の食物の多くは、生魚か、半分生の塩魚と、野菜の漬物である。人びとはみな食物をものすごい速さで飲みこむ。できるだけ短い時間で食物を片づけるのが人生の目的であるかのようである。既婚女性は青春を知らなかったような顔をしている。その肌は、なめし皮のように見える時が多い。川島で私は、五十歳くらいに見える宿の奥さんに、彼女が幾歳になるのか聞いてみた。彼女は二十二歳ですと答えた。
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 立ち寄る村ごとに、著者の“発見”が延々と続く。ただ、とても興味深いことながら、彼女は日本人の美質についても、同じ目線でしっかりとらえている。これも一部のみ掲載しておきたい。

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 (ある駅逓で休んでいると、いつものように汚い身なりをした人々がたくさん集まってきた。)
その家の女たちが、私が暑くて困っているのを見て、うやうやしく団扇を持ってきて、まる一時間も私を扇いでくれた。料金を尋ねると、少しもいらないといい、どうしても受け取らなかった。彼らは今まで外国人を見たこともなく、少しでも取るようなことがあったら恥ずべきことだといった。私の『尊名』を帳面に記してもらったのだから、という。私は、日本を思い出す限り、彼らのことを忘れることはないだろう、と心から彼らに告げて、ここを出発したが、彼らの親切にはひどく心打たれるものがあった。
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 著者のイサベラ・バードがこの旅をしたのは、1878年(明治11年)、四十八歳の時である。英国という文明大国の探検家の心を動かしたのは、日本の文明開化めざましい姿などではなく、東北農民の、あまりにも近世の面影を深く残した姿そのものだった。男も女も矮小で、貧しくみすぼらしく不潔で、それでいて秩序を重んじ、物静かで、好奇心旺盛で、勤勉な日本人。
 日本は、その26年後に日ロ戦争に勝利し、世界の先進国の仲間入りをするのだが、その礎となったのは、皮肉にもイサベラ・バードが驚きの目で妹に書き送った日本人そのものだったのである。



泉鏡花 「草迷宮」

2016-01-10 08:43:34 | Weblog
 時々、無性に鏡花を読みたくなる。去年はそんな年だった。
 書棚の奥から引っ張り出したり、古本屋さんで買いおいて、気の向いたときに読んだりした。同時期に漱石を読んでいたので、どうしても漱石との比較になる。こんな風な見方ができるかもしれない。たとえば、漱石文学には現代に通じる一本の硬い棒のようなものを感じるが、鏡花は、未来へつながる時間を止め、ひたすら近世のほとりをさまよう。この「草迷宮」は、まさにそんな一冊である。もとは祭文語りや講談で知られていた怪談話。鏡花はそのエキスを文学の高みへと上らせる。

 作中、悪佐衛門という物の怪がでてくる。修行僧が「人間を呪うものか」と問い詰めると、「否、人間をよけて通るものじゃ。清き光天にあり、夜烏の羽うらも輝き、瀬の鮎の鱗も光る。隈なき月を見るにさえ、捨小舟の中にもせず、峰の堂の縁でもせぬ。夜半人跡の絶える処は、かえって萱屋の屋根ではないか。しかるを、わざと人間どもが、迎え見て、損なわるるは自業自得じゃ」と言い放つ。人間の瞬きのその一瞬にある幽玄の世界。泉鏡花は、豊かな語彙をもってその代弁者となる。

 漱石の、例えば「三四郎」が駆け抜けた一本の道のその横にある池のほとりを、鏡花の修行僧は、今日も巡り歩いていることだろうか。




新春

2016-01-02 08:01:21 | Weblog





     世にふりし梅が枝にさす初日影







村井弦齋 「食道楽」

2015-12-12 07:26:52 | Weblog



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 小説なお食品の如し。味佳なるも滋養分なきものあり、味淡なるも滋養分饒(ゆたけ)きものあり、余は常に後者を執りていささか世人に益せん事を想う。然れども小説中に料理法を点綴するはその一致せざること懐石料理に牛豚の肉を盛る如し。廚人の労苦尋常に超えて口にするもの感ぜざるべし。ただ世間の食道楽者流酢豆腐を嗜み塩辛を甞むるの物好あらばまた余が小説の新味を歓ぶものあらん。食物の滋養分は能くこれを消化して而して吸収せざれば人体の用をなさず。知らず余が小説よく読者に消化吸収せらるるや否や。
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 今風ジャンル分けでいえば、元祖グルメ小説といったところだろうか。明治36年の新聞小説で人気となり、その後単行本としても空前のベストセラーになったという。

 小説の筋書き自体は平凡なのだが、出てくる料理の種類とそれに付随したうんちくが、とにかくすごい。紹介されるレシピの数々は、当時の中流以上の主婦に、引っ張りだこだったらしい。解説によると作者の妻の父はかの大隈重信の従兄弟で、著者夫婦はよく大隈邸や別荘に出入りしていたという。大隈家の厨房の様子が口絵に描かれているが、厨房では毎日50人分の食事が作られ、千人二千人の立食にも事足りたといわれる。この環境でもなければ、この小説は生まれなかったことだろう。

 この小説は、近代文学の流れでいうと、ある意味“畸形”なのかもしれない。しかし、小説の定義に、ささやかな説という意味合いがあるとしたら、これもやはり小説である。明治という激動は、様々な分野において眠っていた種を発芽させたのである。



武陽隠士 「世事見聞録」

2015-12-08 12:42:25 | Weblog




 江戸時代後期、文化文政のころ、匿名の著者によって書かれた社会見聞・評論の書である。武士、百姓、商人をはじめ、寺社、医業、遊里、歌舞伎芝居、被差別階層などについて、細密な見聞をもとに論評を加えている。そのバックボーンとなっているのは儒学で、徳川幕府開闢の初志に帰れというのが一貫した主張である。特に商人の武士を差し置いた跳梁に対しては、これを諸悪の根源と断じている。現代社会から振り返れば、武士という武装公務員を、地位も職務もそのまま抱え置いたことにこそ、経済の行き詰まりはあるのだろうが・・。
 ともあれ、この本が書かれたのは、化政文化の真っただ中。この後日本は、100年にわたる激動を体験し、近代国家として生まれ変わる。その波状攻撃が海外からやってくる直前の江戸風俗そのものを知ることができる、そんな意味で貴重な本である。




穂積陳重 「法窓夜話」

2015-12-01 07:16:32 | Weblog




「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」


 著者の穂積陳重は、明治・大正期の法学者である。国学者である父親が話しが好きで、幼少期の「桃太郎」「大江山の鬼退治」からはじまり古今東西の話をしてくれたという。著者が成長するにつれ話の内容もかわり、法学を目指すことになると、もっぱら法律談が多くなった。そのはなしを逐次書き留めたものの中から百話を選び、まとめた。「人生なるものが無味乾燥でないならば、(その大法則である)法律談とても乾燥無味なはずはない」のだから、それを広く人々に伝えたいというのが、著者の本旨である。とはいえ百話すべてが法律の話なので、気ぜわしい片手間に読んでああ楽しかったとはいかない。というか、結構乾燥気味の話も多い・・。逆説的にいうなら、気分で読む本ではなく、本が気分をこしらえてくれる、そんな一冊である。いくつか、付箋個所を振り返ってみたい。

 二十五話、『動植物の責任』という話がある。
 中世以前においては、禽獣草木に対して訴を起こし、またはこれに刑罰を与えた例が少なからずあったという。人が樹の上から堕ちて死んだ場合その樹を断罪にする。人を噛んだ犬をさらしものにする。人を突き殺した牛を裁判の上絞罪にする。はては異常発生した毛虫に対し追放の訴訟を起こし、弁論の末被告毛虫に対して退去命令が下った。しかしながら、被告は裁判所の命令に服従しない。どうしたものかと頭を悩め、日をうつしているうち、ある日毛虫は蝶となって飛び去ってしまった・・という、落語のサゲのような話もある。
 著者のいわんとすることは、刑罰を正義の実現であるとする絶対主義にしろ、社会の目的の為に存しているとする相対主義にしろ、公衆の“心的満足”をぬきにしては語れない、ということらしい。そして“心的満足”の発露たる復讐性は、種族保存に必要な情性であるともいっている。刑法の源がこの辺りにあることを知るのは、なんだか愉快なことでもある。

 五十話、「憲法」も面白かった。
 憲法という用語は古くから使われているが、現在のように国家の根本法としてのみの使い方をするようになったのは、箕作麟祥という学者さんにはじまるという。それまでは、聖徳太子の十七条憲法はじめ、法律広範を指していた。しかるに、西洋の法学が入ってきて、学者は、Constitution(コンスチチューション)に該当する新語を作る必要に迫られる。かの福沢諭吉は「律例」と訳し、加藤弘之は「国憲」、津田真道は「根本立法」または「国制」「朝綱」とした。そこに箕作博士の「憲法」が出たのだが、多くの学者からは、「憲法とは通常の法律を指すものであって、箕作博士の訳語は当たっておらぬ」としていたらしい。その後の曲折は不明ながら、明治天皇の勅定を経て、以来、「憲法」を用いるようになったという。

 六十話「人より牛馬に返済を求むるの理なし」、七十九話「大儒の擬律」なども、とても興味深く読んだ。余談ながら、著者穂積陳重の妻歌子は、かの渋沢栄一の長女である。明治を代表することになる法学者と、明治をある意味超法規的に生き抜いた渋沢栄一との関係については興味が尽きないが、このことについては、再読しはじめた「渋沢家三代」で触れてみたい。




幸田露伴 「猿蓑」(再読)

2015-11-25 10:32:37 | Weblog


 芭蕉の作風の変遷と蕉門の代表作をまとめたものを、「芭蕉七部集」と呼ぶ。「冬の日」「春の日」「阿羅野・員外」「ひさご」「猿蓑」「炭俵」「続猿蓑」の七部がそれである。本書はそのなかでも代表的な「猿蓑」の評釈書である。十数年前に古本屋さんで購入し、ずいぶん難儀しながら読み終えた記憶があるが、今回もその轍を避けられなかった・・。今回読み返して目についた句をいくつか挙げてみたい。

 

***蓑蟲の茶の花ゆゑに折られけり  伊賀 猿雖

 私の大好きな句のひとつである。ああ蓑虫ってば、茶花なんぞにすがったばかりに・・、という、なんともいえない滑稽がいい。ただ、評釈によると違うようだ。蓑虫が折られるということはないのだから、この句並びでは情理聞こえがたく、「茶の花の蓑蟲ゆゑに折られけり」とあるべきとする。「興趣足らずとてこうしたのだろうが、いかにもひねくれた言い方にして滑稽も過ぎたり」との厳しい指摘。なるほど・・、とは思うが、凡夫の私には、この句並びが無性にしっくりくる。


***見やるさえ旅人寒し石部山   智月

評釈に「貧士路通を送る句」とある。旅立つ同門の俳人への優しい心配りが伝わってくる。智月にはこのほかに、「年よれば 聲はかるゝぞ きりぎりす」「麥藁の 家してやらん 雨蛙」などがあり、どこか、後年の一茶の萌芽をも連想させる。


***下京や雪つむ上の夜の雨   凡兆

「去来抄」によると、この句には最初、冠(最初の五文字)がなかったという。皆でいろいろ置いてみるがしっくりこず、ややあり芭蕉が「下京や」とつけた。そして、「兆、汝、手がらに此冠を置くべし、もし勝るものあらば、我二たび俳諧をいふべからずなり」と断言したという。のちの世に俳聖とあがめられる人の矜持の一端を垣間見る気がする。評者もこの五文字を評価し、「若し、細工ある句を置かば、一句あだに死なん」といっている。