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何百年も前の辞書である「下学集」にも「数奇」の言葉が見られ、“辟愛の義なり”とある。
「辟とは、一つに偏り、ついては究めることだ」
光圀は偉そうに弟たちに語ったものだ。
「辟、壁、癖、避、璧―いずれも一方に偏り、選ぶことをいう。そのきわまった様子が“完璧” だ。
おれには、おれ自身を完璧にしたいという思いがあって、それがおれを駆り立てるのだ」
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今読んでいる冲方丁「光圀伝」のなかの、「完璧」についての解釈である。長年の勝手解釈で濁りきった目のうろこが一枚はがれたような、そんな気分になった。「辟」とは、全(まった)きものではない・・。ものはついでに、白川静「常用字解」で「辟」について調べてみた。
「辟は辛(把手のついた細身の曲刀の形)で、人の腰の肉を切り取る刑罰をいう。腰の肉を切り取られ、まっすぐ立つことができなくて姿勢がかたよることを僻という。そのかたよった姿勢が習慣のようになることを、癖といい、『くせ』の意味に用いる」
とある。たしかに、そのような刑を受けた者は“かたよらざる”を得ないのだろうが、なんと過酷なことか。ふだん軽い気持ちで使う“カンペキ!”にはこんな意味がある・・。