読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

山折哲夫・穂積生萩「執深くあれー折口信夫のエロス」

2009-01-26 07:19:08 | Weblog


こりこりと乾きし音や味もなき師のおん骨を食べたてまつる  穂積生萩




 折口信夫には、なまはげが食らい残すほどの女の弟子があった。穂積生萩の「生萩(なまはぎ)」という号は、師の折口信夫より直々にいただいたものだという。あわせて、《なまはげのくらひ残しや春の雪》という句をかいてくれ、「あんたはなまはげじゃありません。なまはげがあんたのような恐ろしい子なんか食いません。なまはげの食い残しにきまってます」といったという。

 穂積生萩(ほづみなまはぎ)は、本名穂積(旧姓澤木)和枝という。秋田の旧家の生まれながら、3歳より東京の田園調布で育つ。17歳で師事した短歌の先生から折口信夫の《ひたぶるに猪(いのこ)さいなむ子らの声いつまでも聞きてつひに驚く》という歌を教えられ、その魅力に憑かれる。その後の穂積生萩と釈超空(折口信夫)との“格闘”については「私の折口信夫」(1978年刊)にとても詳しく書かれている。名著である。そして、その本をたたき台に、折口の歌と人について山折哲夫氏との対談を中心にまとめたのが、本書「執深くあれー折口信夫のエロス」である。

 10数年前に「私の折口信夫」を読んで穂積生萩の強烈な個性に圧倒された記憶があったので、発刊から約20年たって編まれた本書を読む前にある程度の“円熟” のようなものを期待したのだが、みごとに裏切られた。というよりは、私のぼうっとした期待そのものが的外れだったのだろう。生まれついての孤独は、年月で変容するものではない、そんなことを考えさせられる一冊だった。



水村美苗「日本語が亡びるとき」

2009-01-19 07:18:59 | Weblog
 去年の秋口に発刊され話題を集めている言葉の本があると聞き、読んでみることにした。
本書は、私たち日本人が日常の中で感じている日本語弱体化への危機感について、「普遍語」「国語」「現地語」という独自の概念を用いながらまとめあげた、日本語および日本文学の将来に対する警鐘の書である。

 小説家が学問の領域について書いた本の中には、面白いものが少なからずある。その理由の一つとして、テーマの核心にめんどうな段階を踏まずに到達できるからじゃないかと思う。いくつもの段階(論証)を経て結論に至る(時として最後までよくわからないような・・)論文を読むより、状況分析と問題提起を洗練されたレトリックで説かれたほうが数段面白いし、ついついその世界に引き込まれそうになってしまう。

 本書についての面白さも、そういうところにあるのではないだろうか。「普遍語」「国語」「現地語」の概念や、ベネディクト・アンダーソン、夏目漱石、福沢諭吉、河合隼雄、坂口安吾などの引用は、カムバック近代文学を論ずるうえでの、読者の目をひきつけることに長けた小説家のレトリックである。
巷では著名な批評家の参戦もあったりしてちょっとしたブームになっているそうだが、読者は、本書があくまで小説家によって書かれた言葉の本であるということを認識すべきである。・・というのが私の読後感なのだが、本書を読む中でいくつか疑問に感じる点があった。そのうちの一点のみ以下に書きとどめ、読書メモとしたい。

※※※「文学(=芸術)」の概念について
著者は、文学も芸術であるといいつつも、書かれた言語における非対称性を嘆く。それが何語で書かれているかによって陽の目をみる確率が違ってくるじゃないですか、と。これがよくわからない。それはきっと文学(=芸術)の本質を言っていない。この人はひょっとして、本書の中で使用している「文化商品」という言葉と「芸術」を一緒くたに考えているのではなかろうか。2章のフランスでの講演録中、「きょうび、フランス語で書く小説家たち。かれらのことを思うと、同情に堪えません。いや、この際、思い切って、正直に告白せねばならぬ・・・・・・。かれらのことを思うと、実は、内心隠微な歓びに満ち溢れてしまうのです(以下続く)」のくだりは、読んでいるこちらがすこし恥ずかしくなった。芸術とはそんな姑息な損得勘定で語れるものだろうか。川端文学は英語に訳されようが訳されまいが、ノーベル文学賞を受賞しようがしまいが、川端文学なのである、その価値は変わらない。もし英訳されないために世界に認められなかったとしたら、それは世界がその不明を恥じるべきで、芸術とは本来そのようなものだと思うのだが。(競争原理ということばが浮かんだ頭で著者の経歴を検索したら、ご主人は著名な経済学者であるという。まいりました・・。)


《蛇足》
 ついでにいうなら、本書は3章か4章までの問題提起で完結すべきではなかったか。漱石論を経て最終章、ここまで引っ張っておきながら、日本語が亡びないための手立てが「学校教育」ではあまりにも“凡庸” にすぎる。
さらにはこんな発言も。

 「日本を中傷する事実無根のブログが世界中で流通したらどうすべきか。日本人が一丸となって稚拙な英語で反論しても意味がない。英語圏の人間にもなかなか書けないようなすぐれた英語(※ご自分のことか)を書ける人材が存在し、根気良く真実を告げるようにするしかない」

 そのためにある程度の人材を確保せねばならぬ、とのたまう。稚拙である。叡智を求める人々のオピニオンリーダー気取りの問題提起が、damb classレベルの収束。手品師の楽屋を見た思いである・・。
 このほかにも、「万葉集」についての認識、漱石論、あわせてなぜこの論文に村上春樹が出てこないかなどについて、ツッコミどころは満載である。これらのことについて述べる場があればと思うが、この後この著者の本を読むかどうか。ともあれ、まだらボケ思考回路にさまざまな刺激を喚起してくれる本ではあった。

《蛇足の蛇足》
 このことでネット検索をしていたら、中俣暁生さんのブログに突き当った。書評サイトを含む数十件の検索で、私のブツ切れ思考を一番代弁してくれているような気がする。
http://d.hatena.ne.jp/solar/20081111#p1



「ちくま日本文学009 坂口安吾」

2009-01-13 07:18:05 | Weblog
 昨年読んだ同シリーズが面白かったので味をしめて購入。
 なかでも「日本文化私観」「堕落論」を楽しく読んだ。どうやらこの2篇を読めば、おおよそ坂口安吾という作家の立ち位置が想像つく。「日本文化私観」で坂口は、小菅刑務所、ドライアイス工場、軍艦を引用し己が芸術論を展開している。

 「この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附け加えた一本の柱も鋼鉄もない。美しくないという理由で取り去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである(後略)」

 文学に限らず芸術の大道はやむべからざる実質の追求にあり、という坂口芸術論。この論文を書いたのが昭和17年、36歳の時であり、その後の坂口安吾に差す光と陰は巷間知られるとおりである。このような芸術論を打つ作家の生涯が安穏であるわけがない。

 小説では「白痴」に期待して読んだのだが、正直言って何がなにやらよくわからないまま読み終えてしまった。気の抜けた炭酸飲料を飲んだような読後感。とりあえず混沌の時代の臨場感の欠如ということにしておこう・・。


フィッツジェラルド「若者はみな悲しい」

2009-01-10 05:31:21 | Weblog
 少し時間があったので、昨年できた本州資本の大型書店に寄ってきた。その昔デパートだったビルの地下2階から地上4階まで、150万冊弱の蔵書数を誇るという。すばらしい・・。(店員募集要項の時給800円交通費不支給には、気持ちがしゅんと醒めてしまったが・・。)

 村上春樹が完璧とまで絶賛するフィッツジェラルド作品集を初めて読んだ。ただ、訳は村上ではなく小川高義氏。あのジュンパ・ラヒリ「停電の夜に」の訳者でもある。作品集のタイトル「若者はみな悲しい」の原題は、They are all the sad young men.だという。訳者解説にその説明があり、翻訳本のタイトルがいかにして決められるかの一端を垣間見ることができる。

 小説そのものの面白さというより、1920年代のアメリカの若者のありようについて興味深く読んだ。1920年代といえば日本では大正浪漫真っ盛りで、志賀直哉「闇夜行路」谷崎潤一郎「痴人の愛」などが発表されている。この一作者をもって即日米対比でもないが、文学の湿度(温度ではなく)のちがいのようなものを感じた。うまく表現できないが、その湿度こそは村上春樹作品の日本文壇における異質、違和感に通じるのではないだろうか、などとおもってみるのだが・・。

 「子どもパーティ」という一篇を、アメリカらしさを表しているという意味で楽しく読んだ。子どもの誕生パーティに出かけたはいいが、子どものいさかいから大人同士が大喧嘩になってしまうという話である。この作品で作者は“守るべきもの”についての問いかけをしているのだが、アメリカにおいて今も昔も変わらない“守るべきもの”が、日本においてはずい分と変わってしまったのだなと考えさせられる作品でもあった。

 これを機会に、村上訳「グレートギャツビー」を読もうかどうしょうか、少し迷っている。