読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

文章読本

2009-10-25 17:22:38 | Weblog


 川端康成「新文章讀本」を読み終えた。ずいぶんと、読了に時間がかかった。
 いわゆる「文章読本」は、斉藤美奈子に「文章読本さん江」と毒づかれるほど様々な作家によって書かれている。
 そのなかでも嚆矢といわれるのは、谷崎「文章読本」だろう。谷崎「文章読本」は、序文で「この本は、いろいろの階級の、なるべく多くの人々に読んで貰う目的で、通俗を旨として書いた」というように万人向けに書かれ、ロングベストセラーを誇っている。しかし、その後出版されている「文章読本」は、谷崎「文章読本」への対抗意識かそれとも文壇における誇示が目的か、万人向きとは言いづらいものが多い。本書もその一冊。文章の神様の書いたものをハナから面白くないとは言いづらいものだが、どうも、凡夫の頭脳にピンと響いてこなかった・・。




「星野立子句集 月を仰ぐ」

2009-10-17 17:20:21 | Weblog
        父がつけしわが名立子や月を仰ぐ

 いつも立ち読みですませていた星野立子の句集を、つい衝動購入してしまった・・。立子の420ほどの代表句が掲載されている。なかでも広く人口に膾炙の句が、掲句である。巻末解説によると、幼少時代に立子の世話をしてくれたお手伝いさんが亡くなったことを知らされ、その時に詠んだという。

        楽屋口水の江滝子ジャケツ着て
        いつの間にがらりと涼しチョコレート
        水飯のごろごろあたる箸の先

 立子はこんな句も詠んでいる。自分の心のありようをそのまま17文字にしたような・・。高浜虚子という巨星の娘として生まれ、純粋培養された資質そのままで対象に向かう俳人の創作姿勢。ただ、こんな句もある。

        銀漢や悲しきことはいふまじと
        暁は宵より淋し鉦叩
        考へても疲るヽばかり曼珠沙華

 境遇になんの不自由もないお嬢様と思われがちな俳人が見せる、陰影の深さ。これは何なのだろう。本書の解説の西村和子氏は、「立子の身の上にいかなる事情があったかは知るべくもないが、嫁した娘の運命を我が手に委ねさせずにいられなかった点に、虚子の愛と煩悩の深さがうかがい知れる」という。たしかに、これ以上の詮索は無用なのだろうが、ただ、この陰影を無視して立子の俳句を読むと、なんとも薄っぺらなものになってしまう。あらためて掲句を読み返すと、大切な人を亡くした悲しみはそれとして、それもこれもふまえた上での自分であらねばならないという、自己への鼓舞、叱咤がひしひしと伝わってくる。


村上春樹の翻訳

2009-10-10 13:11:12 | Weblog

村上翻訳本を、2冊読み終えた。マーク・ストランド「犬の人生」と、フィッツジェラルド「バビロンに帰る」。どちらも短編集である。
フィッツジェラルドは、知る人ぞ知る「グレートギャッツビー」の作者。マーク・ストランドはもともとアメリカ現代詩界を代表する詩人だという。ずい分と作風が違う・・という以前に、2冊とも村上春樹という媒介がなければまず読むこともなかっただろうと思う。

 「翻訳夜話」の村上の言によると、小説を書くというのは、「自我という装置を使って物語を作っていく作業」であり、よって、我を追求していく中で危険な領域に踏み込み、場合によってバランスを失うギリギリのところまで自分を追い詰めることもあるという。それにくらべ、翻訳というのはその対極にある。テキストはすでに外部にあり、外部の定点との距離さえとっていれば、道に迷ったり、自己のバランスを崩したりという心配はない。

 「ねじまき鳥クロニクル」・「海辺のカフカ」などを読むと、村上のいうその危険な領域の意味を随所に実感させられる。特に「ねじまき鳥クロニクル」は、作者自身に類似体験がなければ描けないのではないかと思わせるほどリアリティに富んでいる。
危険な領域・・。村上にとって翻訳は、ギリギリの精神状態からニュートラルに戻る融和剤なのである。


佐藤愛子 「まだ生きている」

2009-10-03 16:24:58 | Weblog

 久々に佐藤愛子のエッセイを読んだ。
 長編小説「血脈」が出版されたのが平成13年で、もうかれこれ8年が過ぎた。「血脈」は、まさしく佐藤愛子の心血を注いだ傑作だった。書き終えた後、「オール読物」かどこかに、もうこれでまとまった小説を書くことはないだろうということを書いていたような記憶がある。

 そしていま本人曰く、「かつて私には父譲りの滾滾とわき溢れるエネルギーの泉があり、その水勢をもって無才をものともせずもの書きとして生きてきた。しかし今泉は涸れ、チロ、チロチロと侘しい音をたてて尿瓶に落ちるじいさんのおしっこの如きエネルギーしかなくなっている」と自己分析し、よって毎日ノターッとして暮らしているという。

 ただ、そんな佐藤愛子の“ノターッとした暮らし”をプロの編集者が放っておくわけがない。どんな手練手管で口説き落としたか知らぬが、その後「我が老後」というタイトルで始まったシリーズエッセイが、本書で6冊目になる。慶賀の至りである・・。ファンにとっては、気力体力の続く限り、書き続けていただきたいものだ。




     花散るやこの家の婆アまだ死なず    愛子