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読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

チェーホフ「退屈な話」(再読)

2012-09-12 09:35:42 | Weblog

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 妻を見ていて私は子どものようにびっくりする、まあこの年とった、ひどく肥ってみっともない女が、こまごました心労と、食うことの前におぼえる恐怖とをにぶい表情にみせて、負債と不如意についての絶えない思いで目つきもぼんやりした、支出のことしか話せず安値にほほ笑むことのできないこの女が、かつては明るい良い知性と清らかなたましいと美しさとのゆえに、またわたしの学問への思いやりゆえに、オセロがデスデモーナを愛したようにわたしがはげしく愛したことのある、あの細っこいヴァーリャそのひとなのだろうか?かつてわたしに息子を産んでくれたあの妻、わたしのヴァーリャそのひとなのだろうか?
わたしはでぶでぶ肥りのみっともない婆さんの顔に一生けんめい眼をこらして、彼女のなかに自分のヴァーリャを探すけれども、過去のままそっくりしているものは私の健康に対しての恐れと、それからわたしの俸給をわたしたちの俸給と呼び、わたしの帽子を私たちの帽子と呼ぶ風習である。(後略)
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 チェーホフの小説には、際立った起承転結がない。ぼんやりと物語が始まり、まるで舞台の暗転のように、静かに物語が終わる。この作品もそうで、功成り名を遂げた老い先そう長くないであろう不眠症の老教授のひとりごとが、風刺と諧謔にあふれた筆致で描かれている。
 この作品は、チェーホフ29歳のときのものだというが、老教授をはじめとした登場人物の描き方は、どこか老境にさしかかった作家のそれを思わせる。どうしたら29歳の青年がこのような人生の機微をつかみとることができるのか・・。ふと、あの大野晋氏が、谷崎24歳の作品「刺青」を読んで文学の道を断念したというという逸話を思い出した。文学は本来、才能のものなのである。
 それともうひとつ、作品が書かれた1889年は日本でいうと明治22年、日露戦争勃発の15年ほど前にあたる。そんなことを念頭にこの小説を読むと、チェーホフの小説世界に漂う逼塞感のようなものが、末期帝政ロシアが向おうとしている混沌を暗示しているような気がしてくる。勝手読みだろうか。
 再読ではあるが、楽しく読むことができた。機会があれば、この作家の戯曲にも触れてみたいのだが・・。



深巳 琳子「沈夫人の料理人」全4巻

2012-09-06 08:57:28 | Weblog

 コミックである。チェーン古書店徘徊で購入。2003年から2006年に文庫化され発刊になっている。
 中国明の時代を背景に、いわゆる当時の富裕層の美貌の若奥様と、その家に料理人として買われてきた男の美食物語である。といっても、ありきたりの料理マンガにあらず・・。「食べることの何よりお好きな」沈夫人は、少々・・というか、どうもかなり底意地が悪い。その時の気分ひとつで、料理人に無理難題を吹っかける。かたや料理人はといえば、見るからに風采の上がらず、気弱な小心者を絵に描いたような男。奥様の一言一句に過剰反応し、いらぬパニックを引き起こしてしまう毎日。この男のとりえといえばたったひとつ、料理が天才的にうまいことである。奥様の思いつき難題が大変なものであればあるほど、この料理人の右脳は最大限に活性化し、結果、奥様の「美味しいわ・・」の一言を引き出すこととなる。
 読みながら、これって谷崎耽美じゃないか・・?と思っていたら、2巻目のあとがきに「あの谷崎潤一郎大先生の『美食倶楽部』」を念頭に置いた旨が書かれていて、ナルホドと感心した。本書は、谷崎マゾヒズムの女性解釈・・として楽しむことができるし、もうひとつ、中国人の本質の裏読みとしても読むことができる。コミックとはいえ、いくつもの重層性を持った作品である。

追記
 この作品には、中国古来の代表的料理の簡単レシピが載っている。先日、ためしに清湯(チンタン)スープに挑戦してみたら、濁りのない黄金色のスープが出来上がった。バターでいためたシイタケ・シメジ・エノキをぎゅっと丸めて真ん中に置き、自家栽培のミニトマトをちらして食したら、・・旨かった。

渋沢雅英「父・渋沢敬三」

2012-08-30 10:31:22 | Weblog

 雑然古書店購入。初版は昭和41年発行で、私の読んだのは平成14年3版。静かで息の長い渋沢ブームというものがあるのかもしれない。あの明治の傑物渋沢栄一からその子篤二、孫の敬三、そして自身までの一族消長を背景に、渋沢敬三の業績と人となりを綴っている。
 ただ、どこか記念出版かなにかのような行儀のいい内容に終始しており、評伝として名高い佐野眞一「渋沢家三代」には及びもつかないが、表題「父・渋沢敬三」という主旨からすれば、致し方ないということか・・。

岩波文庫「中勘助随筆集」

2012-08-26 20:15:05 | Weblog

 小説家であり詩人であった中勘助には、「詩を作ることより、詩を生活することに忙しかった」という賛辞が残っているそうだ。孤高の文学者の生涯をあらわす言葉として、胸を打つ。(詩作に限らずあらゆる文芸にたずさわる人々に対する、ちょっとした警句に聞こえなくもないが・・)。

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 私は自分の性格からして自分の望むほど先生と親しむことが出来なかった。むしろ甚だ疎遠であった。私はまた先生の周囲に、また作物の周囲にまま見かけるような偶像崇拝者になることも出来なかった。唯、先生は人間嫌いな私にとって最も好きな部類に属する人間の一人だった。そして先生は私の人間にではなく、創作の態度、作物そのものに対して最も同情あり好意ある人の一人であった。
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 随筆集の中に、「夏目先生と私」という一編がある。夏目漱石をして「僕も変人だけれど、中は隋分変人だね」と感嘆せしめたという、その中勘助からみた漱石とその周辺がみごとに描かれている。中勘助は第一高等学校時代、教師として赴任してきた夏目漱石と出会う。これが縁で、のちに「銀の匙」の原稿が漱石の目にとまり世に出ることになるのだが、その批評で漱石は、本人にむかって「ああいう、意気地のないことを・・・・・(よく書いたものだ)」といったという。もちろん良い意味で「銀の匙」という作品の本質を言い当てている言葉であるし、飾り気のない漱石の人柄が伝わってくる。

 ものはついでに、鏡子夫人の「漱石の思ひ出」、百「私の『漱石』と『龍之介』」をひっぱり出して、付箋箇所をまるではじめて読むように感心しながら拾い読みしていたら、すっかり夜更かししてしまった・・。


石川淳「森鴎外」

2012-08-19 04:37:41 | Weblog
 これも雑然古書店ついで購入の一冊。私が読んでいるのは1978年(昭和53年)に岩波文庫から発行されたものだが、初出は1941年(昭和16年)で、太平洋戦争勃発の3日前だという。巻末解説によると、石川は本書発行の3年前に反軍国調を理由に発禁処分を受けている。解説者は本書執筆時の石川の心情を、「時勢の力によって掣肘を受けざるを得なかったことを考えると、(中略)日頃の鬱積が奔騰し、書くこととは何かという最も真率で本来的な問題が問われることとなったのではあるまいか」と結んでいるが、この体験は、石川淳のその後の作家活動と無縁でなかったようである。

 本書の特徴といえば、世に名作と名高い鴎外作品の数々を一刀両断に切り捨て、あるいは無視し、鴎外文学を代表するものとして、「渋江抽斎」「伊澤蘭軒」「北条霞亭」の三作を揚げている点にあるだろう。「一個の非凡の小説家の比類なき努力の上に立つ大業」であるとまで称揚している。
 上に揚げた三作のうち「渋江抽斎」は読んだが、他は未読である。「抽斎」のあのワクワク感が他の二作にも期待できるものかどうか・・。とりあえずは鴎外全集の中から「伊澤蘭軒」の巻を借りてきて読んでいるが、結構骨の折れる代物である。どうも今年後半の読書は、鴎外全集との格闘になりそうだ。


新潮社「討論 三島由紀夫 東大全共闘」

2012-08-09 09:55:37 | Weblog

 いつもの雑然古書店にて、3冊ほど思いつき購入した中の1冊。それにしてもこの店は、最近いよいよ乱雑さに磨きがかかってきた・・。

 副題に、《美と共同体と東大闘争》とあるが、特に美について語られているところは見つからなかった。時間の継続と空間創出について触れられていたので、きっとそのことかもしれない。少なくとも東大闘争が美と一緒くたにされる、そんなことはないとおもうのだが・・。
 何よりも感心したのは、この時三島にしても全共闘の彼らにしても、論争の向うに何かがある筈だということを信じていたのである。そんな幻想を抱ける時代だった。いや、抱かざるを得ない時代だったのか・・。ともかくも当代随一の作家と全共闘という奇形集団の言葉のバトルを、なにか骨董をみるような感覚で楽しめた。



穂村弘・山田航「世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密」

2012-08-02 09:45:02 | Weblog

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「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ
春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」
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 待ち合わせの時間つぶしに入った書店の新刊コーナーでみつけた1冊。穂村弘の代表的短歌50首に山田航が歌評をおこない、さらに穂村がコメントを付している。現代短歌の旗手ふたりによるコラボ企画、といったところか。穂村弘の新刊ということで中を見ずに購入したが、うーむ、だった。
 まず、山田航の評釈。この人はいつだかの角川短歌賞受賞者ということで期待して読んだのだが、特に心打つ解釈もなく、短歌とはこう読むものだよという(読者に対する)上から目線ばかりが気になった。きっと、これから短歌の世界を目指す人を想定しているのだろうか。それと、穂村の自注コメント。本人も「自歌自注はつまらない場合が多い」と認めているが、たとえば上に掲げた歌を理詰めで読んで何が楽しいのか・・。
 たった三十一文字の作品に何百何千字も用いてする評釈とは、何なのだろう。そんなことを考えた。


“その沼に潜ってお話を持ってくる”

2012-07-29 09:49:23 | Weblog


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私には書きたいものがある
自分のお腹の中に沼がある
その沼に潜ってお話を持ってくる
こんどはもっと肺活量を鍛えて潜る
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 「ラジオ深夜便」というラジオ番組がある。その名のとおり、深夜から明け方にかけて放送されているNHKの名物番組で、数ヶ月前から寝入りばなのひと時の楽しみにしている。放送時間が時間だけに、この番組では過去に放送されたもの(インタビュー・講演etc)を番組ホームページから聴くこともできる。そのなかで、作家三浦しをんのインタビューを楽しく聴いた。
 彼女は自分の小説を「○○小説」というふうにくくられて読まれるのが、たまらなく我慢できないらしい。「それだけに収まらない何かのある小説」「読み手の中に何かが残る小説」を書いていきたいという。また、上代文学者である父の三浦佑之さんの話になると、それまでの穏やかさが一転してラディカルな口調に変わるのが面白かった。インタビュアーはそれを親子関係の良好さの裏返しとまとめたが、私はビッグネームの父を持つ娘の一途な矜持として聞いた。
 それにしても、“その沼に潜ってお話を持ってくる” とはスゴイ言葉である・・。

村上春樹「1Q84」その3

2012-07-23 09:22:14 | Weblog

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 「そのとき本多は、決して襖一重というほどの近さではないが、遠からぬところ、廊下の片隅か一間を隔てた部屋かと思われるあたりで、幽かに紅梅の花のひらくような忍び笑いをきいたと思った。しかしすぐそれは思い返されて、若い女の忍び笑いときかされたものは、もし本多の耳の迷いでなければ、たしかにこの春寒の空気を伝わる忍び泣きにちがいないと思われた」
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 上に揚げたのは「春の海」の一節である。たまたま今回、「1Q84」のBOOK2以降と同じ時期に三島由紀夫「豊饒の海」を並行読みしていたこともあって、村上作品と三島作品の違いについてあれこれ考えることができた。このような修辞にであうために、(近代文学的)読者は読書をしてきたのだろう。「豊饒の海」は、三島文学の集大成でありながら、近代文学の集大成でもあると私は思う。
 そして残念ながら、こと文学的修辞ということでいえば、村上は三島の足元にも及ばないし、批判的批評家の村上作品に対するいらだちのひとつは、まちがいなくここにあると思う。また、批評家だけではなく、いわゆる近代小説(の約束ごと)に慣れ親しんだ一般読者のなかにも、受け入れがたさを感じる人は少なくないのではないか。近代小説という護送船団の乗客にとって、これはやはり小説ではなくモノガタリなのかもしれない・・。


さらにもう少し続く。

石上賢介「婚活したらすごかった」

2012-07-16 17:59:43 | Weblog

 先週、まことに偶然ながら、“これまで経験したことのない大雨”を実体験した。避難指示続発の地域をレンタカーで走りぬけるという、なんともスリリングな、まさしく、“これまで経験したことのない旅行”だった・・。

 その最終日、持参した本を他の荷物と一緒に送ってしまい、帰りの時間つぶしにと空港売店で購入したのがこの本。40代結婚願望(バツイチ)ルポライターの婚活体験記である。「ネット婚活」「お見合いパーティー」「結婚相談所」などの実態が、全編ユーモアに溢れた読みやすい文体で書かれており、横の家人にニヤニヤ顔を指摘されながらも、あっという間に楽しく読み終えた。
 その一方、「おもしろうてやがて悲しき」ではないが、社会のひとつのひずみを垣間見たような気分にも。お金を払って何らかのシステムを利用し、生涯の伴侶を探す・・。ふと、介護保険制度のことが頭に浮かんだ。これはどこか、介護保険制度という家族介護扶助システムに似てなくもない。成熟社会とは、相互扶助をシステムに変えていく社会のことなのだろうか。


村上春樹「1Q84」その2

2012-07-09 08:04:54 | Weblog

 それと、もうひとつ。村上はここのところ何作かの長編で、現実ともうひとつの世界(異界)をモチーフに小説を書いてきたのだが、この作品でその世界が少し変わったような気がする。即座にうまい言葉が思いつかないが、きっと作者の立ち位置の変化?・・。
 少し前、「ねじまき鳥クロニクル」の壁抜けについて、ある人に、「村上は、本当にその体験をしたのだと思う・・」といったら、怪訝な顔をされてしまった。でも、私は本気でそう思ってきた。村上はいつの頃か、なんらかのきっかけで現実世界とは違うもうひとつの世界への入り口を知った。そして、知っただけでなく、その世界に出入りできるようになった。少なくとも「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」は、そういう体験を前提にしなければなりたたない小説世界だったと(私は)思うし、そのすごみこそが多くの読者を魅了したのではないだろうか。
 この作品「1Q84」においても、1Q84という世界、空気サナギ、リトル・ピープルetcと、異界概念は潤沢に登場する。しかしながら、そこから異界をさまよう村上の息づかい、村上リアリティが、どうもうまく伝わってこない。私には、それらがたとえば、精神療法の箱庭のアイテムに思えてならなかった。作者自身が体験した世界というより、箱庭世界でのアイテムの置きかえ作業のような、そんな気がした。

もう少し続く。

村上春樹「1Q84」(文庫版)

2012-07-05 09:16:18 | Weblog

 「1Q84」文庫版を読み終えた。途中あちこち寄り道をしながらだったので、時間はかかったが、いろんな意味をこめて楽しい読書だった。いまさら通りいっぺんの感想を述べてもつまらないので、たまたま同時進行で読んだ三島「豊饒の海」を念頭に、思ったこと(おもに違和感)をランダムに書き散らしてみたい。

 違和感のひとつに、BOOK1・2と3との関係がある。1・2を読み終えて3に進むと、いままでサラサラと流れてきた瀬が突然大きな淵にさしかかったごとく、物語がよどむ。これはなんだろうと思った。突然のこの重さ・・、これがよく分からない。ものはついでに、同じような制作過程を辿った「ねじまき鳥クロニクル」の要点を読み返してみたが、こちらは1・2→3へ、さほど違和感なくつながった。2作品とも、BOOK1・2のあとBOOK3が描かれるまでに1年のタイムラグがある。しかるにこの違いは・・。著者はインタビューに、「1・2を書き終えて、そのときは本当にこれでおしまいのつもりでした」、「もし3を書くとしたら、これはほとんど動きのない話になるだろう」と答えているが、私が感じた重さは、その動きのなさのことだろうか。作者にすればBOOK3は、大団円というのとはかけ離れた、輪廻転生の胎動にも似たようなものに位置づけられるかもしれない。爬虫類や甲殻類の脱皮のような終焉と再生。輪廻転生。そうすると、“動きのないBOOK3”に意味が生じるのだが・・。

少々、つづく。