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読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

冲方丁「マルドゥック・スクランブル The 1st Compression 圧縮」

2012-12-04 09:12:57 | Weblog
 冲方丁(うぶかたとう)のSF小説である。私が読んでいるのは、加筆修正したものを全3巻の文庫にした「完全版」で、初出は2003年。ライトノベルとかSFはあまり読まないので少し迷ったが、先に読んだ「天地明察」「光圀伝」と何がどうつながっているのかという興味が優先し、結局読むことにした。
 第1巻目のタイトルは「圧縮」。近未来都市に生きるひとりの少女をめぐって起こる犯罪と、少女を守りそれを阻止せんとする“委任事件担当捜査官”の戦い、といったところか。脇役のウフコックからは、ふと「十二国記」の楽俊を連想したが、作者は映画『レオン』の主人公レオン・モンタナをモデルにしたという。なるほど・・。
 全3巻の1巻目しか読んでいないが、とても面白い。SF小説とは、未来型時代小説なのだ・・。

村上文体

2012-11-29 08:43:53 | Weblog
 今週日曜日の新聞(北海道新聞)読書欄に面白い記事が載っていた。長谷川孝治さん(青森県立美術館・舞台芸術総監督)という方が、村上春樹「海辺のカフカ」の英訳版「Kafka on the shore」について語っている。

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 「村上春樹は、絶対英語で読むべきです。日本語だとつるつると読めちゃうんですが、英語だと『僕』は『I』じゃないですか。そうすると、がっつりした物語の骨格が見えてくるんです」
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 村上作品に限らず英文小説を通読するスキルのない私には、この方のいう“がっつり骨格”をなかなか実感できないが、一部分ドキッと共感できるところもあった。それは、「翻訳文体こそが村上春樹の魅力」という部分である。
 今年の夏に文庫版「1Q84」を読みながら、ふと思った。村上春樹は、この小説を最初英文で書いたのではないか。そして、私が読んでいる小説「1Q84」は、英文で書かれた「1Q84」の翻訳なのではないかと。具体的にどの部分を読んでかと指摘されると少し戸惑うが、たとえば、次のような場面である。

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「あなたはとてもひきしまった身体をしています」と老婦人は言った。そして身体を起こしてローブをとり、うすい絹の上下だけになった。
「ありがとうございます」と青豆は言った。
「私も昔はそういう身体をしていました」
「わかります」と青豆は言った。
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 英文で書いたものの日本語訳という私の“仮説”・・と、長谷川氏のいう翻訳文体説。微妙な食い違いはあるが、村上作品解読の、ひとつのアプローチにはなるのではないか。そんな気がした。
 

H.G.ウェルズ「タイムマシン」

2012-11-22 10:08:01 | Weblog

 数日前のネットニュースに、「ヒトの知性、6千年前にピーク?」という記事がのっていた。米スタンフォード大の教授が科学関連誌に発表したもので、「人類の知性の形成には2千~5千という多数の遺伝子が関係しており、ランダムに起きる変異により、それらの遺伝子は、働きが低下する危険にさらされている。一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころは、知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、人類の知性は高まっていった」といった内容らしい。
 この記事を読んで、少し驚いた。偶然ではあるが、先日読み終えたH.G.ウェルズ「タイムマシン」に同じような表記が出てくるからである。該当箇所を揚げてみる。

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 「多面的な知性というものは、変化、危険、困難と引きかえに、人類が得たものだという基本法則をぼくらは見のがしている。環境と完全に調和した動物は完全な機械だ。習性と本能が役に立たなくなったときに、はじめて知性が必要になる。変化も、変化の必要もないところに知性は生まれない。さまざまの変化と必要性に、適応しなければならない生物だけが知性を持つのである」
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 小説「タイムマシン」は、19世紀イギリスのひとりの科学者が時間旅行用の機械を発明し、なんとそれに乗って80万年後の世界に旅行するという話である。人間がかろうじて一人乗ることのできる程度の作業台(操縦席)に乗り、いくつかのアナログメーターを見ながら、左右のレバー操作で過去にも未来にも行くことができるというのだから、荒唐無稽といえば、そのとおり。にもかかわらず、この作品をいまだに名作たらしめている理由は、作品に通底する文明批判にある。競争もなく貧富の差もなく、肉体を蝕む病気も苦しい労働もない社会。ウェルズは、そのようなユートピア思想に水をあびせるかように、階級対立のまま進化し続ける地球文明の末路を予言する。「進化論は我々の知的期待を促す。しかし数百万年地球が進化の過程を踏んでゆけばやがて頂点に至り、次は下降の一途ではないだろうか」と。

 ものはついでに岩波国語辞典を引いたら、「知性:物事を知り、考えたり判断したりする能力」とあった。なんとも皮肉なことに、その能力は、人間の生老病死さまざまな苦しみの上にこそ成り立つものなのである・・。

冲方丁「光圀伝」

2012-11-13 10:04:39 | Weblog

 前作「天地明察」につづく、冲方丁の長編歴史小説である。
 この「光圀伝」は、色々なところで前作とリンクしており、水戸光圀は渋川春海(安井算哲)の人物鑑定役として登場する。太平の世の基盤を模索する保科正之が、人材登用のめぼしをつけた春海についての最終判断を光圀に委ね、春海は光圀の眼にかない、はれて幕府天文方となるのである。そのなかに、「非常に大柄で、威にして厳たる相貌、剛健たる三十九歳。」という春海からみた光圀の人物観察があり、三十代にして水戸の御屋形様と呼ばれ朝廷・幕閣に強力なネットワークを持った光圀の人となりがうかがえる。
 前半の、主人公の前に立ちはだかる難関を次々とクリアしていく作法は、どこかRPGを思わせるが、これは作者の前歴と無関係ではないのだろう。特に、冒頭に宮本武蔵が登場したときには??と思ったが、うまい形で物語に融け込み、その時の武蔵の所作に感じ入った光圀の晩年の行動と結びつけるあたり、みごととしか言いようがない。

 この物語は、徳川家康の孫として生を受け、子龍とよばれた幼少期から光國あらため光圀となる晩年まで、まさしく文武両道に生きた水戸光圀の一代記であるが、そのフレームをなすものは、「伯夷・叔斉」の故事である。現代のような権利主張の訴訟社会ではストレートに受け入れがたい故事ではあるが、天下の大乱が終息し、これから太平の世を築かんとする時代背景において、儒教を背景にもたらされたこの思想は、国家のリーダーにとって一筋の光明だったのだろう。「義」とは何か、光圀はそのことを己に問い続け、「大義」の成就の為に生きる。

 いまさらながら、冲方丁はスゴイ作家である。
 いくつかのフレームを組み合わせて物語を紡いでいく構成力もさることながら、この作家には、小説家としての背筋のぴっと伸びきった座相のすばらしさがある。どこか宮城谷昌光のデビュー時を彷彿とさせるが、それとも少し違う。うまくいえないが、いま、「プロデュース」ということばが頭に浮かんでいる。

「圀」という字

2012-11-03 07:49:25 | Weblog

 先日から読み続けている冲方丁「光圀伝」に、光圀の「圀」の字についてのうんちくが出てくる。
 水戸光圀の「圀」は、もともと「國」と書き、「圀」は隠居名として晩年使い、後世に残った。小説の説明では、「國」は囲いのなかの“或”が惑いに、あるいは乱に通じるため、“八方”の「圀」に変えた、となっている。これもついでに白川静「常用字解」で「国(こく)」を調べたら、つぎのようにあった。

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「会意。もとの字は國に作り、□と或(わく)とを組み合わせた形。或は□(都市を取り囲んでいる城壁の形)の周辺を戈(ほこ)で守る形で、國の元の形である。
(中略)
唐代の則天武后は國が限定するという意味を持つ或を要素としていることに不満とし、或の代わりに八方(あらゆる方向という意味)を入れて圀の字を作らせた。
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 則天武后が作って中国でもあまり使用例のない「圀」を、1000年後の日本において水戸藩主が使う。御三家の格式維持と文化事業執行のため恒常的な財政難にみまわれ、必ずしも八方を照らすまでは至らなかったが、「圀」はそんな願いのこめられた字なのである。


小林明道「なぜヤギは、車好きなのか?」

2012-11-01 08:37:48 | Weblog

 新聞書評で気になって、大型書店で注文購入。動物行動学的見地からヤギの行動を観察する、という主旨の本である。表題をはじめとしたヤギの生態のユニークな視点でもうかがうことができるか・・、との思いで読んだが、大いに期待はずれだった。
 読み終えて、祭りの見世物小屋の《大イタチ》の話を思い出した。“誰も見たことのないような大イタチだよ、さあさあ入った入った・・・”の掛け声につられて入ってみると、そこにあったのは、何か動物の血とおぼしきものが塗られた《大きな板》だった・・、というあれである。「なぜヤギは、車好きなのか?」の答えは、そんな内容だった。
 素人が遊び心で書いた動物飼育物語として読むにはそれなりに楽しいかもしれないが、著者肩書きに理学博士と入れた本としては、いかにも情けない。少し前に読んだ石田英一郎「桃太郎の母」に“狗頭羊肉の書” ということばを使ってみたが、私にとって本書はその180度真逆の一冊だった。


「完璧」ということば

2012-10-25 09:09:32 | Weblog

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何百年も前の辞書である「下学集」にも「数奇」の言葉が見られ、“辟愛の義なり”とある。
「辟とは、一つに偏り、ついては究めることだ」
光圀は偉そうに弟たちに語ったものだ。
「辟、壁、癖、避、璧―いずれも一方に偏り、選ぶことをいう。そのきわまった様子が“完璧” だ。
おれには、おれ自身を完璧にしたいという思いがあって、それがおれを駆り立てるのだ」
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 今読んでいる冲方丁「光圀伝」のなかの、「完璧」についての解釈である。長年の勝手解釈で濁りきった目のうろこが一枚はがれたような、そんな気分になった。「辟」とは、全(まった)きものではない・・。ものはついでに、白川静「常用字解」で「辟」について調べてみた。

「辟は辛(把手のついた細身の曲刀の形)で、人の腰の肉を切り取る刑罰をいう。腰の肉を切り取られ、まっすぐ立つことができなくて姿勢がかたよることを僻という。そのかたよった姿勢が習慣のようになることを、癖といい、『くせ』の意味に用いる」

 とある。たしかに、そのような刑を受けた者は“かたよらざる”を得ないのだろうが、なんと過酷なことか。ふだん軽い気持ちで使う“カンペキ!”にはこんな意味がある・・。



三浦佑之「古事記講義」(再読)

2012-10-16 18:04:20 | Weblog
 本棚をあちこち探しているうちに直接関係のないテーマの本に目がとまり、結局その本を1冊読み終えてしまうことがある。本書もそんな一冊。たしか、邪馬台国がらみの本を探している途中、目についたのだと思う。

 本書、大きく四つのテーマからなる講義の第一回は、「神話はなぜ語られるか」である。著者は、「なぜ生きるのかということの答えを求めようとするかぎり、人は神話に行きつくしかない」とし、神話とは、存在の保証であると断言する。古事記の中の、うろおぼえに知っている話を思いだすにつけ、保証されるべき存在のなんと残酷なことか・・、などと思ってしまいはするが。
 この中で、少し興味深い指摘がある。アマテラスとスサノヲのウケヒによる子生みの話を取り上げ、そこに出てくる例えば剣や玉を噛んで吹き出して子を生むという発想には、「性的な、しかも兄妹婚と巫女の犯しという禁忌性を深く潜在させている」という指摘である。古代日本の王族にまとわりつく、この禁忌性のいわんとする意味は深い。 

 著者はそのことをくわしく扱っている本として、森朝男「恋と禁忌の古代文芸史」という本を上げている。興味があったので大型書店の端末で検索したら、10,500円とあり、購入は諦めた・・。かわりに、数週間前の新聞書評で目にとまった「なぜヤギは、車好きなのか?」という本を予約してきた。




チェーホフ「女の幸福 他12篇」

2012-10-15 10:40:32 | Weblog
 いつもの雑然古書店購入のうちの1冊。セピア色が堂に入っているなあ・・と思いつつ奥付を見たら、昭和27年発行(臨時定価七拾円)とある。私が物心ついた頃の百円札にそれなりの価値があったことを考えると、この臨時定価七拾円というのは、そこそこの価値のものだったのだろう。その発行から60年経ってセピア色に染まった古本を、105円で買ってきて読んでいる。どこか不思議な気分である。

 この短篇集は、若い頃多作といわれたチェーホフの、ピーク時に書かれたものを集録している。この頃の作品に対し、濫作の書きなぐりという評価もあるそうだが、帝政末期ロシアの市民生活における閉塞感のようなものが伝わってきて、これはこれで面白く読めた。どこか、日本純文学のいくつかのパターンの原型を思わせる、そんな内容だった。

青土社「ユリイカ総特集 冲方丁」

2012-10-14 16:34:25 | Weblog
 「天地明察」でメガヒットをはなち、今や時の人となった冲方丁(うぶかたとう)の対談を中心とした総特集である。書店の新刊コーナーに、新作「光圀伝」と一緒に並べられていたのを一緒に購入。(本書自体は2年前に発刊されたものだったが・・)。

 インタビューに対する「(自分は)日本語の面白さを味わうために文章を書いている」という答えは、いわゆる帰国子女だった冲方丁だからこそいえる言葉なのだろう。日本語の持つ多様性のすごさは、ちがう文化の中で生まれ育った人間でこそ、わかるということか。
 また、歴史・時代、SF,ライトノベル・・・のようなジャンル分けは、この作家の中にない。「ぼくにとって、『ジャンル=日本語』なんです。日本語でしゃべっていたり、書かれているものは全部一緒という感覚がまだ残っています」と言い切る。いわゆる近現代文学的な発想では推し量れない冲方ワールド。これをどう受け止めればいいのだろう・・。

 いま併読(再読)している三浦佑之「古事記講義」のなかに、神話とはなにか、という問いかけがある。それに三浦は、こう答えている。「 なぜ自分たちはここに生きてあるのか、この世界はどのような場所か、人はなぜ生まれたのか、なぜ死ぬのかと問いたくなります。いつの時代もおなじですが、人は、そうした不安を納得し受け入れるために、生きる根拠が必要なのです。そして、それを保証するのが神話です」。
 この文節を読んで、冲方丁というマルチタレントの目指すものが少しわかったような気がする。冲方丁のコアをなすものは、活字によって“モノを語る”ことなのである。「光圀伝」を読んだ後、「マルドゥック・スクランブル」にでも挑戦してみようか・・。



森鴎外「伊澤蘭軒」 岩波書店 鴎外全集第十七巻

2012-10-03 09:15:12 | Weblog

 石川淳に「一個の非凡の小説家の比類なき努力の上に立つ大業」とまでいわしめた本書に挑戦しているが、これも超難物である。
 伊澤蘭軒は、いわゆる市井の人である。幕末化政期の藩医の家に生まれ、家業を継ぐかたわら漢詩をよくし、官茶山、来山陽、太田南畝らと親交があった。鴎外は、その前の「渋江抽斉」を書き進める上での膨大な資料収集の中で、抽斉の師にあたるこの人物を知り、歴史的には無名ながら文化文政の一文人を通した市井のありよう(歴史)を、浮き彫りにしようとした。
 ただ、「渋江抽斉」につづいて新聞連載された本作品は、評判がすこぶる悪かったようだ。鴎外は巻末で、「蘭軒伝の世に容れられぬのは、独り文が長くして人を倦ましめた故ではない。実はその往時を語るが故である。歴史なるが故である。」と、苦しい言い訳をしているが、当時の世評に対し、少なからず意地になっていたようである。見方によっては、文豪の傲慢のようなものがあったかも知れない。蘭軒伝の評価は難しい・・。

 図書館から四度借り替えて、とりあえず通読したが、(良い意味において)なるほど歴史は退屈なものと思わせる代物だった。むずかしい解釈はさておくとして、渋江にくらべても、私の好きな逸話・伝聞の類いが極端に少なかった。少ないその中から、蘭軒の愛猫に関する口碑があるので、要約し、まとまらない読後感の綴じ目にしたい。

 蘭軒には、桃花猫(とき)という愛猫があった。蘭軒が病んで長く寝込んだある日、枕元にうずたかく積まれた見舞い品を見て、ときの頭をなでつつこういった。
「よそからはこんなに見舞いが来るに、ときはなにもくれぬか」
 しばらくして猫は、一匹の鰈をくわえてきて蘭軒の寝床のかたわらに置いた。と同時に台所に人の罵り騒ぐ声が聞こえた。近所の魚屋が、猫に魚を盗まれたと女中に訴えているのである。蘭軒は魚の代金を支払わせ、猫にこう言った。
「人の家のものを取って来てはいけぬ」
 次の日に猫は雉を捕らえてきた。これより猫は家人の恐れ憚るところとなったという・・。


石田英一郎「桃太郎の母」

2012-09-17 06:10:38 | Weblog

 日頃ダイジェスト検索に慣れきった身にとっては、難解きわまる論文である。何度も立ち止まり後戻りしつつなんとか読み終えたが、著者の言わんとするところの表層の薄皮一枚分しかつかめなかったような気がする。骨の折れる読書である・・。
 論文は、柳田国男「桃太郎の誕生」を受けた形で書かれている。柳田「桃太郎の誕生」が、桃太郎をはじめとするいわゆる小サ子物語には共通要素として「水界」が大きな意味を持つことを指摘したのを受け、本書では、「これら水界の小サ子の陰に、たえず彷彿として現れるもの」、その母とも思われる女性の姿を論じている。
 今まで、はからずも羊頭狗肉の本には数多く出会ったが、その逆、狗頭羊肉の書にふれる機会はあまりなかった。そんな意味で、難解ながら貴重な一冊だった。また何度か読み返すことになると思う。

追記
 本文は難解だったが、新旧版二名による解説が面白かった。特に、著者とマルクス・レーニン主義のかかわりについてのくだりは、ひとつの主義主張なり思想なりがその旗の元に巣食う教条主義者たちによってゆがめられていく一例として、興味を持って読むことができた。秩序はいつも、その足元からほころびを見せるということか・・。