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読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

『豊饒の海』創作ノート

2012-06-17 20:35:52 | Weblog
 三島由紀夫「豊饒の海」を読み終えた。
 村上「1Q84」(文庫版)完結のあとにでもゆっくり、と考えていたのが、BOOK2の途中一休みから読み出したら止まらなくなり、結局最後まで読みきってしまった。作品は唯識や輪廻転生をモチーフとしており、難解な部分も多かったが、先に読んだ「金閣寺」の余韻を引き継ぐ作品を何か読みたかったこともあり、楽しい読書だった。それと、偶然とはいえ、思い入れの強い村上「1Q84」との並行読みは、「1Q84」へのより深いコミットという意味で、面白い体験だったと思う。
 余韻に浸りながら、図書館から「『豊饒の海』創作ノート」(三島全集第14巻)を借りてきて読んでいる。箇条書きの羅列であるが、面白い。

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・西郷隆盛は貧し。
・従道さんの母、株をやったが、十四万坪を三千円で買ひ、狩にきて、三千円で約束。木戸や伊藤博文アト口。
・従道大臣してゐて月給五百円。使ひ切れぬ。従兄大山元帥がバンク出来た故入れておけといひ、目黒と渋谷3千円で買ひたり。青山の墓地三銭なりし。
・宮様が西郷家から岩倉家へ婚資として四百万出す。そのとき、岩倉家つぶさぬため。(妃殿下のお里ゆゑ、宮、共産党出ては大へんとたのむ)
・酒をおいしいと思ふと、酒の中に美味が植ゑつけられ、又、酒のみたくなる。私だけ、酒だけでハ自己の存在も世界の存在もない。この交互因果に世界が存在してゐる。交互因果をたどってみると いつのむかしからこれ
・(私なしに酒なし、酒なしには私なし。)よって同時。
・フランス渡来の葡萄酒を主人公と副主人公がおそるおそる呑む場面。二人の反応の差。(この酒に、アラヤ識とぜんま法の同時交互因果)主人公の世界との違和感、酔の不思議と、人間との乖離 これが第四巻の解脱にかかる。最後の伏線。
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 第一巻「春の雪」で、この巻の主人公松枝清顕が、宮家のいい名づけとなった聡子を身ごもらせてしまったことで、上を下への大騒ぎとなる周囲をよそに、祖母の放つセリフがすごい。

 「宮様の許婚を孕ましたとは天晴れだね。そこらの、今どきの腰抜け男にはできないことだ。そりゃ、大したことだ。さすがに清顕はお祖父様の孫だ。それだけのことをしたのだから、牢へ入っても本望だろう。まさか死刑にはなりますまいよ」

 作品が実話に題材をとっていると知り、この“お祖父様”がだれなのか知りたかったのだが、創作ノートを読んで腑に落ちた。作品を読んでこそ匂いたつ世界が、ここにある。


内澤旬子「飼い喰い 三匹の豚とわたし」

2012-06-06 08:58:02 | Weblog


 なんとなく購読をためらい月日が過ぎてしまう、という本がある。これもその典型的な一冊。賛否両論あろうが、“自分で豚を飼って、つぶして、食べてみたい”、こんな思いを実践してしまった女性の、ルポルタージュである。
 もちろん、まるで素人の女性が書いたというわけではなく、この著者には「世界屠畜紀行」という本がある。その本を書くためにおよそ10年間、世界の屠畜場を取材して回ったという経験が、今回の下地になっている。著者はその取材のなかで、様々な疑問にぶつかる。「これらの肉は、どのようにして生まれ、どんなところで育てられ、屠畜されるに至るのか」。そしてつまり、「私たちは何を食べているのだろうか」。そのことを知るには、実際に自分で豚を飼うしかない。かくて、前代未聞の奮闘記が始まる・・。

 とても興味深く読んだ。これほど微妙なテーマを扱いながら、著者の方向軸のぶれないところが良い。(いい方を変えれば、周囲をぶんぶん振り回して自分の渦に巻き込む、典型的な自己チュー気質)。食の問題に限らず、普段うやむやに先送りしている鬱陶しいことどもを、すべて胸元に突きつけられたような、そんな気になった。



村上春樹「1Q84 BOOK2」

2012-05-29 08:18:34 | Weblog

 ヤナーチェックの「シンフォニエッタ」という曲が、この物語で使われている。BOOK1の書き出しにも使われ、BOOK2の第二章には、こんなふうに登場する。

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「小澤征爾の指揮するシカゴ交響楽団。ターンテーブルが一分間に33回転のスピードでまわり出し、トーンアームが内側に向けて動き、針がレコードの溝をトレースする。そしてブラスのイントロに続いて、華やかなティンパニの音がスピーカーから出てきた。天吾がいちばん好きな部分だ」
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 タマルのセリフ、「物語の中に拳銃が出てきたら、それは発射されなくてはならない」ではないが、この「シンフォニエッタ」が、作品の中で重要な役割を担っている。ただ、今のところそれは直接“発射”されるのではなく、物語全体を覆いつくすような、底を流れるような、そんな関わりとしてだが。
 村上春樹は対談で、「BOOK1、BOOK2を書き終えて、そのときは本当にこれでおしまいのつもりでした」といっている。もう1度、BOOK2の終章部分を読み返してみた。天吾が父の病室に置かれた『空気さなぎ』の中に青豆を確認し、月の二つある1Q84の世界で生きていくことを誓うところで、BOOK2は終わっている。これでこの物語の完結といわれれば、それはそれで納得しないでもないが・・。音楽のことは門外漢でさっぱり分からないのだが、「シンフォニエッタ」が「小交響曲」でありながら、ソナタやロンド形式を採用しない「軍楽」であることの意味づけを、「BOOK3」に期待できるのだろうか。


追記
 「シンフォニエッタ」を検索したら、「村上春樹『1Q84』を批判する」というu-tubeサイトに行き当たった。『1Q84』発刊から半年後くらいのころ、雑誌編集者や大学教師など、4名のいわゆる文芸評論家による対談形式で、『1Q84』を批判的な立場から批評している。
 とりとめのない話の内容を要約すると、村上春樹が近代文学のしきたりをないがしろにしながらも世間的に、ひいては世界的に評価されていることが、正統な我ら文芸評論家としては許せない、ということらしい。言い分は言い分として拝聴するとしても、その物言いの高慢と傲慢にあきれてしまった。あまり一般に知られることのない文芸批評家といわれる人たちの実態とはこんなものかと。ただ、この4人の“批評”の切れ端には、今後村上文学を考える上での重要なキーワードも散在しており、せっかくu-tubeを利用して発信するのであれば、もう少していねいな下準備が必要だったのではないだろうか。

 BOOK3が今日発売になるそうだ。なにはともあれ、読みきってみたい。


佐藤隆介・筒井ガンコ堂「梅安料理ごよみ」(再読)

2012-05-28 06:48:40 | Weblog

 ずい分前に読んで、行方不明になっていた本。
ここのところ美食本を何冊か読んだ関連で、確かこんな本が・・、と思いながらあちこちさがしたら、本棚の隅っこにあった。多分10年位前に購入したのだと思う。
著者は、佐藤隆介・筒井ガンコ堂という、池波正太郎フリークにして、自らも料理好きを自認するライターの共著。「仕掛け人・藤枝梅安」の食べ物の出てくる文節を書き出しに引用し、春夏秋冬ごとに、その食べ物のウンチクを語るという運びになっている。

 「茄子かやき」という食べ方があるという。
 長茄子の皮をむき、削ぎ切りにし、アク抜きをする。鮭缶を浅い鍋にあけ、水少々を足してそれに醤油をたらし、煮ながら食べる。ちなみに「かやき」とは、その昔ホタテ貝を鍋がわりに使ったそうで、この名がついたのだとか。先月、おっかなびっくり少量ためしてみたが、そこそこうまかった。薀蓄によると、真夏猛暑のさ中、“金時の火事見舞い”のような顔で汗をダラダラ流しながらたべるのがよろしいのだそうで、自家製の茄子の収穫の頃に、再度挑戦してみようと思う。

 このお二人の食に関する造詣も相当なものだが、そのネタ元を提供して飽きない池波正太郎の料理に対する裾野の広さ、それと何よりも、文章運びのうまさにつくづく感心させられる、そんな一冊である。



石田英一郎「日本文化論」

2012-05-26 08:52:01 | Weblog

 雑然古書店購入。630円の値札がついていたが、たぶん買取りの際に値段のつかなかったであろうことが想像できるボロ本。その薄汚れて書き込みだらけのこの古本をなぜ読む気になったかというと、この著者が、あの『マレビト論争』の仕掛け人だったからである。日本民族の信仰の原初形態は祖霊だったのかマレビトだったのか・・。あのような議論の誘導をできる人の描く論文とはどういうものなのだろう。そんな思いがあって、この人の著書を一冊は読んでみたいと思っていた。

 巻頭注記を読むと、「1966年秋、成城大学主催『柳田国男先生記念特別講演』において行われた連続講義にもとづくものである」とある。その通り、『文化と民俗』『日本人とは何か』からはじまり、民族の形成・文化の源流・国家の起源・文化の特質等について、平明で要点把握のしやすい講義が展開されている。この本を読み始めたのが「北の土偶展」の直後で、書き出しも日本人の起源についてだったため、あの「遮光器土偶」を思い描きながら楽しく読みすすめることができた。

 ただ、長く続いた縄文時代から弥生時代への急激な変化については、「その変化が縄文人の自発的意思にもとづくものとは思えない」としながらも、江上波夫「騎馬民族国家」見られるような鮮烈な論調は、みられなかった。これは、わからないものをわからないなりに仮定・推測するか、わからないものはわからないものとして固定するかの、研究者の姿勢の問題なのだろう。私のような素人としては、たとえいくつもの齟齬があろうとも、真っ暗闇の海に灯りを照らしてみるような試行錯誤に心惹かれるのだが・・。

 このあと機会があれば、「桃太郎の母」「河童駒引考」を読もうと思っている。



倉田百三「出家とその弟子」

2012-05-21 08:36:24 | Weblog

 書店の岩波コーナーに寄るたび、なんとなく気になっていた本の一冊なのだが、あるブログサイトに紹介されていたのをきっかけに購入。今更、道を求めて何かにすがるなどという殊勝な気持ちもないのだが、ここのところ、広いくくりでの宗教がらみの小説に縁がある。それは、単に年のせいなのか。あるいは、そもそも宗教が小説にとっての永遠のテーマゆえなのか、・・。
 この小説は、大正六年、作者二十六歳の作品だという。真宗開祖親鸞の故事に題材をとり、人間の愛と苦悩を舞台形式で描き、大ヒットとなった。現代のような情報過多の時代からすれば理解に苦しむ部分もあり、その理想主義に首を傾げたくもなるが、その時代の頭脳明晰な青年文学者の書いた作品と割り切って読めば、これはこれでいいのだろう。
 ふと、谷崎潤一郎がこのテーマで小説を書いたならどんなふうになるだろうと考えてみた。親鸞という前提、あるいは聖書・歎異抄の引用をそのまま踏まえたとしても、ずいぶん違ったものになっただろう。倉田作品に、理想主義を唱えながらも作者の性的抑圧への反動のようなものが見え隠れするのと対照的に、“我は悪しき人間である” を逆手に取った谷崎耽美が存分に展開されたのではなかろうか・・。



村上春樹「1Q84 BOOK1」

2012-05-10 07:00:22 | Weblog

 「1Q84」文庫版の配本が、いよいよはじまった。
 BOOK1からBOOK3までそれぞれを前・後編に分冊し、4月から6月まで順次発刊されるという。単行本が発行されたのは2009年5月だったが、そのとき購読をスルーした。スルーした理由は、うすら雷同感覚で読みたくはなかったということにつきる。そして読むのは、喧騒もおさまって文庫版が出たころにしようと決めていたからだ。(実は、「ねじまき鳥クロニクル」も「海辺のカフカ」も、単行本ではなく文庫本で読んでいる)。
 それともうひとつ。村上は「1Q84」の前に、「アフター・ダーク」という中編の作品を書いているのだが、この作品の読後感がイマイチだったこと・・。私の読み込みの足りなさかもしれないが、「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」の延長上にある作品とは、とうてい思えなかった。「フィクション作家としての村上春樹のピークは過ぎてしまったのだろうか・・」などという、なんとも不遜な感想さえ抱いてしまった。ただ、村上の作家活動そのものは健在である。先日読んだ「小澤征爾さんと、音楽について話をする」では、この作家の深遠にふれることができたし、2010年「考える人NO33『村上春樹ロングインタビュー』」を読み返してみても、村上の書くことへの尽きることない情熱が伝わってくる。私にとっての「アフター・ダーク」の消化不良は、単なる個人レベルの消化不良なのか、それとも・・。

 ずいぶん前置きが長くなってしまったが、そのようなことどもを踏まえたうえで、「1Q84」を読んでいく。この作品においては、【宗教】が大きなサブテーマとなっているが、村上が「アンダーグラウンド」以来追い続けた【宗教】を、今この作品の上で、どんな風に語るのか。また、「BOOK1」「BOOK2」「BOOK3」を、“小説のような音楽を書く”村上の、3楽章からなる交響曲と捉えて読む、そんな読み方をできるのかどうか、などなど。
 ともあれ、めぐる因果の出発点「BOOK1」を読み終えた。


「文学界 5月号」拾い読み

2012-04-24 09:09:42 | Weblog

 「特集『古事記1300年』」という見出しに惹かれ、ついふらふら購入。ほかには、吉本隆明氏の追悼特集と、芥川賞作家西村賢太の最新作、文学界新人賞鈴木善徳の受賞第一作あたりがメインとなっている。高橋源一郎「ニッポンの小説・第三部」の連載が始まっているのに、少し驚いた。高橋の「ニッポンの小説」を読みたさに「文学界」を買ったり図書館で読んだりした時期が結構長い間あったからだ。再開したということは、それなりの要望があったのかどうなのか・・。

 三浦佑之・小路田泰直・蜂飼耳の三氏による鼎談「古事記1300年」は、急ごしらえの鼎談によくある、話のかみ合わない平行線状態で終始した。三浦氏の主張する古事記序文の信憑性について、最新の動向を含め、もう少し突っ込んだ話を期待したのだが、・・。「口語訳古事記」、何度か立ち読みしながら購入をためらってきたが、時間をかけて読んでみようかと思っている。

 小説は、西村賢太「棺に跨る」・鈴木善徳「河童日誌」を途中まで読んでみた。西村作品はDVを、鈴木のそれは、日常の中に巣食う“もののけ”感覚を小説の題材にしている。2作品とも、途中で読むのをやめた。これが当世の【純】文学だといわれれば、はいそうですかと従うだけだが、少なくとも私向きには書かれていない。

 高橋源一郎「ニッポンの小説・第三部」では、テキストを読む際の(心の中の)警報装置のこといついて触れている。「僕は文章の読み方がわからなくなった」「文章を警戒するスイッチが切れた。警報装置が作動しなくなった」といった書き出しから展開する源一郎ロジックは、健在である。
 たしかに『警報装置』ということはあるかもしれない。よく本文を読む前にオビや、まえがき・あとがきに目を通す場合があるが、あれは源一郎さんいうように『警報装置』が作動し、「分別と排除を行っている」ということなのか・・。この連載は、継続して読んでみたい。



飯嶋和一「神無き月十番目の夜」

2012-04-20 08:49:38 | Weblog

 この小説の1602年(慶弔7年)といえば、関ヶ原の戦いを機に、日本に新しい覇権が誕生した年の、翌々年にあたる。ひとつの秩序が新しい秩序に変わろうとする時、様々な軋轢が生じる。時として新秩序は、旧秩序の中で充分機能していたものをさえ、ずたずたに切り刻んでしまうことがある。作者の飯嶋和一は、常陸の領主佐竹義宣の出羽秋田移封に伴う一部始終のひとコマを、新旧両秩序の人間のそれぞれの視点から描く。秩序とはいったい何なのか・・。

 飯嶋和一の小説は、あい変らず読みづらい。創作の為に収集された歴史資料が、精選しきれていない。というか、たとえば、陶工がろくろの上に出来上がった作品をぐしゃっとつぶしてしまうような、バランスの悪さ・・が、ある。そしてついでに言えば、あろうことか、この小説には、主人公らしい主人公がいない。
 少なくともこの作家の頭の中には、予定調和の大団円といった発想はないようだ。作者のいう“覚醒”を形にしたら、こんなふうになった、ということなのだろう。ただ、私のような読者は、それが良くて飯嶋世界を楽しむことになる。浅田次郎や隆慶一郎のようなみごとな小説を書いたら、それはもう飯嶋和一ではなくなるのだから。



「神曲」と「往生要集」

2012-04-13 09:46:19 | Weblog
 友人から、「ドレの神曲」(ダンテ 谷口江里也:訳)という本を借りて読んだ。
 ふだん無節操にいろんな本に手を出しながらも、聖書をはじめとするこの系統にはほとんど縁がなく、あのドレのおぞましい亡者の絵がこの作品の挿絵だったことも知らなかった。
 この作品は、1300年頃、イタリアの詩人で政治家だったダンテ・アルギエーリによって書かれた臨死体験物語(私流解釈・・)である。ダンテのつけた原題は「喜劇 (Commedia)」だったというから、これも私の勝手解釈だが、執筆当初は、政敵に対する告発的な意味合いが強かったのではないだろうか。
 物語は、暗い森に迷い込んだダンテが、古代ローマの詩人の魂に導かれ、地獄、煉獄を経て天国に昇天するまでの遍歴が描かれている。特筆すべきは、なんといっても「地獄篇」における地獄の細密描写で、漏斗状に九層からなる地獄には、圏(層)ごとに生前の罪状と地獄における罰が明記されている。
• 第一圏 辺獄(リンボ) - 洗礼を受けなかった者
• 第二圏 愛欲者の地獄 - 肉欲に溺れた者
• 第三圏 貪食者の地獄 - 大食の罪を犯した者
• 第四圏 貪欲者の地獄 - 吝嗇と浪費の悪徳を積んだ者
• 第五圏 憤怒者の地獄 - 怒りに我を忘れた者
• 第六圏 異端者の地獄 - あらゆる宗派の異端の教主と門徒
• 第七圏 暴力者の地獄 - 他者や自己に対して暴力をふるった者
• 第八圏 悪意者の地獄 - 悪意を以て罪を犯した者
• 第九圏 裏切者の地獄 - 裏切りを行った者

 見るからに恐ろしいドレの地獄絵に見入りながら、九つの項目すべてになにかしら該当する私にはどんな地獄が待っているのだろう、などと読んでいたら、救済カードがあった。私のような無為に生きて善も悪もなさなかった者は、地獄にも天国にも入ることを許されず、地獄の手前の領域で、蜂や虻に刺されながらさ迷い続けるのだとか。少しほっとした・・。

 読みながら、日本にもこれとよく似た教えがあるのを思い出した。源信「往生要集」である。「神曲」より300年ほども早い時期に著されており、地獄図としては、こちらの方が元祖といえるのかもしれない。ただ、「往生要集」における地獄の解説は、あくまでも序論に過ぎず、本旨は、みんなで極楽往生しようよ!というところにある。そのために念仏はこうあるべきで、それを怠るものにはこんな地獄が待ち受けているんだよ、というのが往生要集の概要らしい。
 ひきかえ、「神曲」はといえば、ダンテというひとりの詩人の、おのれ自身の心の救済のドラマである。そこに、他者の救済という概念はない。
 世俗の名利を断って隠棲した源信と、政治的復活と一人の女性との愛の成就を願い続けたダンテ。このふたりのスタンスの違いを、どうとらえるべきなのだろう・・。

壇一雄「わが百味真髄」

2012-04-05 08:50:42 | Weblog

 正月に読んだ「美味放浪記」が面白かったので、機会があったらこちらも読もうと思っていたところ、いつもの古書店でみつけ、すぐに購入。前作が、作者自身、人生の放浪真っ只中の時期に書かれており、まさに「火宅の人」のなまなましさが文中に散らばっているのに比べ、こちらは著者最晩年の、それこそ料理風にいえば、アクのきれいに抜けたエッセイとなっている。
 まえがきによると、坂口安吾が壇の料理熱を評し、「壇君が料理をやらかすのは、あれで発狂を防いでいるようなもんだから・・・・・」といったとか。言う方といわれる方、双方を思い描くにつけ、言いえて妙ではないか。そして、まえがきの最後をこんなふうにしめくくっている。賛否両論あろうが、この作家の視点の置き処を知る上で、興味深いコメントである。


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 料理はインスタントのウドンかラーメンかをその子供に啜り込ませ、母の会か何かに出かけていって、ペチャクチャペチャクチャ、その子のしつけや知能指数のありようなどしゃべりまわっている女達は、亡国の子供をつくっているだけのものである。
 料理はインスタントでよろしく、それより自分の時間の方がもったいないなどと言っている女性方よ。
 よろしい、この地上の、もっとも、愉快な、またもっともみのりゆたかな、飲食(おんじき)のことは、ことごとく、男性が引き受けてしまうことにしよう。
 そうして、女性は、日ごとに娼婦化し、日ごとに労働者化してしまうがよろしいだろう。
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三島由紀夫「金閣寺」

2012-03-23 19:26:21 | Weblog
 雑然古書店購入。若いころ読みかけて途中で投げ出した・・、と思っていたが、一応通読していたようだ。そう思ったのはきっと、そのときの読後感の悪さのせいだったかもしれない。自分自身も劣等感とつまずきだらけの青春期、この小説の主人公の抱える懊悩が、とてつもなく重いものに思えたに違いない。

 少年が幼いころから父親に聞かされていた、金閣寺のすばらしさ。だが実際に見た金閣は、「それは、古い黒ずんだ小っぽけな三階建て」にすぎなかった。少年は、金閣が「その美をいつわって、何か別のものに化けているのではないか」と思った。「醜く感じられる障害を取除き、一つ一つ細部を点検し、美の確信をこの目で見なければならぬ」とも思った。少年のつのる思いは戦争末期をむかえ、「私を焼き滅ぼす火は金閣をも焼き滅ぼすだろう」「同じ禍い、同じ不吉な火の運命の下で、金閣と私の住む世界は同一の次元に属することになった」という思いにまで昇華する。しかし、終戦をむかえ、少年のなかの金閣との関係は一変し、「美がそこにおり、私はこちらにいるという事態」に引き戻されてしまう。少年にとっての敗戦は、決して開放などではなく、日常の復活という絶望でしかなかった。そして、やがて、ひとつの呪詛を心に刻む。「いつかお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかはお前を必ずわがものにしてやるぞ」。

 小説は、1950年に実際に起こった学僧による放火事件を題材にしている。小林秀雄のように“きちがひ”と言い捨ててしまえばわかりやすい一人の学僧の行為に、三島は意味性を求めてこの小説を書いた。生まれついての吃音、醜い顔立ち、父の病弱、母の不実、初恋の無残な破綻、数少ない交友、社会への不信・・、少年のこのような生い立ちと金閣とのかかわりを、時には詩文のように流麗に、時にはドストエフスキー “大審問官”を思い起こさせるような激烈な文体で書き上げてゆく小説作法は、やはり、すごい!の一言につきる。
 ぐずぐずの読後解釈を披講すると、結局、主人公をあの凶行に走らせたのは、現実社会に対する疎外感だった。そして、その疎外感の核をなすものは、作者によって主人公に与えられた、研ぎ澄まされた“美意識”なのだろう。 ドナルド・キーンに言わせると、「およそ三流大学の学生」が持つとは思えないほどの“美意識”である。学僧が内なる“美意識”と外界との軋轢に身を滅ぼしていくと同じように、作者もまたやがて、内なる美意識に殉ずることとなるのは、当然といえば当然の帰結なのである。