goo blog サービス終了のお知らせ 

読書備忘録

日々の読書メモと万葉がらみのはなしあれこれ・・になるかどうか

バルザック「艶笑滑稽譚 第一輯」

2013-06-10 08:27:46 | Weblog

 こちらも数か月間つんどく状態だった本の一冊。
バルザックの小説は今まで縁がなく、どうせ読むなら「ゴリオ爺さん」「谷間の百合」あたりを手始めとするのがよかったのだろうが、バルザックみずからが「未来における私の最高の栄誉となるだろう」と自負したというふれこみにひかれ、読んでみることにした。

 貴族の奥様と司祭の恋、老将軍の老いらくの恋、金持ちの亭主と王侯を手玉に取る町娘等々と、フランスはルイ11世時代の恋のさや当てが、10篇おさめられている。これら作品が書かれた1800年代前半は、フランス革命がとん挫し、社会が混沌と先の見えない閉塞感にあえいでいた時期で、いわば名作童話の成人指定版とでもいうか過激な描写も出てくるが、作者の指摘せんとするところは、人間の本性の傲慢さ・あさましさ、それと信仰の理不尽・偽善といったところなのだろう。ただ、そのことを陰々滅々と書き連ねるのではなく、作者独特のシニカルなユーモアで笑い飛ばしているのがいい。まさに艶笑に値する作品集である。


マーク・トウェイン「不思議な少年」

2013-05-25 23:01:07 | Weblog

 機会があれば読みたいと思っていた一冊。数か月前に購入しそのままになっていたのを引っ張り出して読み始めたら、これがなかなか面白かった。

 舞台は1590年、オーストリアの片田舎。作者の言葉を借りるなら、オーストリアが世界から遠く離れて眠っていた時代で、よきクリスチャンでありさえすればほかの知識など必要なく、 “というのは、なまじの知識を得ると、神が定めたもうた運命に不満を抱くようになったりするが、神としては、そうした神の計画に対する不満など、とうてい許すわけにいかなかった”、そんな時代の話なのである。そんな、丘や森に囲まれひっそりまどろんでいた村に、一人の少年が現れる・・。

 マーク・トウェインは、あの「トム・ソーヤ」の作者でもある。「トム・ソーヤ」がアメリカ楽観主義の象徴のようにあつかわれるのとは対照的に、作者晩年に書かれたこの作品でマーク・トウェインは、不思議な少年サタンの言動を通してペシミズム持論を展開している。単にストーリーを追うほかに作者の思想の変遷について考えをめぐらすことも、この小説を読む楽しみといえる。


中村元「原始仏典」

2013-04-28 09:43:49 | Weblog
 

 仏教の原点をなんとなく(苦労せずに)俯瞰的に知りたい・・。
 こんな虫のいい漠然とした思いで手に取った一冊。著者は、インド哲学・仏教思想の第一人者として、つとに有名らしい。「仏教思想をその原点まで遡り、多数の原典を原語から翻訳した」パイオニアであるという。そんな大学者の書いたものならさぞ難しかろうと思いきや、これがとても読みやすい。原始仏教の成り立ちからはじまり、「スッタニパータ」「テーラガータ」「ダンマパダ」などという最初期の仏典をとりあげ、その説かんとするところを平易な言葉で解説している。著者が伝えんとする人間ゴータマ・ブッダ(釈尊)の等身大の像が、おぼろげながら分かるような気分になる、そんな本である。

 有名な「毒矢の教え」のもととなる「マッジマニカーヤ」についても、触れている。
 主旨を簡略にいうと、「毒矢に射られた人がいたら、その原因を論議するよりも、まず矢を抜いて治療してあげることこそがなすべきことだ」というものだが、これはあくまで譬喩にすぎない。いくら高邁な哲学を唱えても今生きる人の苦しみを救うものでなければ意味をなさないという、いたってシンプルな教えが根本にある。
 これら原始経典には、あくまでも《すぐれた人間》としてのゴータマ・ブッダの教えが描かれており、のちの世に作られた伝記(仏伝や本生譚)が「神秘や宗教性や呪術性に包まれている」のに比べ、これら経典を総合して、「ゴータマ・ブッダに宗教を創設したという意識はない」と著者は力説する。

 時折おこる宗教がらみのおぞましい事件に接するにつけ、思う。さて、仏教とは・・。


岩波文庫「日本近代短篇小説選 明治編1」

2013-03-31 21:48:40 | Weblog


 題名の通り、有名無名取り混ぜての短篇小説選集である。
 編者が意図する、近代小説黎明期のさまざまな模索を読みとる楽しみ、ということもあるが、逍遥「細君」紅葉「拈華微笑」一葉「わかれ道」鏡花「龍澤譚」などの作中に出てくる“明治情緒”を、楽しく読むことができた。

 たとえば、紅葉「拈華微笑」という作品に、《壁訴訟》などという言葉が出てくる。いまどきほとんど聞くことのない言葉だが、直截に言うと角が立つような事案を、遠まわしのあてこすりやひとりごとで伝えることをいう。壁に向かって訴訟とは、なんとも味のある言葉ではないだろうか。

 一葉の人生の哀歓、鏡花のエロスも、面白く読んだ。全6冊ということなので、機会を見て続きも読んでみようと思う。





山内昌之「歴史家の一冊」

2013-03-28 05:39:54 | Weblog

 久しぶりに寄った雑然古書店で購入。1998年発刊とある。これから歴史を勉強しようとする若い人に向けての読書指針といったところだろうか、83冊の本を取り上げ、書評を加えている。著者の専門は中東イスラームに関する研究なのだが、専門外のテーマも数多く、無性に読んでみたくなる本が次々と出てくる。

 「初期ギリシャ教父」という本の書評で、著者は《施し》の思想について触れている。
福音書の中、ある人の「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」との問いにイエスは「持っているものを売り払い、貧しい人びとに施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい」と答える。質問者がこの答えに落胆し去ったあと、イエスは弟子たちにこういった。「金持ちが神の国に入るよりも、駱駝が針の穴を通るほうが、まだやさしい」。
 信仰心の極めて希薄なわたしなどには、シニカルなジョークとしか映らないが、著者はこれを「イエスが捨てよと命じたものは、生活に必要な財ではなく、財を悪しく用いる霊魂の柔弱さと情念だ」ととらえる。そして、「時にはキリストの名さえかたりながら、財産や土地を、それも脅迫や投薬などで強制的に差し出すことを命じる一現代宗教の業」を厳しく指摘している。普段気にもしない布施という宗教行為について、あれこれ考えさせられる一篇だった。


 縁と機会に恵まれれば読みたい本を、以下に書き出しておく。

旧事諮問会「旧事諮問録」
ボルヘス「悪党列伝」
中村真一郎「蠣崎波響の生涯」
中村彰彦「保科正之」
バットゥータ「大旅行記」
吉村昭「落日の宴」
中央公論社「ハディース」牧野信也訳
柳沢淇園「雲萍雑志」
石原莞爾「最終戦争論」
穂積陳重「法窓夜話」



百田尚樹「永遠の0」 

2013-03-18 08:12:18 | Weblog

 この作家の名前は大型書店の店頭で何度も目にしていたはずだが、なぜか触手が動かなかった。特に理由はなく、今思えば食わず嫌いということか。「永遠に読まないリスト」入りしていたはずが、強く背中を押してくれる方がおり「ぜひ感想を」とまでいわれれば、ひくわけにも行くまい。まずは読んでみることにした。面白い。一気に読み終えた。

 読み始めて感じたのは、これは文学というよりも、活字を使ったドキュメンタリーじゃないか、という思いだった。この小説は太平洋戦争で戦死した《実の祖父》のことを調べる《ぼく》の前にあらわれる複数の証言者の回想を柱に構成されており、その一人ひとりの回想から、《実の祖父》の実像に迫っていくという手法をとっている。文学作品にありがちな重層性が感じられない反面、とても映像的な描写にあふれている。質のいいドキュメンタリー番組のような、それを活字で追っているような、そんな気分にさせられた。

 私が読んだ文庫版巻末には児玉清さんの解説があり、その中で児玉さんは、小説は作家の全人格の投影であるという主旨のことを言っており、「永遠の0」 とそれを書いた百田尚樹という稀有な作家との出会いに天を仰いで感謝したい、とまで絶賛している。戦争という究極の狂気の中にこのような光明を見いだし、作品化に成功した百田尚樹は、まさしく稀有の作家なのである。

 読み終えてオビを見直したら、今年12月に映画公開決定とある。小説に負けぬクオリティの高い映画であることを希望してやまない。

須賀章雅「貧乏暇あり 札幌貧乏古本屋日記」

2013-03-05 10:05:30 | Weblog

 もうずいぶん前、2004年の話。「彷書月間」という雑誌があった。その雑誌で「第四回古本小説大賞」というイベントがあり、大賞受賞者が、この本の著者須賀章雅氏である。受賞作の「ああ狂おしのハトポッポ」には、札幌に住む古本屋夫婦の生活実態が赤裸々に描かれており、その自嘲的な作風と文体が選者の支持を得、なんと、「妻の言い分」という付記をつけることを条件に受賞となった経緯を持つ。

 前書きが長くなったが、本書はその須賀さんが2005年から続けていたブログを書籍化したものである。朝夕に食べた(飲んだ)ものからはじまり、メールによる古本受注のチェック、同業者のセドリや古本市出品のアルバイト、交換会や大市出品などなど、札幌豊平区の自宅マンションで通販中心の古本屋を営む男の貧困生活が、延々とつづられている。「ハトポッポ続編」といってもいいかもしれない。
 日々の食事の記録を読んで、ふと小林一茶を思い出した。何を食べたかの記録はあまりないが、一茶は夫婦の閨のことを日記にしるし続けた。

 廿  陰(くもり) 柏原ニ入ル 隣逮夜夕飯
 廿一 晴 墓参 夜雪 交合
 廿二 晴 昨夜、窓下ニ於テ、茶碗・小茶碗、人ニ障ラザルニ、微塵に破ル。妻云ウ、怪霊ノ事ト云々。股引(ももひき)及ビ犢鼻褌(ふんどし)ヲ洗フ。

 一茶は、とことん執着の人だった。蕉門にあこがれ風狂流転を試みるが、心のそこにはいつも、俗欲がぬぐいきれずにあった。そしてその俗欲への執着こそが、一茶の二万句にも及ぶ創作のもととなったのである。須賀さんの食事記録を読みながら、そんなことをずうっと考えた。

 この本は新聞書評で知ったのだが、書評子の経営する古本屋(兼バー)へ行くと著者自作俳句およびサインつきの本が手に入るとの触れ込みだったので、そちらまで出向いて購入することにした。偶然なのだが、その古本屋さんが入っているテナントビルは、私が20代のころ勤めていた会社のあったビルだった。もちろんその会社は今はなく、テナントはすっかり替わっていたが、一階の喫茶店だけはそのままだった。うーん、30数年前・・。出勤前、かならず寄ってコーヒーを飲んだものだ。常連のおじさん達に人気の人妻ウェイトレスさんがいたが、彼女はいまどうしていることやら・・。偶然といえば、私の生活圏と須賀さんの生活圏は結構近い。平岸プールもマックスバリュー南平岸店もよくわかるし、あのあたりの坂をなぜか小走りに走る須賀さんを、ひょっとしたら横目で見たことがあるかもしれない。
 ともあれ、書店徘徊で「彷書月間」という雑誌に目を留めたことが、この著者を知った始まりなのだが、それもこれも縁なのだろう。次回はどんな形でこの著者の名前を目にすることになるか、楽しみである。

 


深巳琳子「沈夫人の料理店」

2013-02-22 22:57:44 | Weblog
 前作「沈夫人の料理人」の続編といえばいいかどうか。
 若さと美貌と底意地の悪さをもてあます富裕階級の奥様と、優柔不断で小心者ながら料理に関しては天賦の才を持つ料理人。このシチュエーションはそのままに、時代だけ明朝から清朝末期の上海租界にスライドしている。
 この漫画の面白さは、テーマである料理に限らず、ストーリーの中に1920年代の中国の庶民の様子や、それを取り巻く政治情勢などについて夢想できるところにある。たとえば、家に英国人を招待することになり、ビビる料理人に奥様が「安心おし、英国人は肉さえだしゃ味は二の次。お前の腕がもったいないくらいだ」と言い含めるくだりがある。この時代に英国人をこのような目で捉えられる中国人がどれほどいたかは知らないが、妙な説得力がある。この富裕層奥様の視点(底意地の悪さ)は、結局作者の視点なのである。

 この作家の別の作品を読みたくて検索したら、ほかに1作しか見当たらなかった。寡作の人なのだろうか・・。次作に期待感はあるが、クオリティの薄まったようなものは読みたくない、などとも思う。それほどにこの作品の完成度が高いという意味でなのだが・・。

ハーマン・メルヴィル「白鯨」 阿部知二:訳

2013-02-17 18:44:54 | Weblog
 昨年11月末、いつもの雑然古書店の隅っこに完熟のセピア状態で陳列(≒放置)されているのを見つけ、購入。いつかは読みたい名作の一冊ではあったが、結局読了に3ヶ月かかった。小説と名のつく本にこれ程時間がかかったのは、今回がはじめてである。読書力の低下?・・。たぶんそうなのだろう。(ネット書評を読むと、読了に2年半かかったという人もいたので、少しほっとしたが・・)。
 本書の読了に時間がかかる理由はひとつ、おそろしく読みづらい本なのである。その読みづらさを分析すると、ふたつに分けられる。ひとつは、物語の展開に無関係のうんちくが多すぎること。そしてその大半は 作者による“鯨学”でしめられており、この長広舌に最後まで付き合いきれるかどうか。もうひとつは、翻訳の旧時代性とでもいったらいいか、文章表記・表現がとても古く難解である。解説によると本書は初の完本邦訳で、後にそれを改善したと思われる新訳がでているとのことなので、たまたま私が読んだのは、特に読みづらいものだったらしい。ともあれ、これらがあいまってかもし出す雰囲気が、読み手を深い無酸素窒息状態に陥れる。「白鯨」とは、こんな本である。それでもなんとか読み終えられたのは、時代比較というか文化人類学的なものに惹かれたせいかもしれない。

 この作品が世に出たのは1851年。世にいう大航海時代終焉のころである。そして、ペリーが浦賀に来航したのがその2年後なのだが、メルヴィルは作品の中でちょっとした予言をしていて興味深い。訳者によって文言にずれがあるようだが、私が読んだ阿部知二氏訳を再掲してみる。

********************************
「もしあの幾重にも閉ざされた国の日本が外人をむかえることがあり得るとすれば、その功名を負うべきものは捕鯨船のほかにない。いや、もはやその扉口に迫ってすらいるのである」   (24章「弁護」より)
********************************

 メルヴィルがいうように捕鯨船がその後栄誉を得たかどうかは不明だが、数百年鎖国を貫いてきた日本という不思議の国の開国が間もないことを、この作家は確信している。日本中が「たつた四杯で夜も眠れ」ないほどの大騒ぎをしている、その外側を取り巻く世界の空気とは、このようなものだったのだ。

 とても読みづらい本ではあるが、上記の国際比較や宗教や人種問題に関するメタファーは、とても面白かった。ついでにいえば、今をときめく「スターバックスコーヒー」の名前の由来が、この小説のピークオード号の一等航海士「スターバック」にあったということも、初めて知った。今回は、それでよしとしよう・・。

栗原哲也「神保町の窓から」

2013-01-21 10:42:25 | Weblog

 この本は、学術図書を主に扱う出版社の経営者が同社PR誌のコラム欄に書きつづってきた随想を、一冊の本にまとめたものである。正月明けの新聞書評で購入。学術図書など年に何冊も読まない(というか、どこからどこまでが学術図書の境目かよくわからない)私のような読者には無縁の世界と思っていたが、オビの“著者の半世紀に及ぶ悪戦苦闘・善戦健闘の本と人をめぐるヒューマン・ドキュメント”に惹かれ、読んでみることにした。

 著者が長年社長を勤める出版社は、主に経済に関する専門書や資料集を作ってきた。なかでも、戦後復興期に出された膨大な量のガリ刷りの経済計画資料の整理と刊行は、この会社が手がけたのだという。全233巻(計540万円)からなる資料集の中には、「財閥解体・集中排除関係資料」・「国民所得倍増計画資料」・「戦後物価統制資料」という、経済オンチの私などにもなんとか想像のつく資料もある。世の中にはこんな会社があるのだと、いまさらながら感心した。

 とはいえ、当然こんな景気のいい話ばかりではない。ここ数十年続く出版不況の現状は、特定少数を相手とする学術出版にも一層重くのしかかる。厳しい状況の中でのまさしく悪戦苦闘の日々。学者先生とのトラブル、対取次、業者とのいざこざ、銀行との攻防などなど・・。胸におさめきれないあれこれのつぶやきの総集編がこの本なのだ。
 ある号で、大学教授とのやりとりでぼやき気味の記事を書いたら、高名な大学教授から抗議の手紙が来た。要約すると「まるで儲かりもしない大学教授の本を出してやっているのだといわんばかりの書きかたに思え、不愉快だった。そんなことをいうのなら、もっとマシな本を作れ」というものである。更には編集者を無能呼ばわりまでされ心穏やかでなかったが、考え直した。「愚痴が悪態に聞こえたらその文章は最低だ。威張って書いたのではありませんが、不快になられた方々にお詫びいたします。気をつけます。ましな本のためにも精進します」。

 著者は、いわゆる60年安保世代の人である。マルクス、レーニン、毛沢東を知り安保反対のデモやスクラムを経験したあの世代。この頃ではすっかり死語となったヒューマニズムとか正義感といった単語を思い浮かべてしまう文章表現が、いたるところに出てくる。毀誉褒貶あろうが、私には、そんな意味で面白い本だった。ついでながら、本の装丁も、とてもいい。


 

三田村鳶魚「時代小説評判記」

2013-01-10 09:56:22 | Weblog

 昨年暮れ、年越し読書用にと古本屋さんで数冊購ったうちの1冊。
 主に昭和初期頃の時代小説8篇をとり上げ、考証批判を加えている。その歯に衣着せぬ批判振りからは、どこかあの北大路魯山人を思わせる狷介さを感じないでもないが、当時売れっ子の作家の代表作を相手に展開される厳しい考証は、やはり一読の価値がある。
 巻頭でやり玉に上がっているのが、島崎藤村「夜明け前」である。ひとことでいえば、王政復古思想に傾倒する主人公の苦闘と挫折の物語だが、考証の一端を以下に・・。

**********************************
・「徳川様の御威光といふだけでは、百姓も言ふことを聴かなくなつてきましたよ」
【考証】この時分の人は、徳川様とは言わない。必ず公儀という。
・「一体、諸大名の行列はもつと省いてもいゝものでせう。さうすれば、助郷も助かる、参勤交代なぞはもう時世おくれだなんていふ人もありますよ」
【考証】こんなことを言い、こんなことを考えていたものは、横井小南とかなんとかいう特別な人の話です。宿役人ぐらいの者が、諸大名の行列をどうしようなんていうことを、ひょっとして考えたにしろ、決して口外することはなかったはずだ。
・「十四代将軍の御台所に選ばれたといふ和宮はどんな美しい人だらうなぞと、語り合つたりしてゐるところだつた」
【考証】皇妹の御降嫁をお願い申し上げたということは、選ぶなどという言葉を当つべきものではありません。
**********************************

 著者のいわんとするところは、何か一つのことを調べるのに、そのことだけを調べてもその時代をつかむことは出来ない、ということである。大大名と小大名の暮らしぶりの違いもそうだし、仕える武士も同じで、潤沢な禄の人もいれば小禄の貧乏暮らしの武士もいる。さらになによりも、時世というものも把握しておかなければならない。260年続いた封建社会とはどんなものだったのか、庶民にとって幕府や朝廷とはなんだったのか。その諒解こそが必要だと、著者はいう。

 このあと、吉川英治・直樹三十五・菊池寛など、そうそうたる作家作品を取り上げ、時代考証から見た齟齬について徹底的に指摘している。鋭い指摘に喝采を送りたい気持ちと、何でそこまで大人気ない・・という気持ちが、読んでいて何度も行き来する。なんとも不思議な本である。「三田村鳶魚全集」という本があるそうなので、近日中に図書館へ行こうと思っている。

村上春樹「アンダーグラウンド」(1997年発行) 再読

2012-12-28 09:04:10 | Weblog

 今年の春から夏にかけて読んだ「1Q84」のまとめを書こうと思い、本書を久しぶりに読み返した。「一九九五年三月二十日の朝に、東京の地下でほんとうに何が起こったのか?」。本書は、このことの検証のための著者インタビューで構成されている。ある日突然、思いもしない激しい暴力を受けなければならなかった被害者およびその家族の生々しい告白が、延々と続く。
 このインタビューのあとがきで、著者は「あちら側」と「こちら側」についての論理を展開している。要約すると、オウム真理教という「あちら側」の「ものごと」を対岸から双眼鏡で眺めるだけでは何も見えてこない、その「ものごと」は、自分というシステム内でおこったことなのではないか、というものである。もう少しいうと、「こちら側」のエリアの地面の下に隠されているもの=アンダーグラウンドの検証こそが必要なのではないかと。

 付箋箇所だけですまそうと思ったのが、結局読み込んでしまった。何度読んでも重い・・。一つひとつのインタビューが、人が生きる根源への問いかけに聞こえてきそうな、そんな本である。


冲方丁「マルドゥック・スクランブル The 3rd exhaust 排気」

2012-12-19 08:57:29 | Weblog

****************************
 僕はただ、反吐にまみれながら見つけた、精神の血の一滴を、他の誰かにも見せたかっただけなのだ。その輝きが、どんなときも、あらゆる人々の中にもあるものだということを、声を限りに告げたかったのだ。(本書あとがきより抜粋)
****************************

 「マルドゥック・スクランブル」全3巻を読み終えた。近未来、奇跡的に命をとりとめた少女が、あらゆるものにターン(変身)できるネズミと出会い、数多の敵と遭遇し戦いながら、再生と成長を繰り返していく物語である。わたしのようにSFとかラノベ(ライトノベルの略なのだそうだ・・)にほとんど無縁の読者にはとっつきづらい世界ではあるが、先に読んだ「天地明察」「光圀伝」を松明がわりに、なんとか読み終えることができた。
 この「マルドゥック・スクランブル」と「天地明察」「光圀伝」に直接の接点はない。前者は近未来を舞台にした完全なフィクションであるし、後者は実在の人物に焦点をあてた時代小説(というよりは歴史小説というべきか)である。しいて接点をさぐるとしたら、それは作者が述懐する“精神の血の一滴”ということになるかもしれない。その血の輝きにより生きているのが人間であり、エンターティンメントはその方法に他ならないと、冲方丁はいう・・。

冲方丁「マルドゥック・スクランブル The 2nd Compression 燃焼」

2012-12-09 10:08:33 | Weblog

 「圧縮」の続編である。前編での近未来都市における壮絶苛烈な戦いから一変し、傷ついた主人公は《楽園》に保護され、治療(メンテナンス)をうける。そして、さらに意外な展開へ・・。
 
 「ライトノベルは面白いものを、『ここが面白いんだよ』って矢印をつけながら見せていかなくてはいけない媒体なんです。その面白さの矢印をとにかく詳しく示すことを心がけています」(ユリイカ総特集「冲方丁」インタビューより)

 “面白さの矢印” とは、スゴイ言葉だと思う。ライトノベルに限らず、あらゆる小説に共通することなのではないだろうか。文芸とメディアミックスの融合により、人や社会の本質的な部分を描き出していく手法上、小説のジャンル分けなどということは無意味なのかもしれない。