先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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証言集「関東大震災の直後 朝鮮人と日本人」(西崎雅夫編 ちくま文庫)より

2022年03月10日 08時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

証言集「関東大震災の直後 朝鮮人と日本人」(西崎雅夫編 ちくま文庫)より

日記    吉野作造
〔一九二三年〕九月三日 火曜
 三日、此日より朝鮮人に対する迫害始る。不逞鮮人の此機に乗じて放火、投毒等を試むるものあり大に警戒を要すとなり 予の信ずる所に依れば宣伝のもとは警察官憲らし 無辜の鮮人の難に斃(たおれ)るる者少らずと云う 日本人にして鮮人と誤られて死傷せるもありと云う 昼前学校に行くとき上富士前にて巡査数十名の左往右返此辺に鮮人紛れ込めりとて狼狽し切っているを見る やがてさる一壮夫を捉うるや昂奮し切れる民衆は手に手に棒などを持って殺して了えと奴鳴る 苦々しき事限りなし

〔一九二四年〕七月九日 水曜
 学生の一人より知人の看護婦の話なりとて次の様な惨話をきく 去年九月のこと千葉に朝鮮飴売の律儀者あり 妻君は日本人なり 十三になる男の子あり あの騒ぎで主人公は忽ち殺され子供は学校よりの帰りに襲われ片目はつぶされ からだ中疵穴だらけで病院に運び込み来る 喉が渇いて堪らぬので水を求むれども何処でも呉れぬ 病院なら貴えると思って来た どうか助けてとおがむばかりに頼む 不憫に思い手当してやる するとこれを聞いた民衆が承知せぬ 出せ出せと云う やむなく因果を含めて出て貰う 跡ふり返りながら悄然として出ていく すると物の一時間も立たぬうちに死骸となりて運び込まれたという それより十日程経て妻君は流産し又喉を突いて自殺をはかる これも病院に運ばる 傷は大したこともなかったが産褥熱の為にこれも果敢(はか)なくなる 
 そんな話は幾らでもあるが直接取り扱った人の話しだけに印象が深い これを悔いざる国民は禍(わざわい)である
〔政治学者、思想家、当時45歳、本郷に住む〕
(吉野作造「吉野作造選集14・日記 岩波書店)


自警団遊び   竹下夢二
「萬ちゃん、君の顔はどうも日本人じゃあないよ」豆腐屋の萬ちゃんを掴まえて、一人の子供がそう言う。郊外の子供達は自警団遊びをはじめた。
「萬ちゃんを敵にしようよ」
「いやだあ僕、だって竹槍で突くんだろう」
「そんな事しやしないよ。僕達のはただ真似なんだよ」そう言っても萬ちゃんは承知しないので餓鬼大将が出てきて、「萬公!  敵にならないと打殺すぞ」と嚇かしてむりやり敵にして追いかけ廻しているうち真実に萬ちゃんを泣くまで殴りつけてしまった。
 子供は戦争が好きなものだが、当節は、大人までが巡査の真似や軍人の真似をして好い気になって棒切を振りまわして、通行人の萬ちゃんを困らしているのを見る。
 ちょっとここで極めて月並の宣伝標語を試みる、
「子供達よ。棒切を持って自警団ごっこをするのは、もう止めましょう」
(画家竹久夢二「東京災難画信ー六」『都新聞』1923年9月19日)


大震雑記   芥川龍之介
 僕は善良なる市民である。しかし僕の所見によれば、菊池寛はこの資格に乏しい。
 戒談令の布かれた後、僕は巻煙草をくわえたまま、菊池と維談を交換していた。尤も雑談とは云うものの、地震以外の話が出たわけではない。その内に僕は大火の原因は〇〇〇〇〇〇〇〇そうだと云った。すると菊池は眉を挙げながら、「嘘だよ、君」と一喝した。僕は勿論そう云われて見れば、「じゃ嘘だろう」と云う外はなかった。しかし次手にもう一度、何でも〇〇〇〇はボルシェヴィツキの手先だそうだと云った。菊池は今度は眉も挙げると、「嘘さ、君、そんなことは」と叱りつけた。僕は又「へええ、それも嘘か」と忽ち自説(?)を撤回した。
 再び僕の所見によれば、善良なる市民と云うものはボルシェヴィツキと〇〇〇〇との陰謀の存在を信ずるものである。もし万一信じられぬ場合は、少くとも信じているらしい顔つきを装わねばならぬものである、けれども野蛮なる菊池寛は信じもしなければ信じる真似もしない。これは完金に善良なる市民の資格を放棄したと見るべきである。善良なる市民たると同時に勇敢なる自警団の一員たる僕は菊池の為に惜まざるを得ない。
 もっとも善良なる市民になることは、―--兎も角苦心を要するものである。
〔小説家、当時31歳、田端(北区)に住む]
(芥川龍之介『感想小品』1924年)


聞き書き    浅岡重蔵
 四ツ木橋の下手の墨田区側の河原では、一〇人ぐらいずつ朝鮮人をしばって並べ、軍隊が機関銃でうち殺したんです。まだ死んでいない人間を、トロッコの線路の上に並べて石油をかけて焼いたですね。そして、橋の下手のところに三ヵ所ぐらい大きな穴を掘って埋め、上から土をかけていた。
 二、三年たったころ、そこはくほみができていた。草が生えていたけどへっこんでいた。きっとくさったためだろう。ひどいことをしたもんです。いまでも骨が出るんじゃないかな。
 兵隊がトラックに積んで、たくさんの朝鮮人を殺したのを持ってきました。そう、河原で殺したのもいます。ふつうのなんでもない朝鮮人です。手をしばって殺したのも日本人じゃなくて朝鮮人だと思ったね。むこうを向かせておいて背中から繋ったね。軍隊が機関銃で撃ち殺し、まだ死なない人は、あとでピストルで撃っていました。
 水道鉄管橋の北側で昔の四ツ木橋寄りに大きな穴を掘って埋めましたね。死体は何百だったでしょう。九月はじめだから、町中にたおれている死体もくさって、においはひどかった。本当にひどいことをしたもんです。


荒川土手での白昼の惨劇  島川精
 二日目に四ツ木橋を越え、本田村(今の葛飾区)の庭先をかりてみんなで野宿したわけです。ちょうど二日目の晩に「津波ダァー」という声がしたのでみんな線路に上がて枕木に帯で体をつないだりしましたが、津波なんかいっこうにこないので帯をほどきました。ところが八〜九時頃、「朝鮮人が攻めてきたぁ」という声が流されて、みんな殺気だっちゃった。「竹をだせ!」「槍を出せ!」、棒きれもっている奴はナイフで先をとがらせて、集まった人たちだけで臨時自警団をつくり、周囲をかためた。その頃は芋が盛りで芋の葉っぱが人の顔にみえたりしてそれをつついたりしました。そしたら土手の方からバンパンバンと鉄砲をうつような音がきこえてきました。
 あくる朝、放水路のところを歩いていったら、――当時荒川放水路は工事中で朝鮮人は安い労働力として使われてた、日本人の貸金にくらべれば二分の一位でした。――そこに行ってみると無惨な屍臭がして、土手に、五人、六人と死んでいました。傷跡は明らかに刀で切られたり、竹でつつかれたりした死骸でした。からだに日本刀で斬られた断面がありました。人相が朝鮮人でした。[略]この荒川土手のところでは一軒の農家があったのですが、昼過ぎ七~八人の朝鮮人が農家のまわりに逃げてきて自警団やそこいらにいた人につかまり、有無をいわずふくろだたきにあい、五分間もたたないうちにめった打ちにして殺されてしまったのをみました。当時あそこは工事をしていたので玉石はいっぱいあって、土手の上からみんな玉石を投げて加勢して殺したんですよ。
 それからおやじと二人で焼け跡に戻ろうとしたのですが、その途中に寺鳥警察署があります。【略】その広場にムシロをかぶせられた朝鮮人の死体が一五〜六あった。何んともいえないいやな気持だった。顔のみえるのも、みえないのもありました。当時警察といえば絶対的だったんですが、そういう警察がやるんだから⋯⋯。



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