秋田雨雀、戯曲「骸骨の舞跳」から1923年9月関東大震災朝鮮人虐殺を想う
9月1日は、関東大震災記念日です。そして決して忘れてはいけない朝鮮人虐殺を想い、秋田雨雀の戯曲「骸骨(がいこつ)の舞跳(ぶちょう)」から少し紹介します。「骸骨の舞跳」全文は、 国立国会図書館デジタルコレクションで読めます。
戯曲「骸骨の舞跳」秋田雨雀
- 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1016821
1923年9月1日関東大震災。秋田県にいた秋田雨雀は震災の報を聞いて東京雑司が谷の自宅に向かいます。その途中、自警団員が、自分たちは朝鮮人を殺してきたと自慢している姿とそれを喝采する人々に遭遇してショックを受けます。
翌年の1924年、秋田は戯曲「骸骨の舞跳」を発表します。舞台は、震災直後のN駅。深夜の避難民救護テントにいる主人公の青年は、朝鮮人暴動を信じ恐怖にかられる老人に、その話は本当ではないのです、むしろ朝鮮人が殺されていますと真実を告げ「僕は日本人がつくづく嫌やになりました。もう少し落ち着いた人間らしい国民だと思いました。それが今度のことですっかり裏切られてしまいました」と言います。ほどなく、手に手に槍や刀を持った自警団の一団が甲冑、陣羽織、在郷軍人の制服姿でテントに現れて、「このなかに朝鮮人の奴が隠れている」と騒ぎだし、青年と老人の後ろに隠れていた若い男を発見してしまいます。若者を襲う自警団員たち。若者は、「僕は何もしていない」「僕は日本人です」と必死に逃れようとしますが、生年を年号で聞かれて言葉につまってしまいます。自警団員はおびえる若者をあざけります。
このとき、主人公の青年が「よしたまえ!君達に何の権利があってそんなことを聞くんですか?」と立ち上がります。このあとに続くのが、以下の言葉です。
「骸骨の舞跳」より
君達のいうように、
この人は朝鮮人かも知れない、
しかし朝鮮人は君たちの敵ではない。
日本人、日本人、日本人、
日本人は君たちに何をしたろう?
日本人を苦しめているのは、
朝鮮人でなく日本人自身だ!
そんな簡単な事実が諸君には解っていないのか?
(中略)
この人を見てくれたまえ
この人は一個の人間だ。
この顔を見てくれたまえ
この人が罪のない人を殺したり、
井に毒を投げ入れたりするだろうか?
この人にも敵はあるだろう、
しかしそれは君達じゃないんだ。
君達には何にもわかっていない。
何もしらない。
何にも知らされいない。
また何も知ろうと思っていない。
君達の仲間は、この人の友達を
罪もない武器もない、
一枚の葉のように従順で無邪気な人達を、
君達の仲間は理由もなく殺したのだ !
この人を見てくれたまえ、
この人の今持っているものは、
自然からもらい受けた、たった一つの、
生命(いのち)だけだ。
この人こそほんとうの人間だ !
君達は一体なんだ?
君達の持っているものは、
黴(かび)が生えた死んだ道徳だけだ。
甲冑や陣羽織は骨董品として、
価値があるだろう。
しかし生きた人間に何になろう?
もし諸君の心臓の中に血が流れているならば、
諸君は諸君自身の着物がいるはずだ。
その甲冑を脱いでみたまえ、
その陣羽織を脱いでみたまえ、
諸君は生命のない操り人形だ !
死蝋(しろう)だ!
木伊乃(ミイラ)だ !
骸骨だ !
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秋田雨雀
1883年1月30日 - 1962年5月12日。劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家。
1908年『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」発表。1909年小山内薫の自由劇場に参加(小山内薫のイプセン研究会の書記も務める)。1911年「自由劇場」で戯曲「第一の暁」上演。1913年、島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加。その後美術劇場、先駆座などに参加。小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍。
1921年にはエスペラント教本『模範エスペラント独習』出版。
1921年、日本社会主義同盟に加わり、1924年フェビアン協会を設立。1927年、ロシア革命の十周年祭に国賓として招かれてソ連を訪問。1928年、帰国後、国際文化研究所を創設して所長。1929年、プロレタリア科学研究所として引き継き所長。1931年、日本プロレタリアエスペランチスト同盟(JPEU)の結成に参加。
1940年検挙される。
戦後、1947年第一回参議院議員選挙に日本社会党から立候補(落選)。1950年には日本児童文学者協会第2代会長に就任。1962年5月12日、結核と老衰のため死去。