先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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〈足尾暴動〉1907年2月 二村一夫著作集『足尾暴動の史的分析―鉱山労働者の社会史』より

2021年03月11日 07時37分34秒 | 先輩たちのたたかい

二村一夫
〈3年間の活動の間に、永岡は、資本家がいかに労働者の生命、安全を無視しているかを糾弾し、職員や飯場頭の不公正を具体的な事実をあげて追求している。労働者が行動に立ち上るのに彼の活動が重要な役割を果したことは明らかである〉

 

〈足尾暴動〉1907年2月
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以下、二村一夫著作集『足尾暴動の史的分析―鉱山労働者の社会史』等から抜粋

 一連の争議の「起爆剤」となった足尾暴動で見ておこう。よく言われるように、この暴動は1907年2月4日に「突如として」起ったのではない。実際には、暴動の起る3年以上も前から「全国坑夫の一大組合組織」を目標とした一鉱夫.永岡鶴蔵が足尾銅山に入り、鉱山労働者の間でねばり強い活動を続けていたのであった。

 何故鉱山労働者の間から永岡のような労働運動の組織者が生まれたのか。それは何よりも鉱山労働者の自主的な共済団体「友子同盟」の存在と深くかかわっている。永岡が鉱山労働運動の組織者となることを決意したのは、片山潜の働きかけによるものであるが、彼がその勧めをすぐ受け容れた背景には、彼自身が友子同盟の一員として長い経歴をもち、各地の鉱山を渡り歩いた経験があること、しかもこの間に友子同盟を基盤に同盟罷工を組織し、あるいは秋田県を相手とする鉱夫税撤廃運動に成功した経験を持っていたことがある。さらに、永岡が足尾で3年間活動を続け得たのも、鉱業資本や飯場頭らが、友子同盟の「渡り歩き」の慣行を無視できなかったからである。友子同盟の伝統のない筑豊炭田では、1920年代になっても労働運動の組織者が炭坑用地内に入ることさえ容易でなかったことを考えると、この事実のもつ意義は小さくない。

 3年間の活動の間に、永岡は、資本家がいかに労働者の生命、安全を無視しているかを糾弾し、職員や飯場頭の不公正を具体的な事実をあげて追求している。労働者が行動に立ち上るのに彼の活動が重要な役割を果したことは明らかである。とくに、1906年秋、夕張から南助松が加わって大日本労働至誠会足尾支部を結成してから、運動は急速に発展した。至誠会は、鉄工組合以来の伝統である共済活動を軸とする組織方針をのりこえて、賃上げ、供給米の改善を要求に掲げ、容れられなければ同盟退職しようと呼びかけたのである。至誠会はまた、友子同盟の組織に働きかけてその支持を得るとともに、飯場頭に奪われ中間搾取の手段となっていた友子同盟の共済金の出納権をとりもどす運動を指導し、それに成功した。この出納権が飯場頭から友子の山中委員に引き渡される約束の日の前日、暴動が始まったのである。暴動の先頭に立った男は、飯場頭から買収されていた疑いが濃い。
 一方、軍工廠や造船所の争議が、鉄工組合などの運動経験と不可分であることは、1902年、6年、12年と再三争議がおきた呉工廠には村松民太郎はじめ少なからぬ数の旧鉄工組合員が働いていたこと、また、大阪砲兵工廠争議では呉などから来た「渡り職工が主動となつて一部の職工を煽動した」事実が指摘され、「この渡り職工は今まで各製造所で同盟罷工などを遣ってきた経験もあるやう」だと言われていることなどから確認することができる。
 さらに、この争議の経験、伝統は、これを見聞した若者たちによって第一次大戦後に引き継がれていくのである。

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 1904年 永岡鶴蔵 大日本労働同志会足尾支部を結成 一年後には1,400人余に達した

 1903年11月,北海道遊説中の片山潜が夕張を訪ね,永岡宅に泊まって夜を徹して語りあかした際のことであった。それから僅かに1ヵ月後,永岡は夕張を離れて東京に向かい,アメリカへ出発する直前の片山と再会し,すぐ足尾に来たのであった。同志会の本部所在地となっている東京市神田三崎町3丁目1番地は,ほかならぬ片山潜の居宅であり,彼の運動の本拠であるキングスレー館や雑誌『社会主義』の編集所・社会主義社の所在地でもあった。

 古河鉱業会社は、古河鉱業会社は,県知事や警察部長の任命権をもつ内務大臣・原敬が副社長をつとめたことがあるなど,政府上層部と特別の関係をもつ企業であった。

 1907年2月4日朝8時過ぎ,通洞坑口から3,000メートル近くも坑内へ入った〈第3区第4区合併見張所〉を,一団の坑夫が喚声をあげて襲撃した。石が投げられ,窓ガラスや電灯が砕けとんだ。現場員らはあわてて逃げだしたが,坑夫はこれを追おうとはせず,電話線を切り,割れ残った窓ガラスや引戸を叩き壊し,書類をけちらし,最後に無人の見張り所にダイナマイトが投げ込まれた。これが3日間におよぶ足尾暴動の始まりであった。
 騒ぎを聞きつけて集まった坑夫を加え〈暴徒〉はしだいに数を増し,光盛第1竪坑(運搬見張所),第2区見張所,出逢坑見張所,検車見張所など通洞坑内の見張所や馬小屋などをつぎつぎに襲い,第3区見張所と同様,これを破壊した。
 11時前後,〈暴徒〉の一部は10人,20人と群れをなして出坑し,300人ほどが坑口見張所の付近に集まった。彼らは口ぐちに〈役員〉の不正を非難し,日ごろ威張りかえっている現場員が命からがら逃げ出した際のぶざまな姿について話し合っては快哉を叫んだ。中には坑口見張所に向けて投石するものもあり,不穏な空気が続いた。

2月5日
 朝8時過ぎ,再び一団の坑夫が見張所を襲った。この日,最初に襲撃の対象となったのは簀子橋坑の坑口見張所である。坑夫等は係員を脅し,彼らが逃げ去ると,電話線を切断し,投石した。
 これとは別に午前7時半ころ本山有木坑付近にも数百人の坑夫が集まり,電車の運行が不能になった。さらに正午近く,本山坑の坑内第1区見張所付近に集まった坑夫7,80人は,その場にいた現場員に殴りかかり,3人に軽傷を負わせた。前日の通洞坑の見張所襲撃の報に戦々恐々としていた現場員らは,いっせいに見張所から逃げ出した。ここでも,無人の見張所に石が投げられガラス戸などが壊された。

 4日,5日は暴動とはいっても,実際に破壊されたのは仮小屋に等しい見張所や馬小屋で,それも窓ガラスなどが主であった。ダイナマイトが使われたとはいえ,無人の場所に限られ,火事にならないよう水をかけるといった注意がはらわれていた。鉱車が8輛転覆され,据え付けてあった鑿岩機が取り外されて部品が散乱させられるということはあったが,意識的な機械の破壊はなく,鉱山の操業を妨げたり,鉱業所に物的な損害を与えようとする意図はほとんど認められなかった。
  〈暴徒〉の狙いは採鉱方や見張方といった下級職制に対する威嚇・報復に重点があった。それも,本山坑で2,3人の現場員が殴られて微傷を負ったほかは,1人の怪我人も出ていない。参加者は,延べ数にすると1,000人を越えたであろうが,1時には200人から300人程度で,『平民新聞』から特派された西川光次郎が5日夜発信の第1報冒頭に記したように,「騒擾案外に小なり」であった。

2月6日
この日午前9時過ぎ,事態は急変した。朝8時前,本山坑口の見張所を破壊した〈暴徒〉が二手に分かれ,一団は有木坑から,他は本山坑から坑外に押し出したのである。攻撃対象も,見張所だけでなく,有木坑口近くの本山坑場事務所や倉庫,あるいは鉱業所の管理機構の中心である庶務課や坑部課の建物に及んだ。もっとも最初は建物の周囲を取り囲み,投石や棒などで窓ガラスや戸などを壊しただけで,室内には入らなかった。

 しかし,午前10時過ぎ,鉱業所長・南挺三が役宅の前で〈暴徒〉につかまり,頭を鉄棒で乱打されたあたりから状況は変化した。攻撃目標が現場員から鉱業所長に変わっただけでなく,警備に当たっていた警官が〈犯人〉を逮捕したため,怒った群衆は警官をもめった打ちにし,〈犯人〉を取り戻したのである。権力に対する公然たる敵対行為であった。
  この騒ぎの間に辛うじて屋内に逃れた南所長は,床下にかくれ,3時間余り身を潜めていた。〈鉱業所長惨殺〉の報が流れたのはこの間であった。〈暴徒〉は所長の姿を探して役宅を荒らし,家具調度を打ち壊し,衣類などを蹴散らかした。その様子を南所長自身が語っているところ(4)は,暴動の性格を知る上で興味深いものがある。
 「床下ヨリ動静ヲ窺テ居リマスト,器物ヤ其他総テノ造作ヲ粉砕シマシタ。其暴徒ノ中ニ稍々落着イタ声デ,飲食等ハ自由デアルガ,品物ヲ持テ行クノハ我々ノ採ラナイ処デ,名誉ニモ関スルカラ,品物ナドヲ持テ行ツテハイケナイ。而シ破砕ハ充分ニスル様ト云テ指揮シテ居リマシタ者ガアリマシタ。而シテ暴徒ハ益々暴行ヲ逞フシ,床下辺モ私等ヲ探スト云フ模様ガ見イマシタ」。
 南は結局,すきを見て逃げだそうとして捕まり,ふたたび殴られる。その時のことを南はつぎのように証言している。

 「大勢ノ暴徒ガ私ヲ見テ夫レ出タ〈ヤッツケロ〉ト申シマスト,電車ノ運転手ノ如キ男ガ是ヲ殺シテ仕舞テハ物ニナラヌカラ病院ヘ連レテ行ケト申シテ,人品ノ良イ男ハ他ノ暴徒ヲ取リ鎮メテ居リ,電車夫ノ如キ男ガ私ヲ抱キ今一人ノ労働者ガ手ヲ貸シテ,サー病院迄行ケート申シテ病院ノ坂ノ処迄私ヲ連テ行キマスト,大勢ノ暴徒ガ更ニ私ヲ担ギ上テ行キマシタ。 〔中略〕本山医局ニ連レ込ンデ呉レマシタ。而シテ金子学三郎ト云フ男カ前ヘ出テ坑夫等ニ対シ負傷者ヲ此赤十字ノ旗ノ下ニ保護スルカ分カラヌカト申シマスト暴徒ハ夫ニ服シテ多少退キマシタ」。

この南の証言は,この段階では〈暴動〉がまったく無秩序な騒乱というわけではなく,群衆の中で,その時どきに行動のリーダーシップをとる者がいたことを明らかにしている。この南証言でとくに注目されるのは,そのリーダーが名誉を口にし,「破壊はよい,飲食もよい,しかし盗むな」と指示していることである。これは,まさに百姓一揆の行動規範と共通するものである(5)。
 さらに,リーダーだけでなく,実際に南所長を殴った者たちもかなりの自制心をもって行動していたことも確かである。なぜなら鉄棒で頭を乱打された南挺三が,「向後五週間ニシテ官能障害ヲ貼スコトナク全癒スベシ」(6)と診断され,しかも実際には,負傷後僅か2週間たらずの2月18日には「創傷治癒経過漸次良好ニシテ」足尾町を出発,上京しているのである。殴るにも,手加減をしていたとしか考えられない。

暴動化
 しかし,午前11時前後,〈暴徒〉の一団が本山倉庫を襲い,山積みになっていた米,味噌,醤油や酒を持ち出した頃から,しだいに暴動の性格は変わった。〈暴徒〉が酒を痛飲して気勢をあげただけでなく,前日までは〈暴徒〉を遠まきにしていた野次馬が,いつの間にか仲間に加わり,〈暴徒〉と化したのである。この頃から,鉱夫長屋をまわって「出ロ々々何ヲ愚図々々為シ居ルヤ」と〈暴動〉に加わらずにいた鉱夫の駆り出しが行われたこともあって,〈暴徒〉の数は一気にふくれあがり,500~600人をこえた。

 この頃までは暴行を受けたのは,坑夫らと日頃接触があり,賄賂を強要するなどしていた採鉱方や見張方などの現場員が主であった。しかし,南所長宅への襲撃を機に,対象は〈役員〉全体におよびはじめた。髭をはやしたり,洋服を着ている者は片端から誰何され,〈役員〉とわかれば攻撃された。それも,最初は悪罵,威嚇ていどであったが,しだいに意趣晴らし的な肉体的制裁に転じていった。
  6日の〈暴動〉もはじめの頃は,「彼等間ニモ放火ヲ戒メ書類衣類ヲ焼毀スルニモ可成家屋ニ接近セサル場所ヲ選」(7)ぶといった注意がはらわれていた。しかし,騒動が拡大し,野次馬的な参加者が増えるにつれ,酒の勢いだけで行動する者が出てくることも避け難く,役員に対する制裁より,むしろ飲み食いや物品の略奪にはげむ者が少なくなかった。

 午後4時過ぎ,石油倉庫に火が放たれた。誰も消すものがないまま,火はつぎつぎと付近の建物をなめ,炎は一晩中天をこがした。〈暴徒〉の一部は〈役員〉を追い求め,間藤地区の旅館や商店にまで押しかけた。役員の住宅はつぎつぎと破壊され、その一部は焼かれた。この夜,本山の対岸からであるが〈現場〉を取材した数少ない新聞記者である西川光二郎は,つぎのように報じている。

「此の火事を見るべく予は本山方面に向ひしに,本山方面には群衆中に酔漢甚だ多かりき。之れ倉庫より酒を取り出して飲みしものなるべし。一人の巡査も見受けざりき。彼等は抑も何処を警戒しつヽあるにや。又河中に米五六十俵捨てヽありたりき。之れは倉庫より取り出して捨てしものなるべし。余は川向ふに盛んに燃えつつある火と,余が立てる付近を往来する酒気を帯びたる多くの鉱夫とを身ながら,実に実に深き感慨に打たれざるを得ざりき」。
 注目されるのは,こうした〈暴動〉の最終段階になって参加した〈野次馬〉的部分の性格である。一捜査報告書は,つぎのように記している。

「放火及物品ヲ略奪シタルモノノ多クハ石工,土工,雑役労働者ニシテ,坑夫中ニハ比較的放火,物品略奪者ハ,凶行者ハ少ナキモノヽ如シ。現ニ放火ノ如キハ酩酊シタル掘子,石工其他雑役者中ニ多キモノト略〔思〕料シ,捜査ノ結果,清生飯場ノ掃除夫木村田次郎,代谷政次郎ノ共犯山本久吉,黒田健次ノ三名ヲ検挙スルニ至レリ」。

庶務課,坑部課,本山坑場,倉庫,役宅,選鉱所,製煉所など合計65棟の破壊,うち48棟の焼失

警察
「保安警察条令」第18条執行、628名検挙、182名を起訴

軍隊に出兵要請
高崎聯隊長に対し,3ヵ中隊300名の派遣命令。本山に到着した1隊は,空砲のいっせい射撃をおこない〈暴徒〉を威嚇した。



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