亀戸天神社の中江兆民翁之碑
まるで鉄鎖に縛られているようだ
中江兆民翁之碑
以前、たまたま亀戸天神社に行って見つけてびっくりした中江兆民翁之碑です。幸徳秋水が「革命の鼓吹者」と呼んだ中江兆民、幸徳秋水は兆民の愛弟子でした。碑の裏に、発起人総代板垣退助、大隈重信らの名が刻まれていました。碑は無残にも大きく割れたりひびが入っています。関東大震災で倒れて破損したのでしょうか。それとも何か別の理由があったのでしょうか。碑は鉄製の枠で補強されていますが、今ではその鉄枠はすっかり錆びていて見苦しい程です。
中江兆民(1847年12月8日-1901年12月13日)
高知藩の足軽の家に生まれ、長崎でフランス語を学ぶ、明治維新政府の岩倉使節団に加わり、フランスに 2 年半学ぶ。1874 年に帰国後「仏学塾」を開き、ルソーの「民約論」を訳す。1881 年西園寺公望らと「東洋自由新聞」を発刊し、1883年に日本出版会社設立。1885年に長野県出身のちのと結婚。外相・井上馨の条約改正交渉を巡る大同団結運動に参加し、1887年には長野で演説、後藤象二郎の農商務大臣辞職を求める封書を代筆するなど運動に関わったため、同年公布の保安条例で東京を追われる。1889 年、第 1 回衆議院選挙に当選。1890年の自由党の旗揚げに関わり、党発行の新聞である『自由新聞』社説担当となるが政府の弾圧により 1 月余で廃刊に。その後、仏学塾から「欧米政理叢談」「民約訳解」を出版し、東洋のルソーと称される。1901年54 歳で死去。
被差別部落と中江兆民
「部落の歴史と解放理論」井上 清 田畑書店
〈自由民権運動の中から、部落民の人間的誇りを説く人も出た。高知県出身の中江兆民がそれである。彼は明治のはじめフランスに留学し、民主主義思想を身につけて帰国し、民権派最大の革命的理論家になった。彼はその革命運動のために1887年末、政府より東京から追放されて大阪に住み、「東雲新聞」という民権主義の新聞の主筆になった。(中略)
彼は1889年(明治12年)その新聞に、自分を、部落民の立場において「新民世界」という論文を書いた。世間はわれらを死人の衣をはぐとか、飲食を乞うとかと、いやしめるが、世間には、生きているものの衣をはぐものがあるではないか、俸給を色乞うものがあるではないか、わいろをやり、わいろを取るものがある、正妻を追い出して妾をひきいれるものがある、このような上流階級の、りっばな服装をしたばけものの方こそ、われら、ぼろを着てはだしで歩くものよりも、はるかに社会を毒し、公衆を害するものである。世間の民権論者は、頭上の貴族をののしるが足元の新平民を尊敬することを知らない、これでは真の民権論者ではない。「平民」とは貴族にたいすることばであって、士族に人権をふみにじられ自由をうばわれ、軽蔑されていた旧時代の民にたいすることばである。われら「新平民」、いな「新民」こそ「真民」である。新平民を差別するものも、早く真の自由な「新民」 「真民」になれ。
兆民はこのようにさけんだ。彼は専制政府こそ、差別の元凶であることを知っていた。彼は部落民と交わり、これに「真民」の自覚をふきこんだ。この翌年第一回の衆議院議員選挙のとき、大阪の部落民たちは、彼のためあらゆる応援をして、当選させた。代議士になった彼は、最初の議会で、人民の政治的自由をうばう法律を廃止し、天皇制の専制をかざるにすぎない憲法を民主的なものに改めようとしたが、昔の自由党のなかまも、兆民とともに動こうとはしなかった。兆民は議会を「無血虫の陳列場」とののしつて、議員を辞職した。〉
〈すべての人は生まれながらに自主自由の権利をもち、政府は人民の自由をまもるためにあるもので、人民が政府のためにあるのではない、人民は専制政府に反抗し、これを倒して、民主的政府をつくる権利がある、と主張した自由民権運動も、1880年前後の10年間、はげしくたたかわれた。その文書の中にも、とくに部落解放を説いたものはないが、高知県の自由党の活動家たちは、県下の部落民の人権をまもるために、かなり熱心に働いている。また先にあげた柏原の部落からは、自由党に参加した闘士もあった。ほかの部落も同様だったにちがいない。自由民権運動の中から、部落民の人間的誇りを説く人も出た。高知県出身の中江兆民がそれである。・・・兆民の妻は長野県の部落出身であると推定される・・・。〉