先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
https://www.youtube.com/watch?v=0us2dlzJ5jw

記録映画「大久保製壜闘争の記録」の感想

2021年10月18日 12時26分47秒 | 大久保製壜闘争

記録映画「大久保製壜闘争の記録」の感想

 少し前に東部労組大久保製壜支部で学習会「少数から多数へ」をしました。この時上映された記録映画「大久保製壜闘争の記録」は、1995年から97年にかけての<総反攻の闘い>の過程で作り、北海道から九州の全国67か所で上映会と報告集会が開催され、全国で3,512名が参加してくれました。支部と東部労組本部や支援連からオルグ総数208名を派遣し、ビデオ300本も販売、多大なカンパも寄せられました。新潟の全日建連帯労組小千谷支部の会場では白米コシヒカリがごっそり届きました。レイバーネットの松原さんが新しく作ってくれた「人間を取り戻せ」の原本です。

この記録映画を久しぶりみたその時の僕の感想発言です。

1、真剣な怒り
 杉田さんの親への説得の場面と亀戸労政事務所での大衆団交の身体障害者・知的障害者、組合員みんなの真剣な怒りの爆発の場面が忘れられません。会社の悪虐非道に本気で怒る。真剣に憎む。警察署の不当弾圧に対しても同じ。3名の不当逮捕に対して、夜中の3時まで警察署の前での抗議行動、翌日は警察署の周りをグルグルグルグルデモをしています。

 てんかんを持った労働者山田治雄さんが夜中会社の共同風呂でおぼれ死にます、見つけたのは僕です。夜勤(3部)の最初の休憩時間夜11時ごろ風呂場の着替え場の床で仮眠を取ろうと中に入ったら、風呂場の電気が点いていて変だなと思い覗くと裸の山田さんがうつむけで風呂の中に浮いていたのです。
 何故彼は夜中の風呂にひとりで入っていたのでしょうか。彼はてんかんをもっていて仕事中職場で小さな発作をよく起こしていました。その発作を職制や仲間たちから馬鹿にされたり、からかわれていた彼は、みんなが風呂を利用し、帰ったあと夜中に一人で風呂に入っていたのです。職場の中に差別さえなければ彼はみんなと入浴していて発作を起こしてもみんなで助け合えば、なんの心配もなかったはずです。それともう一つ、山田さんの過労状態は半端ではありませんでした。この事実は、向島労基署の勧告指導書が厳しく指摘しています(*参照)。深夜労働の回数が実に多い。大労組員での山田さんが抵抗できない事をいいことに会社は彼らを酷き使っていたのです。支部のみんなはそれを知っていました。だからこの時の支部のみんなの怒りは半端ではありませんでした。その怒りの表現が、明治通り中井堀交差点でのうず巻デモ・ジクザクデモの場面によく表れています。本当の労働者の怒りの爆発でした。会社はこのデモや支部の怒りをみて、こいつら本当に何するかわかんないと恐怖を覚えたとおもいます。

(*参照)
闘い取った職場改善 大久保製壜闘争の向島労働基準監督署の「是正勧告と指導」の内容「㉜3交替勤務者で月の深夜労働が8回を超える者が多い。4名が12回超え、最高が19回。(風呂場で、てんかん発作で溺死した)山田治雄さんの深夜労働は、2月13回、7月16回、8月19回、9月12回、10月14回。亡くなった11月22日に亡くなったその月は8回。7名のてんかん保持の労働者が、過労に陥ることのないような配慮をすること。」
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/11f8f85f8ec730d106d003712e7736ab

 当時、今でもですが、いいように酷使させられるのは、一般の大労組員。1部2部、2部3部の15時間・16時間の長時間労働の通し勤務を断れない。休日の呼び出しや残業。昼めしも食べないで労働させられている。文句ひとつ言えないで、職制からは怒鳴られたりいじめられたり。有給休暇なんか使用許可をだせない人がたくさんいました。有給休暇の申請をするといやな顔をされたり「理由はなんだ」とか言われたり、断られたり。

 21年9か月の闘いの期間、東部労組の組合員は、残業や通し勤務(15時間勤務など)は本人がやりたくない時はバンバン拒否しました。有給休暇は当たり前ですが自由にとります。文句は言わせない。休憩時間も当然しっかりとります。ストライキは好きな時にやります。組合員は組合つぶし攻撃のいじめや不当配転、賃金等での差別はされましたが、何よりも「自由」でした。
 職場では暴力職制に公然とくってかかる銀ちゃんや東部労組員、堂々と残業を断ったり、有給休暇を自由にとる東部労組員たちを大労組の仲間たちはみています。だから、あとから支部に入った大労組の仲間たちの多くが「支部がうらやましかった」と言います。

 真剣に闘う。真剣に怒る。真剣に仲間と団結する。「真剣の二字ほど恐ろしいものはない」。東部労組の伝統です。先輩たちはみんなそうです。今も各支部に受け継がれていると思います。東部労組の一番大切な伝統として未来永劫守りぬいてもらいたいものです。

2、懐かしい人がたくさん出てきます
 向島警察では立野さんの顔も出てきます。立野さんは教会ろう城の時、会社に命令されて切り崩しにきた親たちを説得しに夜ホテルに行ってくれています。こういう場面は映画には出てきません。しかし、その翌日親たちは「応援します」と言って帰省します。勿論支部の真剣な訴えもありますが、立野さんたちのおかげも大きいです。ジクザクデモ指揮している場面は岸本(東部労組元委員長)さんや石川(東部労組元書記長)さんも。足立(東部労組元委員長)さんがなぜか一瞬デモの前を横切ります。あの時のデモにはデイベンロイ労組支部は大型観光バス二台を貸切り、遠く大田区から参加してくれました。井桁さんが元気にスピーカーを抱えて路地裏デモの先頭にいます。なつかしいですね。

 この集会と路地うらデモは当時の東部労組そのものと言っても過言ではありません。各支部は10割動員、全員参加が当たり前です。来ない人は誰もいません。いないどころか家族も子供たちもみんなが集まっています。幼い子供たちもデモで大声で「クビ切り、はんたーい!」と叫びます。で、僕の息子の一郎が翌日保育園に行って「クビ切り、はんたーい!」と叫び、保母さんたちはびっくり仰天して、一郎君なんでそんな怖い事言うのと親に連絡がきて、あわてて「実は・・・・・」と釈明しました。その保母さんたちは次からデモにきてくださり、一緒に首切り反対を叫んでくれました。こうして支部だけではない、東部労組の執行部、各支部全組合員と家族、地域や全国の支援、労働組合がよってたかって闘った闘争が大久保製壜闘争でした。



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