—荒畑寒村著『谷中村滅亡史』より—
ああ谷中村を記憶し、谷中村民を記憶し、田中正造翁を記憶する者は、また谷中村をして今日あるに至らしめ、明治政府と、資本家古河某とを記憶せざるべからず。しかして、他日必ずや彼等に対って、彼等が谷中村民になせしと同じき、方法手段をもって復讐するの時あるを期せよ。
ああ悪虐なる政府と、暴戻なる資本家階級とを絶滅せよ。平民の膏血をもって採られたる、彼等の主権者の冠を破砕せよ。しかして復讐の冠をもって、その頭を飾らしめよ。
先日NHKEテレで、「先人たちの底力 知恵泉 田中正造 すべての人々のために」をみながら、斎藤幸平さんら3人の発言に何度か頷いた。その中で斎藤幸平さんの言った「一人だけに注目してはいけない」は、とても大切な視点だと思った。歴史や民衆史ですら英雄史観で語られるが、足尾鉱毒事件を田中正造が先にありきでは、偉大な正造から叱られるだろう。実際この番組は、鉱毒被害の悲惨さや何万人という名も無い農民の戦い、とりわけ東京までの命がけの「押し出し」闘争や官憲により残酷に弾圧され多くの農民が獄に繋がれた「川俣事件」や、足尾鉱毒問題を全国的闘争へ展開させようと死を覚悟し、妻に離別の手紙を書いた天皇直訴の闘いを、幸徳秋水や新聞記者の仲間たちの労苦や支援学生などにできるだけ焦点を合わせ映像として紹介していて正直ほっとした(天皇直訴と幸徳秋水らとの結束と労苦を「スタンドプレーはチームワークで」と書いた画面右上の大字幕には心底あきれたが)。
また、斎藤幸平さんは、被害農民者(当時者)である名も無い農民と共に生きる田中正造を「共時者」と呼び、荒畑寒村が『谷中村滅亡史』で、田中正造は今も生きていると書いていることを紹介した。斎藤さんは、現に水俣や福島原発もある、今現在も日本・世界で虐げられている多くの人々がいる。だから敗北した足尾鉱毒と闘った農民の闘い、田中正造の闘いの犠牲の上に今があるのだから、もっと歴史と伝統から学ぼうと「日本権利を知らず、日本人権を知らず」の正造の言葉を紹介し、「(今の私達も)もっとやったらいい」と発言した。
荒畑寒村は、『谷中村不滅論』で
・・谷中村はふたたび立ち上がって、足尾銅山の鉱毒問題を訴えている。・・・日本のブルジョア階級とその政府は、生き代わり死に替わり足尾銅山の鉱毒の怨みを訴える谷中村の亡霊の姿に怖れ慄(おのの)いているのだ。・・・資本主義制度が存する限り、足尾銅山の鉱毒問題に象徴される公害と国民の被害とは、永久に解決されないであろう。谷中村は永遠に亡びることなく、『谷中村滅亡史』のいわゆる「政府・資本家・共謀の罪悪』を糾弾してやまないであろう、と語っている。
(押し出し闘争)
のべ数万の足尾の農民が地元から東京へ押し出し、議事堂前等での座り込み闘争、1897年から1902年まで5回の「押し出し」大闘争が挙行された。
1898年第3回目1万人。
1900年第4回目1万2千名、川俣で官憲の大弾圧との激闘・死闘で逮捕者300名の犠牲者がでた。
1902年第5回目は5千名の押し出し。
同じく1902年の60名の18歳から66歳までの女性だけの押し出しもあったそうです。この時東京までたどりついた女性17名、貴族院前に座り込んだ女性たちは一言も発しない、しかし、その鬼気迫る気迫に貴族院議員どもは怯えあがったといいます。
押し出しの集合場所はいつも群馬県館林市の雲龍寺の境内。同寺の伊東方己現住職は「当時住職だった黒崎禅翁の理解がなければできなかっただろう」。目指す東京まではおよそ70キロ、「大半の農民はお金がなく、干し飯(ほしいい)を携えて丸2日かけて歩いていった」。東京での座り込みは権力者を震え上がらせ、正造の演説よりもインパクトがあったといいます。しかし、川俣弾圧など国家権力の前に、鉱毒反対運動は退潮の一途をたどります。
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/00304d3b6915d3a97af7246aebdf2739
(川俣事件)
川俣事件を荒畑寒村は『谷中村滅亡史』で、「見よ被害民は遂に憤怒せり、最後の大破裂は遂に来たれり。聴け、明治33年2月12日の夕べ、群馬県邑楽郡渡瀬村早川田なる、鉱毒事務所雲流寺の梵鐘は、殷々として晩冬の耕哉に咽びぬ。これを聴くや群馬県邑楽郡渡多々良、渡良瀬、大島、西谷田、海老瀬、郷谷、大毛町の諸村、栃木県足利郡毛野、吾妻、久野の諸村および同県下都賀郡谷中村の人民無慮三千、各々蓑笠に身を固め、『・・・人のからだは毒に染み・・・悲惨之の数は限りなく・・・』と、悲愴の声に鉱毒歌を唄いつつ、老を扶け病体を支え、瞬時にして雲のごとく集まり来れり。これ実に彼等が旧年中より、密かに議を凝らしし処にして、そのここに出でし所以のものは、請うて聞かれず訴えて顧みられず、屈辱また屈辱、虐待また虐待、遂に忍ぶ能わずして、大挙被害地三十四ヵ村、一千六十四字(あざ)の惨状を、親しく国務大臣に訴え、もし不幸にして肯かれざらんか、非常なる方針に出でんとの決心なりき。(略)
十三日午前十時頃、雲流寺を出た一万二千は、栃木県足利郡久野村長、稲村与一が将となり、旗鼓堂々として押し出した。一同は群役所を襲い、警察署の門前で警察官と争闘を惹起し、警官の防御を蹴破り、更に進軍して川俣に至った。ここで数百の憲兵隊と巡査は、農民に向かってサーベルで打ちかかり、靴で蹴倒し、拳を固めて乱打し、水中に投げ入れ、両眼に泥を塗り、口中に土砂を押し込め襲い掛かった。その犠牲となった負傷者の流血は点々として数理に及び、まるで戦場であった。」と記し、その上、被害民の農民のリーダーの多くは検挙され、前橋地方裁判所に送致されたという。
押し出し闘争、これは文字通り命がけの一揆・暴動であることがわかります。
『谷中村滅亡史』で、晩年の田中正造が長い杖を振り上げて、「この、村泥棒め!」と役人と官憲を追っていく姿を、寒村は、〈野に呼べる人の声〉と称した。「彼らは皆大泥棒ですぞ、彼らをお捕らえなさい、逃がしチャいけませんぞ」悲憤の叫び嵐の如くにすぐる者は、谷中村の農民を買収のため調査に来た官憲を引き連れた役人を追う老人田中正造の大叫声!であった。
下の歌、足尾銅山〈鉱毒悲歌〉も、実に当時の農民・民衆や田中正造の怒りや悔しさを体現しているのではないでしょうか。まさに足尾の農民は、田中正造は生きているのです。
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足尾銅山〈鉱毒悲歌〉詞:大出喜平他/ 土取利行(唄・演奏)
Youtubeの説明には、足尾銅山の悲劇を唄った歌。栃木県小山市の画家、小口一郎が寄せたという歌詞(作者は大島村の大出喜平、山本栄四郎、西谷田村の永島与八等)。曲は教育委員会が明治33年頃13歳だった老人の歌を録音したものから採譜。この歌の他にもいくつかの詞が残されているとあります。
足尾銅山
〈鉱毒悲歌〉
詞 大出喜平・山本栄四郎・永島与八
唄・演奏 土取利行
一
さて今日の社会にて悲惨の数は多けれど
渡良瀬川の岸に住む 民にまされるものぞなし
能美の地震はいうもさら 三陸津波も悲惨なり
さりとてこれらは天災で 人手で止まらぬ数のもの
鉱毒被害は人のわざ 人と人にて止むものを
しかも乱暴果てしなく 人の命をたおしゆく
二
両岸被害の激甚地 海老瀬の栗田を始めとし
底谷 大谷田 船津川 越名 高山 伊保内や
羽田 高橋 川崎に 奥戸 上下 野田 茂木
およそ三十四ヶ字で 最近五年のその間
一千六十四人こそ 生きるにまさりて 死にし数
三
毒死 飢死 溺れしに 窮してくれる人もまた
均しく加害者古河の 刃の下に倒れして
同じ最後の理ぞ 罪で深き彼が身に いまだ天網かからずや
白昼天下にかけまわり 横に車もあきたらず 跋扈横暴極みなし
四
彼の畜るいを見ても知れ 蜂須に棒先ふる時は
蜂は群がり怒りたつ 子を捕らわれし鳥けもの
その子を慕いて親もまた 同じく猟者の手におつる
鳩に三枝の礼儀あり 鳥には半歩の孝ぞある
虫禽(とり)獣(けもの)に おいてさえ 情義の程や感ずべし
五
まして五常のそなわれる 人類社会においてをや
親は咽を扼(やき)せられ 子は十二歳で飢えて死ぬ
わが身も不断に刻まるる 人の心はいかばかり
嗚呼哀しまんか歎かんか 将(はたま)た憎まんか怒らんか
叫び訴うその声を 聞けば全身粟(ぞく)がたつ
六
髪は逆立ち天をつき 日に腸(はら)は九回す
夜半の夢は破られて 枕を蹴倒し仁王立ち
嗚呼加害者をひっ捕え 四肢を五体に寸断し
肉をくろうて 血をすすり もって快哉と叫びたい