(結婚した渡辺政之輔と丹野セツ)
(亀戸事件犠牲者葬儀2列目左から3人目が渡辺政之輔)
1928年10月6日「ワタマサキールンデコロサル」
本日は10月6日、1928年の10月6日、「南葛たましい」と呼ばれた戦前の戦闘的労働運動、南葛労働運動の創始者でり、非公然であった共産党の指導者渡辺政之輔は、当時日本の植民地であった台湾のキールン港で官憲に追われ銃撃戦となり殺害された。
渡政(ワタマサ)の死から一年もたった1929年11月、母てうに依頼され渡政の遺骸を引き取りに行った布施辰治は、堀りおこされた遺体の額の前の真ん中の穴を見て、これは自殺ではありえない、銃撃で殺されたのだと語っている。丹野セツも革命家渡政が自ら命を絶つはずがないと自殺説を真っ向から否定している(日本共産党は自殺説をとっている)。私は布施辰治の見方を信頼する。
渡辺政之輔(渡政ワタマサ)の生涯
1899年(明治32年)、千葉県市川市の畳屋に生まれた渡政は、早く父親を亡くし小学校を卒業すると、東京本所亀戸の貧民窟の一セルロイド工場の労働者となった。1917年10月のロシア革命に衝撃を受けた若き渡政は、帝大新人会の宮崎竜介らと交流を深めた。階級的目覚めを強めた渡政は、1919年5月新人会の学生らの支援を受けて自らの工場などを中心に「新人セルロイド職工組合」を組織し、賃金の大幅値上げの闘いに勝利した。東部地域の各工場の争議支援や未組織の組織化にも積極的に奮闘し度々官憲の弾圧、検挙にもあっている。1923年22歳の時に南葛労働会を組織し、たちまちのうちに東京東部地域に戦闘的労働運動の根拠地を作った。
南葛魂(たましい) ! と 渡政(わたまさ) (読書メモ)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/b81419c0aae3cdce204aa00a05507a1a
参照<南葛労働運動、「南葛」地域の労働争議>
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/bfdb403fa1e221e695717a12ae2c4031
亀戸事件 (読書メモ)
https://blog.goo.ne.jp/19471218/e/ca1aca493271b06da082d86f734b67ad
1922年7月、日本共産党が創立されると渡政(ワタマサ)は即座に入党したが、23年、第一次共産党弾圧で検挙された。関東大震災の時は獄にいたため、南葛労働運動の同志ら10名が権力によって虐殺された亀戸事件の魔の手から偶然逃れることができた。出獄した渡政は即座に南葛労働運動の再建組織化を行い、関東一円の数々のストライキを指導した。総同盟分裂後日本労働組合評議会の先頭に立ち、有名な共同印刷争議や浜松日本楽器争議なども指導した。渡政は、一方で非公然の日本共産党の再建に奮闘し、中央委員長についた。1928年3.15事件弾圧を逃れた渡政は、9月10日愛する丹野セツと別れ、鍋山貞親とともにコミンテルンの同志と協議をするために上海に渡った。周恩来らとの協議を終え帰国の途上での官憲の弾圧の末殺された。その年の6月には治安維持法が「死刑法」として緊急勅令で改悪公布されたばかりの厳しい過酷残酷弾圧下の渡政の殺害であった。
渡政の死は権力によってしばらく秘密にされた。しかし、1928年12月22日東京本所公会堂で大山郁夫らによる再建労農党に向けた新党創立大会が開かれ会場は1千名を越える人々で埋め尽くされた。大会二日目会議の途中、モスクワの山本懸蔵の名による「ワタマサキールンデコロサル」の電報が読み上げられ、初めて渡政の殺害を知らされた会場は極度の緊張と憤怒で満ち満ちた。
1929年3月5日治安維持法改悪に敢然と反対した国会議員旧労働農民党の山本宣治が白色テロによって虐殺された。この年の3月15日渡政・山宣の合同労農葬が全国で行われた。東京の青山斎場の合同葬には数千の同志が押しかけ、1千名の警官が包囲する中、70名もの検挙者をだす弾圧を跳ねかえし敢行された。
—「三・一五の歌」(「赤旗の歌」と同じ節)—
三・一五うらみの日 われらは君に誓う
党のためにたおれた君、渡政(ワタマサ)に誓う
流されし血汐もて 大胆に復讐せん
労働者農民は 赤旗守りて行かん
労働者農民は赤旗守りて行かん
三・一五うらみの日 われらは君に誓う
白色テロにたおれたる君、山宣(ヤマセン)に誓う
(くりかえし)
なきがらよ よみがえれ 湧きたちかえれ血汐
うらみに燃ゆる三・一五 白色テロをたおせ
武装には武装もて 血汐には血汐もて
労働者農民は 共産党を守る
労働者農民は 共産党を守る
全国各地で合同葬が開催され、どこでも弾圧された。山宣の墓石に大山郁夫の書いた山宣の言葉「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」も官憲によってセメントで消された。
プロレタリア作家小林多喜二も小説『一九二八年三月十五日』で、特高の拷問を赤裸々に暴露した。
1929年11月25日千葉県市川市の安国園で行われた埋骨式に駆け付けた同志らはことごとく検挙され、母てうだけが焼香を許された。
以上