先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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「女工哀史」細井和喜蔵1925年出版 (読書メモ)

2022年07月04日 07時37分07秒 | 1925年の労働運動

「女工哀史」細井和喜蔵1925年出版 (読書メモ)
参照「女工哀史」細井和喜蔵著  岩波文庫版
    わたしの「女工哀史」高井とし著  岩波文庫

 今、1925年の主な労働争議をまとめていますが、そのスタートが神奈川の富士紡績川崎工場2,000名のストライキです。11月から勃発した富士紡績川崎工場争議のほぼ約半年前に出版されたのが、細井和喜蔵の「女工哀史」です。細井和喜蔵は1897年に生まれ、1920年、関西から上京し亀戸の東京モスリン工場で働きます。ここで労働争議も経験します。細井和喜蔵は、関西時代、亀戸時代と1923年(大正12年)までの約15年間、紡績工場で働く労働者です。この無名の一労働者の紡績工場での体験記であり調査書である「女工哀史」は、出版以来異常な売れ行きを重ね、世間に紡績工場の過酷な実態、紡績女性労働者への酷使・虐待を大きく知らせます。しかし、出版からわずか一ヵ月後に細井和喜蔵は亡くなってしまいます。高井としはその妻です。

「女工哀史」は、
 ・女工募集の実態、募集人の罪業、身代金制度である「前借金」と「年期制度」。
 ・夜業・深夜労働・休憩時間・賃金、工場における女工虐待、懲罰制度・幼年工酷使と実体など過酷な労働環境、暴力容認の工場管理、無慈悲な工場監督、12時間労働昼夜の交替制、粉塵・騒音・灼熱地獄・汚れた空気、倒れていく仲間たち、病気・死者の惨虐。
 ・女工を支配する「アメとムチ」、強制社内貯金、奴隷の島と化した寄宿舎の実態、外出禁止・門止め・悲惨な食事内容、寮監など係員の横暴。
 ・紡績工の教育問題、娯楽施設・演芸場・遠足と運動会・お花見、女工の恋愛観。
 ・労働者の疲労、負傷、紡績女工の疾病・結核病・消化器病・眼病・婦人病・不妊症、女工の乳幼児の死亡率。
 ・女工小唄・・・・
等々細かく描写しながら細井和喜蔵自身が、紡績資本の悪逆非道を徹底的に暴露する糾弾の書です。

「女工哀史」から、1920年代の紡績工場とここで働く女性労働者の状態に関係する興味ある部分をあげてみます。 
1、工場組織と従業員の階級

2、女工募集の裏表
 この「募集人」という奴は要するに女衒(ぜげん)であって実に始末におえない者だ。彼は資本主義社会制度が資本家の手先なる彼に与えた邪道な権利と、自己の劣悪な人間性とをもって社会に恐るべき害毒を流しつつあるのだ。

3、「前借金」。身代金制度と年期承諾書
 支度金という体裁のいい名前の「一金百圓也」などの受領証と満三ヵ年以上勤めますとの「年期承諾書」。こうして「前借金」を負わされた女工たちは、紡績工場へと向かう。「年期」は大体が満3年が多い。

4、労働条件
 12時間労働。およそ紡績工場ほど長時間労働を強いる処はない。
 夜業(深夜労働)と昼業。一週間毎に夜昼交代する。二組のうち一組が休む時は、二交代分ぶっ続けで働く時もある。夜業(深夜労働)は表向きは11時間労働なのに、実際は12時間シフト制にして、毎日1時間の「強制的残業」を強いられている。

5、休憩時間
 紡績工場の休憩時間はどの工場でも、9時、12時、15時各20分ほどの合計1時間。食事もその中でとる。しかし、実際は一般女工にはほとんど休憩がない。大体女工の休憩室というものがない。食堂はあるが食事以外の使用は禁止されている。食事の時も機械は停止しないから,交代で食事をとるので、残った女工は二倍の仕事をする。

6、給品制度
 女工への給料の正貨支払いを出来るだけ避け、代わりに物品で支払うやり方。また、寄宿舎や社宅の売店で白米やあらゆる日用品まで女工に買わせる。ここだけしか通用しない社内金券まで発行し、労働者に与えた給料はただちに回収してしまおうという紡績工場側の魂胆である。外出の自由が制限されている女工たちは、たとえ市価より高くても寄宿舎の売店で買うしかないのである。
 賞与の代わりに品物、反物などを与える場合もある。

7、工場における女工の虐使
 懲罰制度。夜勤中居眠りをした女工がしたたかに殴られ、つきとばされ、機械の歯車に咬み殺された事件もあった。
 罰金制度。不合格品がでると罰金を取られる。本人の原因ではなく、原料の粗悪とか工程の欠陥が原因であっても2日分などの賃金が引かれる。そしてこれを人前に掲示・公表される。それどころではない。今度は不合格品を出した女工の機械に赤旗をたてて誰にもわかるように見せしめにする。風邪などで欠勤した場合も翌日同様な懲罰を受ける。
 強制競争。版や部同士でノルマの競争をさせ、優勝を競わせる。こうして便所にも水飲みすらも行けないのである。

8、外出の制限
 外出は成績の良いものだけが許され、しかし、もし帰りが5分でも遅れて帰ろうものなら、たちまち罰として、次の一ヵ月は閉門される。罰として部屋全体が外出禁止になることもあった。
 女工は歌う。
 「籠の鳥より 監獄よりも
       寄宿ずまいは なお辛い・・・・。」

9、強制貯金
 毎月の賃金から前借金償還・共済会費・食費の他に必ず「信認金」「積立金」「部屋貯金」が引かれ、しかもこれらは退職の際でなければ払い戻されない。

10、寄宿舎の支配
 部屋長は自分の洗濯を女工にやらせ、体の具合が悪くて寝ている女工を無理やりに起こし労働を強いる。暴力的支配の世界。

11、寄宿舎の食事
 「豚小屋」に尽きる。どの寄宿舎も女工の逃亡を防ぐ仕組みがあり、全国約半数の紡績工場では人工的に寄宿舎の周りにお城のような堀を作っている。中には孤島の中に3千人の寄宿舎があるところもあり、文字通り「奴隷の島」である。一畳に一人くらいが住み、しかもそれが昼夜使用されているから、朝帰った者がそのまま夜業者の布団にもぐり込む、夜帰った者がまたそれへ寝込むので床を上げられることもない。だから一畳に二人当たりとなる。中には26畳部屋の定員22名として、その実33名までいれている寄宿舎もある。

12、食事
 工場の食事は不味い以上にまずい。また不潔である。味噌汁は世間の赤みそや白みそでなく、ぬかみそである。朝食、大根汁と沢庵、昼と夜中は油みそと沢庵、夕食はひじきと沢庵という具合だ。魚の刺身が女工の食膳にのぼったことは、東西古今を通じてただの一度もない。ブルジョワに飼われている犬より劣った食事だ。

13、灼熱地獄と騒音と粉塵
 綿繊維に湿気を与えるため平均温度65度以上という蒸気を噴霧器を使い、工場中を高温の霧に包む。工場のどこに行っても変わらない。灼熱地獄だ。機械の騒音は一般の人が5分もいれば、しばらくは耳が鳴って聴覚障害になる。そこに12時間もいるわけだから大変だ。会話も怒鳴り声だ。粉塵はいうまでもない戦慄すべき綿ぼこりの飛散さだ。いかに紡績工がそれを大量に肺に吸収しているか、呼吸は苦しく、実に多くの女工が消化器系の疾患や肺結核に侵されていく。

14、病人、死者の惨虐
 1923年(大正12年)の大震災。富士紡押上、大日本紡深川、栗原紡績の三大工場は灰塵に化して崩壊した。他にも富士紡川崎工場、日清紡亀戸工場、鐘紡東京本店、東洋モスリン第一第二工場、東京モスリン吾嬬工場、亀戸工場など多数に及んだ。紡績工場で圧死した労働者は少なくても5千人はくだることはないだろう。どこの紡績工場でも震災発生時は何千人と働く工場の機械を稼働中であった。しかも数少ない非常口は扉を閉ざしてかんぬきをはめ、錠前までおろしている。その中での建物や機械の崩壊・火災、これにつぶされ、焼き殺されていった女工たちの無念はいかほどであろうか。

15、ゴロツキを雇う紡績工場
 女工が不満を漏らした時、サボタージュの起きた時、会社が雇ったゴロツキ共が暴力で女工たちを抑えつけるのである。東京モスリンでは1921年5千名労働者が決起して要求書を会社に提出した時、ゴロツキの親分はピストルを衝き付けて善良な労働者を威嚇した。また「殺すぞ」と騒いだ。かくのごとく「暴力是認」の工場管理は、けだし我が大日本帝国の専売特許であろう。

16、紡績会社側の労働者の組織化(ブルジョア・カルト)
 紡績工場側からの労働者の組織化。幼年工向けの教育的施設として私立小学校など中には高等女学校を設置しているところもある。裁縫・生け花などを教えたり、男性には機械操作などの技術教育をする。また、婦人会、主婦会、衆生会、青年会などに組織し講習会を開き資本家側の思想教化の場とする。
講習会の講師談例
「日本の職工は口のほうが早くていつも責任がともわない」(東洋紡績朝日寮)
「資本家も労働者も今は利害をそとにしてひたすら国家のために働かねばならぬ時である」(東京モスリン亀戸工場)
「足ることを知れ! ー幸福はここから生まれるー」(女工訓育雑誌「つとめ」)

工場歌。どの大紡績工場では「工場歌」を歌わせている。
東京モスリン亀戸工場の工場歌(文学士 小林愛雄作)
(一) 花の名どころ 亀戸に 香う梅より なお清き 操(みさお)を誇る 三千の 心は一ツ へだてなし
(二)ここは吾妻(あずま)の 森近き 河のあたりの 大工場 心のかじを 定めつつ 真白き綿を 紡くところ
(三)花の都の かたほとり 固き実結ぶ 大工場 皇国の富の 一トはしと 貴き布を 織るところ
(四)ここよ朝夕 おだやかに 塵の巷を よそにして 事業の栄 永久に 希望の光 照るところ

(*第16「女工の心理」、第17「生理並びに病理的諸現象」、第18「紡績工の思想」、第19「結び」での細井和喜蔵の女性労働者への失望観や思想に関しては、敗北した争議での経験から来るのかもしれませんが、承服できない視点があります。)

 

 最後に細井和喜蔵の妻高井としの自伝「わたしの『女工哀史』」(岩波文庫)から彼女の詩【『女工哀史』後五十年!】を紹介して終わります。


『女工哀史』後五十年!

ああ 細井よ あなたが死んで
とうとう五十年目
私は七十二歳のおばあちゃんになった
よくも生きたと思います
あなたが死んで
悪妻の代表のようにいわれ
この世の中がいやになったり
酒を飲んだり 男友だちと遊んだり
旧憲法では相続権もなかった私
でも 私は ちゃんと相続できたのよ
それはあなたの考え方
それはあなたの辛抱強さ
おまけについて 貧乏神
みんな みんな もらったのよ
そして 七十二歳の今日このごろ
やっぱり 貧乏で 幸せで
若い人といっしょに話しあったり
学習したり
へんなばあさんになりました
あなたが死んで
細井から高井姓にかわった私は
細井家とは何の関係もないと思っている人たちに
思い知らせてやりたい
財産とは 金や物だけではないことを
その考え方や 生き方を
いつまでも いつまでも 守りぬくのが
本当の相続人だと
わからせてあげたい
親も子もない 兄弟もなかった
どん底貧乏の和喜蔵は
何も残さなくても
『女工哀史』とともに
いつまでも いつまでも 生きている
その心を そのがんばりを
私が みんな みんな もらってる
そして 若い人に受けついでもらう
私は 七十二歳でも
若い友人が大ぜいいる
そして『女工哀史』をテキストに
学習会も行います
貧乏なんて 何でもない
貧乏で 幸せな  ばあさんの一人言(ひとりごと)
(一九七四年一〇月)



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