先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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3,500名の遠足会  東京モスリン亀戸工場スト   1926年の労働争議(読書メモ)

2023年02月22日 07時00分00秒 | 1926年の労働運動

上・「東京モスリン亀戸工場の紛議に関する件」警視総監太田政弘1926.8.4

下・ビラ諸君よ!!! 我らをして勝たしめよ!!!
日本労働総同盟関東紡績労働組合亀戸工場争議団1926年8月

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


上・絵ハガキ「東京モスリン亀戸工場争議」(年不詳)

3,500名の遠足会  東京モスリン亀戸工場スト   1926年の労働争議(読書メモ)
参照「協調会史料」

東京府下吾嬬町亀戸の東京モスリン紡績株式会社亀戸工場(本社日本橋、社長青木五平衛)は、亀戸工場労働者2,899名で女性労働者は2,442名である。ほとんどの労働者は「工友会」に組織されていた。総同盟関東紡績労働組合亀戸支部にも約400名が加入していた。工友会は、総同盟の関東紡績労働組合や関東合同労働組合いずれとも親しかった。

(300名食中毒事件勃発)
1926年7月21日、東京モスリン亀戸工場の寄宿舎女工307名が夕食後、突然胃腸カタルに罹り数日間休業する事件が勃発した。会社が出した腐った食べ物による中毒だと誰もが疑った。8月2日、工友会による職工大会が開催され、以下の要求を決定し、中毒問題に関して会社の責任を追及し、工場長の排斥運動など争議を開始することを決定した。

8月2日要求書(工友会)
一、今回の中毒に罹り休業している患者に対し、会社は全額給料を支給する事
二、食事の改善、衛生施設の完全を計るため、会社は工友会代表数名の意見で聞いて献立、買い入れなど決める事
三、監督者特に鈴木伊助工場長は、過去にも同じ問題を何回も起こしてきた。更迭すべき
四、暴言を吐く名取工場長も更迭すべき

同時に工友会は、友誼団体である総同盟関東紡績労働組合と関東合同労働組合に檄文を送り応援を要請し、また争議の参謀として総同盟関東紡績労働組合主事岩内善作ら3名を任命した。8月3日、労働者代表は日本橋の本社を訪問し、四項目の要求書を提出した。

(工場側の態度)
争議の拡大を怖れた工場側はあわてて以下の掲示をした。
掲示
一、当分は就業時間中は一切外出を禁止す
一、作業時間中、専属部署を離れる事を禁止す

(ストライキ決行)
8月3日、工友会幹部らは手分けして午後10時より労働者の自宅を訪問し、ストライキに向けた全労働者からの署名・捺印を集め、また工友会貯金より1,500円を払い戻し争議資金としストライキ決行を計画した。
8月5日、午後6時より女工300名、男工150名と応援労働組合員など約700名が大会を開き、会社の不誠実な姿勢に怒りを爆発させ、満場一致でストライキ決行を採択した。応援労組の岩内善作らも登壇して激励演説を行った。

ストライキ開始以来寄宿舎にいる2,280名の女性労働者は争議団本部や総同盟関東紡績労働組合や関東合同労組に熱心に通い、寄宿舎においては労働歌や革命歌を高唱し、太鼓を打ち鳴らした。会社のデマや脅しによる田舎の父兄を使っての組合切り崩し工作を事前に予測する争議団は、先に田舎の父兄に宛てて状況の報告の手紙を出し会社の手に乗らないように頼んだ。女性労働者個人からも田舎に手紙を出し理解と応援を求めた。

日本労働総同盟関東紡績労働組合吾嬬支部と関東合同労働組合は工友会を熱心に応援した。毎日多数の応援部隊を東京モスリンに派遣した。

(事務所に投石)
8月7日午後11時半寄宿舎女工約500名は構内をデモをし声をあげた。その内の一部が工場事務所の裏に行き次々と投石をはじめた。裏窓ガラスが粉々に砕けた。

(3,500名大遠足会)
毎日午後7時から10時まで本部において演説会が開催された。毎夜6、700名の労働者が参加して気勢を上げた。
8月8日午前10時、争議団の大遠足会が開催された。前日寺島警察署長は岩内善作ら幹部を呼びつけ、「遠足会が示威行動に絶対にならない事」ときつく命じてきた。当日は工場裏から一里先の荒川の橋を渡った向こう岸の「葛飾本田渋江荒川放水路堤防の堤」まで遠足会だ。途中「パン」や「氷」などの食料を配ってみなで喫食しながら高唱し、到着した現地では全員で運動し、互いに交流・団結を深めた。その数は応援部隊も入れて3,500名にも上った。
警察記録による遠足参加者の内訳は以下の通り。
一、東京モスリンストライキ争議団 女1630名   男150名
一、総同盟城東支部        女  770名   男100名
一、同上吾嬬支部         女  650名   男150名
一、その他友好労組より              男  50名
               総計3,500名

警察の記録ですら3,500名、ものすごい数だ。大成功だ。これでは誰が見ても示威行動そのものだ。3,500名は「葛飾本田渋江荒川放水路堤防の堤」でおおいに交流・運動し、再び工場まで大部隊で堂々と「遠足」して解散した。この事実上の3,500名の大デモには会社も警察もさぞ肝を冷やしたことだろう。

ちなみに、今、私が毎日散歩している河原が、まさに葛飾本田渋江荒川放水路の堤です。この記載を見つけた時は心底うれしくなりました。散歩しながら、ここに97年前の争議団と応援労働者が3,500名も ! 来たのかとひたすら感激しています。
労働運動や大衆運動を経験した人ならこの大変さはわかると思いますが、3,500名の「遠足」を成功させるために争議団はさぞ苦労したことでしょう。事前の宣伝や動員の準備、当日の「パン」「氷」・・・担当者の準備、荒川放水路の堤での交流の中身、司会、警備、取り巻く警察官の挑発(革命歌は歌ってはならないなど)との防衛等々、いかにも高度な組織的対応が求められていたはずです。ある意味デモや総行動より大変だったのではないでしょうか。それにしても一つの争議の応援に3,500名、そのうち3,050名が女性労働者だったこと。うーん先輩たちすごいですね。

(調停)
追い詰められた会社は、ついに労働者側の要求を受け入れる以外にないと決めたが、なんとしても工友会内の急進的幹部だけは解雇したかった。組合側の岩内善作らは労働者が相当有利な条件で解決できるのであれば多少の犠牲は仕方ないと覚悟していた。会社は、吾嬬町町長大沢梅次郎に調停を依頼した。大沢町長は、争議団と組合の幹部約10名を村役場に招き意見を求めた。大沢町長は以下の調停案を出した。
町長調停案
一、会社は争議団からの四項目要求を受け入れる事
二、会社は争議費用1千円を提供する事
三、スト中の日給は半額支給する事
四、工友会幹部10名が退職する。ただし一人あたり解雇手当300円を支給する事

(解決)
8月10日正午町長案を双方が受け入れて解決した。



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