
9/26(土)、シネ・ウインドで「アングスト 不安」を観てきました。
予告編はこちら。
実在の殺人鬼を描いた1983年のオーストリアの映画で、日本では88年にレンタルビデオにはなったけど、あまりの過激な内容に何年も劇場公開されずにいたのが、今年ついに公開されたそうです。
で、実際に見てみたんですが、最初から最後まであくまで殺人鬼の主観で物語が進んでいくのが確かに不気味でした。
冒頭、特に何の説明もないまま、主人公が出会った人を射殺するという場面から唐突に始まるので、いきなり驚かされます。
そこから彼の生い立ちが語られ、問題のある家庭で育ち、その中で異常なサディズムが芽生えてしまった過去が明らかになっていきます。
この感じはエドワード・ゴーリーの実際の殺人事件を元にした絵本「おぞましい二人」を思い出しました。
どうやら彼は何か動機があるのではなく「殺人」という行為そのものに快楽を見出し、やめられなくなっているようなのです。
殺人が原因で刑務所に服役した彼は、出所後、彼は再び殺人を求めて街をふらつくのですが、この時点でもう「この人はヤバイ」感じが全開です。
しかし、その時点ではまだ何の事件も起こしていないので、ただただ周りの人達も「変な人だな…」と見るくらいで、特に何が起こるということもありません。
そんな彼は、たまたまある一家を発見すると、そこに乗り込んでその家族を次々と惨殺していきます。
どうしてその家族なのかと言えばたまたま発見したからであり、ここでも殺人の動機みたいなものはなく、あくまで殺人という行為そのものが目的なのです。
そのまま、何の計画性もないまま、その一家を次々と行き当たりばったりで惨殺していくのですが、何の理由も説明もなく、ただそこには「殺人」という行為が存在しているだけで、それが本当に不気味なのです。
例えば、ミステリーなどの殺人犯には、一応殺人犯側にも殺人に至った動機などが描かれ、殺人は許されない犯罪だとしてもそこには何らかの同情や感情移入の余地が存在し、すっと物語を理解できたりはするのですが…そういうものはこの映画にはまったく存在しません。
そして、殺人という行為の過程を、ただただ物凄く丁寧に描写していくんだけど、あまりに丁寧すぎて、下手するともはやこれが実話に基づく殺人事件であることを忘れ、時折コメディにすら見えてしまったりします。
この感じは、同じく実在の殺人鬼を主人公にした今年の映画「屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ」も思い出したりしましたね。(こちらも地獄みたいな殺人鬼の映画です)
さらに、先程、動機が描かれないので感情移入の余地がない、みたいなことを書きましたが、この行為が殺人事件であることさえ忘れさえすれば、ちょっとだけ気持ちが分かってしまうんですよね。
例えるならば、「行き当たりばったりで行動してしまって失敗をして後悔する」とか「物を壊してしまったからそれを隠そうとして焦る」とか「大きなものを一人で運ばないといけない大変さ」とか、そういう感じです。
正直、僕自身、自分で行き当たりばったりでやった行為で大失敗して、一人で悪態をついたり物に当たったりする、ということは経験があります。
とは言え、彼の行為は紛れもない殺人という犯罪であり、彼が「壊したり」「運んだり」しているものは、「物」ではなく、つい数分前まで生きていた人間なんですよね。
その、人間を生命ではなく物としか扱っていないところがとにかく不気味であり、この映画の恐ろしいところです。
そして、そのことすら忘れて殺人鬼に感情移入してしまいそうになる自分自身が何よりも恐くなります。
殺人鬼という自分のような常人には理解できない人間が、何を考え何をしたのか、その行動に迫り、それを丁寧に描写し続けると、殺人鬼の中にも人間らしいものが垣間見えてしまうし、それは自分と同じだと気付いてしまうわけです。
その瞬間が一番怖いけど、こうして映画として表現することで、殺人という暴力を「対岸の火事」にしないその姿勢、僕は評価します。