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地球市民点描・麻川明(黙雷)      大衆欺瞞の弁証法から大衆啓蒙の弁証法へ 自然権なき市民法は無効である

無知の状態においておくことは可能であろうが

見ない以前の無知にすることは不可能である

国号改め「大和」757年と8世紀の長屋王の食生活

2013-11-10 18:00:44 | 日記

738:「南詔」盛んとなる(国都 大和城)

日本の国号の変遷
737:「大倭国」から「大養徳国」と改める
747:「大養徳国」から「大倭国」に復す
757:「大倭国」から「大和」国へ改める

735:医者玄と吉備真備、グレコバクトリアから帰国
天然痘流行
737:4月北家 藤原房前没、
7月京家 藤原麻呂没、南家 藤原武智麻呂没
8月式家 藤原宇合没⬅︎鎌足 不比等の4卿は一掃された
8月玄 僧正となる

859:「南詔」国号を「大禮」と改める
901:「大禮」滅ぶ
937:雲南に「大理」国、興る

▶︎長屋王の変
727.9:聖武天皇と安宿媛の子が誕生=首皇子←1ヶ月で立太子
藤原不比等の焦燥が手に取るようにわかる。
翌年9月突然夭死。

皇太子の死から5ヶ月、729.2.10.藤原宇合らは
左大臣長屋王宅を囲んだ

君足と東人が密告した
長屋王が国家を覆そうと謀っている

翌日には自刃を命じられ、
妃吉備内親王と4人の子息とともに自経し果てた

いわゆる「長屋王の変」この時、不比等の4人の息子は
武智麻呂41歳で正四位下
房前40歳で従四位上
宇合27歳で正五位上
麻呂26歳で従五位下


⚫︎長屋王の父は「壬申の乱」で活躍した太政大臣 高市親王

▶︎長屋王の乱、悲劇の王の「私生活」(文芸春秋11月号)
世紀の大発見はゴミ穴から見つかった木片だった

木簡は38万点余
特筆すべきは長屋王家木簡3万5千点の発見だろう

当時、出土木簡はまだ3万3千程度だった
しかも一貴族邸内の家政運営を示すものであり

平城遷都直後という歴史転換期の資料として
与えた衝撃は大きかった

王であるはずなのに親王と呼ばれ命令を大命
従者を侍従、外出を幸行きと呼ぶなど

破格とも言うべき待遇の数々が木簡記載から明白

まだ大臣にもなっていなかった時期の長屋王の桁外れ
に豪奢な生活ぶりが、木簡群の分析から上がってくる

食材は
全国30カ国以上の国々から特産品が届けられている
その多様性は平城宮出土の租税の荷札と何ら変わりない

アワビ、カツオ、タイ、アユ、アジ、ワカメ、猪肉、
ゴマ油、クリ、ヒシ、など
各国の珍味が食前を飾っていた

平城京周辺の御田・御園と呼ばれる所領からは
日々新鮮な野菜が届けられていた

ダイコン、カブ、チシャ、ナス、ジュンサイ、ショウガ
などそのヘルシーさには目を見張る

野菜の日常的な供給は平城京の木簡からは
これまでうかがえなかった内容である

ちなみに
野菜は漬物にも用いられた

トウガンやミョウガの醤漬けのほか、
トウガンとナスの粕漬けも見えまさに奈良漬けの
ルーツというに相応しい

邸内には生の牛乳も届けられていた
国家による搾乳を目的とした乳牛の飼育は

当時まだ始まったばかりであったから
長屋王はいち早くその恩恵にあずかったことになる

煮詰めて蘇(固形練乳)に加工したことも
木簡からわかるが、わざわざ生で届けられている
ことから飲用されていた可能性も十分にある

また夏には毎日氷が届けられている

貴族にのみ可能な最高の贅沢であっただろう

邸内では、長屋王とその家族、
家政機関の事務職員やさまざまな工人たちに
日々米の支給が行われていた

長屋王邸の豊かな活動を垣間見させてくれる

犬や鶴に米を支給した記録もある
いずれも愛玩ようであり担当職員が配置されていた

邸内で支給されるコメの多くは近江、讃岐、越前
から届けられていて、国家財政を通さずに
直接長屋王邸に届けられている可能性が高い

個人的なつながりの重視という点では
長屋王の祖父天武天皇の妃
つまり、長屋王の祖母の実家である北九州の
大豪族 宗像氏からの進物の荷札(鮒の鮨と鯛の醤の二点)

が見つかっているのも興味深い

木簡という生の資料で歴史を語ることができるように
なった結果、8世紀の平城京時代の歴史的位置付けが

大きく変わってきたことである

八世紀こそまさに律令国家建設の時代であって
木簡はその行政運営に欠くことのできない
アイテムとして活用されたという事実である

今後どんな新しい歴史的事実を語り出す木管が出現
するか、ますます目を離せない時代になってきた

《出典:文芸春秋11月号「新しい日本史」渡辺晃宏》

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