韓国は日本の悪口ばかり言っているようですが、日本が韓国にした、残っているいいことも一杯あるはず。
戦後の経済援助により、韓国の今日の経済発展があったこと。日本の占領時代に作られた、施設が一杯の残っていること、・・・・
韓国の放送を聞いていると、日本語のような表現がでてきますが、恐らく、教育問題で、韓国語にないものはそのまま日本語の表現がつかわれたのか?
おそらく、彼らは知らないのか、無視しているのかわかりませんが、恩というか感謝というものはないのでしょうか?
さらに、日露戦争で日本が勝っていなければ、朝鮮半島から満州などはロシアに占領されていたかもしれませんが?国そのものがなくなる、ポーランドのようになっていたかもしれません。
それらに比べ、台湾や南方の島の人達は、多少はそういう日本に対する、感謝・恩恵などの意識をもっている人も多いようですが。
文句ばかりいうなら、みんな、今までのを返して、それからにしてもらいたいものですが。
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「支援しても感謝はなし」 韓国に吸い尽くされた日本の血税“23兆円”(1)- アサ芸プラス(2014年2月21日09時56分)
アメリカでのロビー活動で教科書に「東海」を強制表記させたかと思えば、「竹島の日」に向け活動家が日本の要人へのテロ予告までしている反日国家・韓国。しかし、そもそも韓国は、日本による莫大な税金を使った援助によって今の発展があるのではなかったか。入手した「血税リスト」で、韓国の“恩知らずな実態”を暴く!
政治やスポーツの場を利用して、今や“定番”となった韓国の反日バッシング。だが、今まで日本は韓国の経済発展のために貢献し、そのため国民の血税が吸い尽くされていたのである。
入手したリストは、日本がODA(政府開発援助)の一環で、韓国の支援に使った金額のほんの一部だという。日韓問題を取材するジャーナリストが言う。
「このリストは、ネット上で“反韓”の人たちの間で話題になり、資料として出回っているものです。1966年から90年までの韓国へのODAが終了するまでの項目が掲載され、現在の価値に換算すると、総額で23兆円もの税金が韓国のために使われたと指摘しているのです」
リストの中で特に金額の多い項目を見ただけでも、日本の「血税」が大量に投入されていることがわかる。なのに、苛烈な反日批判が繰り返されるのは、不可解としか言いようがない。
そもそも1965年に日本と韓国の間で日韓基本条約を締結した際に、「解決金」という名の莫大な賠償を求められた。日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄する代わりに、無償で3億ドル、有償で2億ドル、民間借款3億ドルの総額8億ドルの資金援助を提供した。古参の自民党関係者がこう振り返る。
「当時、日本の外貨準備高は18億ドルしかなく、そこから8億ドルも持っていかれた。当時の韓国の国家予算の2倍以上ですよ。佐藤栄作内閣の閣僚の中には、『日本の有り金を全部持っていく気か!』と激怒した人もいたそうです。ちなみに、この時の韓国政権は、朴槿惠〈パク・クネ〉大統領の父親である、朴正煕〈パク・チョンヒ〉大統領でした」
日韓基本条約の「解決金」では、韓国政府はやりたい放題だったという。韓国事情に詳しい経済評論家の渡邉哲也氏はこう語る。
「韓国政府は北朝鮮の分の解決金も受け取っていながら、北朝鮮には分配していません。また、韓国政府は日韓基本条約のことをずっと国民に伏せてきました」
解決金と技術支援によって、「漢江の奇跡」と呼ばれる急激な経済成長を遂げた韓国だったが、97年のアジア通貨危機によって経済が崩壊した。ソウル駐在歴3年の東京新聞・五味洋治編集委員が当時の様子を語る。
「アジア通貨危機の時に、私はソウルにいましたが、国庫に外貨がなくなった韓国は、あっという間に国家倒産状態に陥り、昨日まで一流企業に勤めていた人たちが、一夜にして地下街でテントを張って暮らすようになっていました」
財政破綻の防止などを目的としたIMF(国際通貨基金)の監督下に置かれた韓国のため、日本は100億ドルを支援した。にもかかわらず、韓国政府は危機が落ち着くと、
「IMFからの支援はありがたいが、日本からの支援は迷惑だった」
と、高飛車に言い放ち、感謝の言葉すら述べなかったのだ。
◆アサヒ芸能2/18発売(2/27号)より
【中韓サヨナラ…世界の親日国】「美人の国」ポーランド、日露戦争から連綿と続く親愛感 日本人はモテモテ (1/2ページ)
2013.10.23
ワレサ元大統領は「ポーランドを第2の日本に」と語ったという(AP)【拡大】
★(2)
ヨーロッパ美人と結婚したい独身の日本人男性がいれば、まず最初に行くべき国はポーランドである。ポーランドはヨーロッパ有数の「美人国」であるばかりではなく、とにかく日本人というだけで「モテる」のである。「ポーランド語ができない」と心配する必要はない。名門ワルシャワ大学をはじめ、いくつもの大学に日本語学科があり、優秀なポーランド人の青年男女が日本語と日本文化を熱心に勉強している。
帝政ロシアの圧迫下で苦しんでいたポーランド人が、日露戦争(1904~05年)における日本の勝利に喜んだのは言うまでもないが、それだけではない。ロシアの支配下にあったポーランドから召集され、日本の捕虜となった将兵は数千人とされるが、彼らポーランド将兵は日本で厚遇され、皆、大の親日家となって帰国したのだった。
ロシア革命(17年)後、祖国の独立のために挙兵したシベリアのポーランド人部隊は、反革命派のコルチャック軍とともに戦ったが、勇戦奮闘も虚しく敗北。2000人近いポーランド兵は、武装解除されてウラジオストクに追い詰められた。この絶体絶命ともいえる窮地を救ったのも日本だった。日本軍はこの部隊を救済し、祖国へ送り届けている。
20~22年にかけて、シベリアに送られたポーランド人の政治犯や難民の孤児たち765人を、日本が救済する出来事があった。陸軍、日赤を始め、官民をあげて、孤児たちは至れり尽くせりの看護と厚遇を受け、米国もしくは英国経由で本国に送り返された。この事件はポーランド人をさらに親日化させた。こういった日本の好意にポーランドも応えてくれた。第1次世界大戦(14年~18年)後、独立を回復したポーランドは、日本に対して、情報戦に不可欠の暗号化技術の基礎とソ連情報を提供してくれたのである。ポーランドのおかげで日本の暗号化技術は国際水準に達したといわれている。ドイツのポーランド侵攻(39年)後も、日本はポーランドの地下抵抗組織と協力関係にあり、日本は貴重な独ソ情報を得ていた。
また、阪神淡路大震災後、95年と96年の夏休みには、被災児童計60人をポーランドに無償で招待してくれた。被災児童の中から、孤児たちが優先して選ばれたというが、彼らはポーランドでシベリア孤児4人の生存者と面会している。4人は被災児たちを励まし、日本人に恩返しできたことを大いに喜んだという。
労働運動「連帯」を議長として率いてソ連の圧政から祖国を解放し、後に大統領となったワレサ氏は「ポーランドを第2の日本に!」と叫んだ。日本がこの期待に十分に応えられなかったことが残念だ。それでも、ポーランドの日本への親愛感は衰えていない。
【中韓サヨナラ…世界の親日国】100年前エルトゥールル号の恩返し トルコ (1/2ページ)
2013.10.22
五輪招致で敗れたトルコのエルドアン首相(右)は安倍首相を祝福した(ロイター)【拡大】
★(1)
2020年東京五輪の開催が決定した直後、ライバル都市であったイスタンブールの国トルコから、数多くの祝福の便りが日本に寄せられた。「親日国トルコ」を実感する出来事だ。
トルコが215人の日本人の命を救ってくれたエピソードを紹介しよう。1980年から始まったイラン・イラク戦争は85年にエスカレートし、イラクの独裁者フセインは3月17日に突然、「今から48時間後、イラン上空を飛行する航空機はすべてイラク空軍の攻撃対象となる」と一方的に宣言した。
日本政府の対応は機敏さを欠き、救援機派遣のタイムリミットはたちまち過ぎてしまった。各国民が続々と救援機で救出されてゆくのを、在イランの日本人は横目で見送るしかなかった。イランの首都テヘラン北部にはイラクのミサイルが着弾する状況で、一刻の猶予も許されない。
この時、日本が最後の望みを託したのがトルコであった。日本側を代表して、伊藤忠商事の森永堯イスタンブール事務所長は、旧知のオザル首相(後に大統領)に電話をかけ、懇願した。
しかし、トルコも多数の自国民を救出しなければならない。断られても当然の依頼であった。「今、日本が頼れる国はトルコしかありません」と迫る森永氏に、オザル首相は長い沈黙の後、ついに「オーケー」と答えてくれた。トルコ航空の2機のDC10がイランに飛び、215人の日本人は無事救出された。
トルコ航空の乗組員にとっても、攻撃開始時間直前の決死のフライトであった。しかも、このあおりで、陸路イランを脱出しなければならないトルコ人も存在したのだ。
「なぜ、そこまで日本人を優遇してくれたのか?」と聞く日本人に、トルコの人々は異口同音に答えた。「100年前のエルトゥールル号の恩返しです」と。
エルトゥールル号は1890年、明治天皇に勲章を贈呈するために来日したトルコの軍艦であった。しかし、帰国途上、紀伊半島沖で台風に襲われ、座礁して乗組員650人中587人が亡くなる大惨事となった。
この時、遭難者の救出・看護に自己犠牲的な働きをしたのが、地元・紀伊大島の島民だった。この年は漁獲量も少なく、また米価の暴騰もあり、食糧の乏しい大島ではあったが、島民は貴重な米を供出し、最後の非常食の鶏まで潰して遭難者にふるまった。
生存者63人(一説に69人)は日本政府の厚遇を受け、2隻の軍艦により丁重に母国へ送り届けられた。この話はトルコの歴史教科書に載っており、トルコ人なら誰でも知っている。トルコはこの遭難事件の恩返しを95年後にしてくれたのだ。
ロシアの圧迫に苦しんでいたトルコは、日露戦争(1904年~05年)での日本の勝利に喜び、さらに親日の度合いを高めた。子供にノギ(乃木希典陸軍大将)、トーゴー(東郷平八郎海軍大将)と名付ける親も続出した。
トルコ共和国のケマル・パシャ初代大統領は、トルコ近代化のモデルを明治維新に求めた。トルコ人の「親日」は明治以来の筋金入りなのだ。
【中韓サヨナラ…世界の親日国】オランダを追い払った日本と深い関係があったインドネシア
★インドネシア
2013.08.29
1993年、インドネシアのスハルト大統領(左)と会談した宮沢首相(当時)【拡大】
安倍晋三首相が靖国神社を参拝するときは、台湾の李登輝元総統や、インドネシアのユドヨノ大統領と一緒に参拝したらよい。ユドヨノ大統領は「日本首相の靖国参拝は当然である」と激励してくれている。できれば親日派の多くの外国人にも同行してもらうとよい。
筆者の友人、元駐日イスラエル大使のエリ・コーヘン氏も喜んで同行するだろう。コーヘン氏は大使の時に靖国神社を4回も公式参拝している。彼が行けば世界中のユダヤ人に、ユドヨノ大統領が同行すれば世界中のイスラム教徒に好印象を与えることができる。
インドネシアも、インドやミャンマー同様に、日本がその独立に貢献した国の1つである。日本は先の戦争で、インドネシアを350年も支配していたオランダを追い払い、同国を3年半にわたって統治した。
この3年半は、日本軍の軍政の下に、国語や国旗・国歌が制定され、インドネシア人が行政能力をつけ、PETA(ペタ=祖国独立義勇軍)によって軍事能力を獲得した貴重な時期であった。
特にPETAは、対オランダ、対英国の独立戦争を勝ち抜き、インドネシア国軍の基礎となった軍事組織である。オランダはその植民地統治で銃1丁、インドネシア人に与えることはなかった。日本軍は敗戦後、その武器をすべてPETAに譲渡した。
敗戦後もインドネシアに残留して、独立戦争に参加した日本人は約2000人にのぼる。そのうち、400人が戦死したという。独立後のスカルノ初代大統領は日本軍政が育てた人物である。その後継者となったスハルト大統領の政権初期まで、政府高官の6割がPETA出身者であった。彼らは皆、超親日派である。
筆者は独立戦争の英雄の1人、故ルスラン・アブドルガニ博士に長時間インタビューしたことがある。
博士は「日本はわが国の独立に大いに貢献した。大東亜戦争が契機となり、アジアからアフリカまで多くの独立国が生まれた。軍政には負の面もあったが、些細(ささい)なことだ。日本人は自らの偉業を誇るべきだ」と、日本人を大いに励ましてくれた。
軍出身で国民議会副議長だったA氏は「日本と海軍協定を結びたい。中国の帝国主義や海賊の脅威と戦うために日本の協力が必要だ」と、筆者に訴えた。
こういったインドネシアの本当の声が伝わらないのは、日本マスコミの偏向もさることながら、インドネシアのマスコミでは華僑の影響力が強いからだ。日本企業が現地華僑とばかり組んで商売していることも問題だ。中韓サヨナラ…世界の親日国】台湾の市民たちが評価する“日本精神” 韓国とは正反対 (1/2ページ)
2013.08.27
2007年の来日時に靖国神社を参拝した台湾の李登輝元総統。中国、韓国の指導者にも見習ってほしいものだが…【拡大】
★台湾
世界に親日国・地域は多い。中国や韓国のような「反日・嫌日国家」はむしろ例外で、日本は世界一好かれている国だと言っても過言ではない。アジアをはじめ、中南米やアフリカでも日本は大人気なのだ。
数ある親日国・地域の中でも、群を抜いているのが台湾だ。東日本大震災で、台湾からの義援金は250億円を超え、世界各国で断トツだ。台湾の人口は約2300万人だから、その親日度がよく分かる。
日本は日清戦争後の下関講和条約で、清朝から台湾を譲り受け、1945年の敗戦まで約50年間にわたり台湾を統治した。この50年の統治は台湾近代化の基礎を築き、戦後も台湾人から高い評価を受けている。
日本語世代の代表的親日家が、誰あろう李登輝(り・とうき)元総統だ。私は、李元総統と3回お会いする機会に恵まれた。京都帝大卒で元帝国陸軍少尉の李元総統は、国民党独裁政治を民主化した偉大な政治家だが、気さくな人柄で、今まで2万人以上の日本人と会談している。
李元総統は「日本よ強くなれ!」と激励の言葉を日本人に送り続けてくれている。「台湾と日本は運命共同体」というのが口癖だ。李元総統はまた、戦死して靖国神社に祭られている兄君の慰霊のために、靖国に参詣されている。靖国神社に祭られている台湾出身の英霊は約3万柱という。
台湾人の親日感情を最も率直に表した素晴らしい本が、やはり日本語世代の実業家である蔡焜燦(さい・こんさん)氏が書いた「台湾人と日本精神」(小学館)だ。日本精神はリップンチェンシンと発音する。勤勉・正直・順法精神・義理人情に厚いなど、すべて良いことは、この“日本精神”という言葉で表されるという。蔡氏は陸軍の少年飛行兵だった。
戦前の日本は、台湾よりも朝鮮統治に力を入れた。にも関わらず、台湾人は日本の台湾統治を高く評価してくれている。
それを代表するのが日本の水利技術者、八田與一(はった・よいち)の造った「嘉南大●(=土へんに川)(かなんたいしゅう)」という、台湾南部の嘉南平野を潤す、巨大な烏山頭ダムと潅漑(かんがい)工事だ。
現在の馬英九(ば・えいきゅう)総裁は、戦後台湾を占領した蒋介石(しょう・かいせき)一派の末裔で「台湾人意識が弱く、中国人意識が強い」といわれるが、八田の功績をたたえており、台湾の教科書にも「恩人」として登場する。
戦時中、神奈川県の高座(現在の座間市、大和市など)に、海軍の兵器工場(高座海軍工廠)があり、ここで台湾出身の10代前半の若者たち約8400人が勤労奉仕をしていた。彼らは台湾に帰国後も「台湾高座会」という同窓会を作り、日本に感謝し、若き日の苦労を懐かしんでいる。
南北朝鮮とは、何という違いであろうか。韓国だったら「強制連行」事件になっていっていたところだろう。
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