ぶらり一人旅と趣味の世界

気まぐれ日記
ぶらり一人旅。趣味の世界・・など公開!

2017.10.2 排除の党!!

2017-10-02 | 経済
希望の党ではなく、排除の党へ・・党名変更!!

自分の力で当選したのらないざしらず、自民党。民主党の看板で当選したやから

まして、排除するといっても、自分も民主党の中枢にいたのに・・いい加減にしろ!!

こんな輩はみな落選に!!!

今回の選挙は憲法を守るか、改憲するかで、選別するべきでは!!
その意味では、枝野さんの立憲民主党にエールを送りたい!

小池さんは、もっとリベラルなのかとの印象もありましたが(ニユースステーション)
もはや、自民党の派閥が離脱して新党を結成した第二自民党!!

憲法を守るか改憲か!!  国民も真剣に考える必要があるのか?

自民党・公明党・・・さらに維新の会・・小池新党が 3分の2をとれば、改憲の道筋ができることに。
これでいいのか!! 投票する人は真剣に考えるべきです!

すべての人が同じ思想・信念をもっているわけでわない・・排除の論理は独裁と同じ。
今回の選挙の結果が何につながるか、みんな冷静に判断する必要が。
僕らはもう関係ないが、今の20-30ぐらいの若者は、その意味を考えてほしいと思います!!

以下の二人は、敵前逃亡として、立憲民主と共産党が候補者を出さないで、自民党にエールを贈るのも!!



《 希望の党・・若狭勝 》

政治活動[編集]
2013年の第23回参議院議員通常選挙に自由民主党の比例区から立候補したが[23]、自民党圧勝の中で比例代表最後の1議席を太田房江と争った末、19位で落選した[24]。支援団体として立正佼成会、妙智会教団、教派神道などが支援した[25][26]。
2014年の第47回衆議院議員総選挙では、自民党より比例東京ブロック単独(名簿第27位)で立候補し、初当選を決めた[27]。若狭は前回立候補した参議院と今回の衆議院の比例代表の選挙制度の違いに関して「名前を書く、書かないで(方式が)分かれるような複雑な選挙制度は、国民には分かりにくい」と指摘している[27]。


東京都知事選挙の街頭演説にて、小池百合子と共に
2016年東京都知事選挙では、党が推薦した増田寛也ではなく小池百合子の応援に入り、小池の街頭演説第一声から行動をともにした[28]。自民党東京都連会長の石原伸晃と都連幹事長の内田茂は連名で、「増田以外の候補者を党員や親族が応援した場合は除名などの処分対象になる」という警告文書を配布しており、都知事選挙終了後に都連のホームページから若狭の情報が削除された[29][30]。
2016年9月6日には自民党幹事長の二階俊博と会談し、小池を応援したことに対して厳重注意処分を受けた[31]。また、小池の都知事転出により補欠選挙が実施される東京10区への出馬の意向を伝え[31]、公募者選考を経て21日に自民党の公認候補となった[32]。10月23日の投開票で民進党候補らを大きく引き離して当選した[33]。同月26日に東京都選挙管理委員会から当選の旨が告示され、同日付で再び衆議院議員となった[3]。
2017年5月31日、同年に行われる東京都議会議員選挙において、自民党ではなく都民ファーストの会を支援するためとして党本部に離党届を提出[34]。自民党は都議選後の7月3日に若狭の離党を了承した[35]。
9月27日、小池百合子東京都知事を代表とする新党「希望の党」設立会見に、結党メンバーとなる国会議員14人の一人として参加した。
主張[編集]
選択的夫婦別姓制度導入に賛成[36][37]。「少子化対策として結婚への障害を取り除くという意味でも、また、DVの芽を摘み取るという意味でも、選択的夫婦別姓制を導入すべき」と述べる[36]。また、この件は国連の女性差別撤廃委員会より導入を要求されているが、日本が「のれんに腕押し」で耳を傾けないと思われることは「国際的にはマイナス」とも述べる[38]。
防衛、経済、教育などの具体的な政策は公にほとんど語っておらず、どのような政治思想とそれを実現するための政策があるのかは不明である。

《 細野 》

衆議院議員[編集]
2000年、第42回衆議院議員総選挙に民主党公認で旧静岡7区から出馬。自由民主党の木部佳昭、保守系無所属の栗原裕康(のち沼津市長)らを破り、初当選した。2002年に選挙区の区割変更が実施され、2003年の第43回衆議院議員総選挙では静岡5区で自民党の斉藤斗志二を破り、当選。以後、静岡5区で連続4選。2005年、京大法学部の先輩である前原誠司民主党代表の下で、党役員室長に就任した。偽メール問題により前原が辞任した後、後任の小沢一郎の下でも党役員室長に留任。
2006年10月にTBSテレビの『筑紫哲也 NEWS23』キャスターである山本モナとの不倫を写真週刊誌『フライデー』で報じられ[3]、10月5日に民主党政策調査会長代理を含む党役職を辞任し、さらに一部で『モナ男』というあだ名を付けられることになった[4]。2007年9月、政策調査会筆頭副会長に就任し、党役職に復帰した。2009年の第45回衆議院議員総選挙で4選を果たした[5]後、小沢一郎幹事長の下で党組織委員長・企業団体対策委員長・副幹事長に起用され、民主党の支持団体の窓口を一手に引き受けた。2010年6月、菅直人代表の下で民主党幹事長代理・企業団体対策委員長に起用される。
菅政権[編集]
2011年1月、菅第2次改造内閣で内閣総理大臣補佐官(社会保障・税一体改革及び国会対策担当)に任命される。3月11日の東日本大震災発生に伴い、同年4月15日から担当事項が「原子力発電所事故全般についての対応及び広報担当」に変更された。同年6月27日、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)に任命され、初入閣[6]。あわせて「東日本大震災等による電力供給不足に伴う節電啓発活動等を総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[6]・「東京電力福島原子力発電所事故の収束及び原子力発電所事故の再発を防止するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[6]を担当する国務大臣も兼務した。同年8月10日、原子力損害賠償支援機構法が公布・施行され、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)を兼任[7]。
野田政権[編集]
2011年民主党代表選挙では前原誠司の推薦人に名を連ねるが、1回目の投票で前原は3位に終わった。前原陣営は決選投票において、小沢グループが推す経済産業大臣の海江田万里ではなく、財務大臣の野田佳彦に投票する方針を決定(野田は決選投票で海江田を破り、当選)。野田内閣では内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)に再任されたのに加え、環境大臣に任命される。同年10月3日、内閣府特命担当大臣(原子力行政)の補職辞令の発令に伴い、内閣府特命担当大臣(原子力損害賠償支援機構)を退任(後任は枝野幸男経済産業大臣)。環境大臣及び内閣府特命担当大臣(原子力行政)は野田第2次改造内閣まで務める。
2012年9月、民主党代表選挙への出馬を小川淳也衆議院議員ら党内の有志から要請されたが、出馬を固辞した[8]。同年9月19日、原子力発電所の安全・規制を一元化した原子力規制委員会の発足に伴い、内閣府特命担当大臣(原子力防災)の補職辞令を受ける[9]。
2012年9月28日、野田第3次改造内閣の発足に伴い、環境大臣、内閣府特命担当大臣(原子力防災・原子力行政)を退任し、民主党政策調査会長に就任した。同年の第46回衆議院議員総選挙では、静岡5区で自民党新人の吉川赳を大差で破り、5選(吉川も比例復活)[10]。民主党惨敗を受け、野田首相は代表辞任を表明する。野田の辞任を受けけて実施された民主党代表選挙では、再び細野を推す声が上がったが出馬を固辞し、既に立候補を表明していた海江田万里を支持する考えを明らかにした[11]。馬淵澄夫を破り、当選した海江田の下で民主党幹事長に起用された[12]。2012年12月28日、民主党の次の内閣でネクスト副総理大臣に就任[13]。
民主党下野後[編集]

最新の画像もっと見る

コメントを投稿