松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ(連続05)

2014-07-30 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
用意不用力と連続。
連続と意とのかかわりについて
実感をともなった理解が
また少しだけ進んだかもしれない。



鬆・静の状態にあれば、
仮に協調の状態に何らかの変調があっても
それを比較的容易に察知できる。
自分の課題は察知してからのこと。

どうしても頭が「何かしなくては」と
つい考えてしまいがち。
頭は五体から切り離されたパーツだから
運動に直接的に参加する当事者ではなくて
(五体の)運動状況を実況してるような
傍観者なのかもなと
しだいに考えるようになっていった。

実際、“さて、どうしよう”と思った時点で
動きの勢いにはブレーキがかかるし
動き方にも硬さが表れる。
たぶんこれまでの順調な意識の流れに
焦りや不安といった感情から引き起こされた
余計な意識が混入するなどして
その影響が現れているのかなと思う。
意識の流れが変化したことで
体全体の意識の巡行ルートが寸断されたり
意識の流れが渋滞してしまったような状況かなと。

連続は途切れていないこと。
自分の意識でコントロールできることには
限りがある。寿命はその代表かもしれない。
ある程度は意のままにさせてもらえるが
そうはいかない領域はあるように思う。

全能、絶対がすべてではないこと。
有限のなかでいかに無限性を味わうか。
一つ所にとどまらず揺らぎのなかから
なにがしかのリズムを感じ
つりあいどころを求めている存在に気づき
共存したがっているのかな。

そのためにももっと五体をわかりたい。
あたまとこころのこともわかりたい。
いのちをわかりたい。
哲学っぽい分野に
再度足を踏み入れつつあるのかも。


練習メモ(連続04)

2014-07-18 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
連続には2つの側面があるように思える。
ひとつはいのちの行程のような
誕生(起点)と死(終点)とで区切られた時間
(区間)を進み続ける有限の連続性。
もうひとつは起点と終点が重なることで
循環するような無限の連続性。

後戻りできない一期一会的な一面と
規則的に繰り返すような永続性と
その両方が共存しているようにもみえる。
たとえば行雲流水。
「ゆくかわの水は絶えずして
しかももとの水にあらず」であり
空を流れる雲はひとつとして同じ姿形でとどまらず
その姿形をつねに変えていく。

自然のシステムには整合性がある。
絶妙なバランス、つりあいを保つ仕組みになっている。
むしろ整合性のないところには
連続はうまれないということなのかもしれない。

頭の中にはつねに「いま」と「次」があり
どのようにして次を「いま」にするのか
さらなる「次」へとつなげるのか。
どのようになるとつながるのか
ひとつひとつ選択している。
選択し実践するために
意識を巡らせているようなものだな。




練習メモ(連続03)

2014-07-11 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
連続の解字。

「連」は会意文字。
人と車が絶えず続いて進むこと。
昔の車は自動車ではなく引き車である。
大勢の人が並んで引っ張って進む。
つまり速度はゆっくりである。
絶えず(続いて)・ゆっくり・進む

「続」は形声文字。
糸が形を表し、売(賣)が音を表す。
賣は属と同じで、
かける、つなげるという意味がある。
糸がつづくこと、糸をひっかけてつなぐこと


連続とはこれまで意識してきた
さまざまな要素を統合した運動へと
ととのえようとする意識なのだろうか。
向かおうとする方角へ(方向)移動するために
どこ(部位・主従)をどこまで(方向)
どのようにして(重心・主従)進んで(移動・連続)いくか。
ひとつひとつが歯車のように組み合わさって
整然とした淀みのない動きとなって紡がれていく。


余談だが、世界遺産に認定された富岡製糸工場。
連続とは生糸(絹糸)を途切れさせることなく繋ぎ続けてく
女工さんたちの職人としての技巧。
注意深く状況を観察しながら糸を継ぎ続けていく集中力。
彼女達は過酷な環境のなかで身を削り技術を磨いた。
人も動物も文化も
生き延びたものが次代をつむぐということかも。


練習メモ(主従07)

2014-07-01 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
主は主たるもの、要なるもの。
ということは一なるものになるかと思う。
たとえば扇の要が一点であることで
扇の動きが成り立っているように。
しかし要そのものの存在は
あって当たり前感覚というか
その存在を主張してるようにもみえない。
バランスがととのうというのは
そういうことなのだろう。

自分の練習を振り返ると
主が出すぎているかもしれない。
主を主として意識しすぎているのか。
はたまた従を従せしめようとして
抑制する傾向にあるのか。
従本来の性質を活かせずにいるのか。
練習は実験であり検証の場であるのだから
そういうことはあって当たり前で、
むしろ実験課題を見出しているのだから
好ましいことなのかもしれないが。
それにしても…な感じ。

いかなる状況にあっても
意の主は心、動の主は体幹。
意が動を導くのだから
主の主たるものは心といえるのか。


主従というと
どうしても序列のようなイメージが
つきまとうように思える。
いわゆる主は従よりも優るみたいない印象。
これってなんだろう。
練習に限っていえば、
主が従よりも優るという考え方は
してないと感じている。
これはなにも主従の関係に限らず
部位や方向などといった関係についても
どちらがより優るかという比較評価ではなくて
共存協調をめざしているように思う。

共存するためには
互いの性質を知る(理解する)段階が要る。
互いの存在を認め合うには
共通点よりも相違点を認め合えるかどうかが
ポイントになる。
共通点とはいわば同質であり共感しやすい。
だが相違点はそう簡単にはいかない。
違和感や摩擦(受け容れがたい生理的感覚など)が
多少なりとも課題として上積みされる。

ここでも主は心ということかと。
意をどうやってはたらかせるかで
生理的な感覚でさえも和ませることができる。
どうやらそういうものらしい。
まだ自分の練習段階では
実証経験の記憶はないのだけれど。
それでも「こりゃ無理だ」と思っていたことが
いつの間にかできていたことはある。


共存の本質は自他それぞれの異質の存在を認め
活かし合うこと。
どちらか一方の質で均すことではない。
複数の異質があってこそ協調がうまれるのであり
その融和の妙が和みとなるのだと思う。
主は従あってこその主であり
従の活気が主の勢に活かされるのだろう。
従を顧みない主の一方的な意念には
おそらく従の足並みはそろわず
空回りな動きとか
緊張感のある動きとなってしまうのだろう。