松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

練習メモ_導引三調03

2015-03-25 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
導引三調についての解説を受けた後は
練習で実践していくことになる。

今年は専科会員から希望が多かった内容も
練習時間枠に盛り込まれている。
身体をならした後に
全員で一回同じ套路を行う手順は
従来と変わらないのだが、
今年は春季は陳式、夏季は孫式、秋季は24式と
予め練習套路が決められており、
その期間は指定された様式の動作を題材に
導引三調を鍛錬していくようになった。
したがって現在は陳式。
套路としては36式を取り上げている。


基本的には套路練習は最初の1回のみで
導引三調の練習は単式動作で行う。
まだ始まったばかりということもあるが
単式動作の解説は型・動きの解説から始まり
動き方(動作要領)と続く。
どうもこの動き方の解説が曲者に思える。

動き方は見え方でもあり
どうしても視覚情報で動こうとする。
見た目の動作手順を覚える段階の人が多ければ
どうしてもパーツ(部分)ごとの動きを
強調する教えになる。
いいかえれば全身一体となった動き、
連動した本来の動きを分解してしまうことになる。

もう少し先の段階にある人は
その部分を自分で補正していく必要がある。
(それはそれで練習となるわけだが)
つまり目前の解説を聞きながら
本来の動作をイメージングしていくことになる。
総体をイメージしながら部分ごとの動きをみる。
それもまた意を用いる練習につながると思う。

導引三調の理解と実践が目的なのだから
そこを見失ってしまうと
なんとなく物足りない練習となってしまう可能性がある。
単式動作でも、その総体の動きや流れを
明解にイメージングできていれば
いくらでも細かく動きは分解していけるし
細かくなればなるほど
いくらでも気づくことはでてくるのではなかろうか。

意識が細部まで行き届くほどに
動き方は慎重になり微妙な変動に緊張が増す。
筋肉や神経の緊張にもいろいろあることがわかってくる。
たとえば適正かつ必要な緊張と
そうでない緊張があることなどなど。
そのさじ加減が三調の状態にかかわっているなと
わかってきた。
自分の感覚が敏感な方向やそうでない方向なども
今後もっと明らかになってくるように思う。

また、導引三調をさらに細かくすれば
これまでの個別テーマになるわけだから
引き続きそのテーマに絞って練習することだって
導引三調の鍛錬と何ら変わらない。
導引三調という山を登るのに際して
師は頂きのある方向を示してくれている。
どのルートを採用するかは人それぞれ。

動作要領中心の指導となっても
師に確認し検証することはいくらでもできると思う。
そういう味わい方もありじゃないのかな。



練習メモ_導引三調02

2015-03-20 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
・導引とはどんなものなのか。
大雑把に分類すれば体操ということになるのかも。
ヨガなどとも相通ずるものがあると思うし
医療法として認知されてきた歴史的実績をもつ
伝統体操とでもいうのだろうか。

・導引の目的とはどんなものか。
体内環境をととのえること。

では、体内環境がととのうというのは
どういう状態をいうのか。
体内環境を左右するものには
どんなものがあると考えられているのか。

体内環境がととのった状態にあれば
そわそわと落ち着かなかったり、イライラしたり、
ふさぎ込んだり倦怠感や憂鬱だったりもせずに
穏やかに過ごせる(気が和んでいる状態)。
体調に関しても食事・排泄・睡眠などのリズムも安定し、
痛みや違和感もとくに気にならない。
要するにとくに好不調の波を感ずることもなく
リラックスしている。
このように気の状態と体の状態が互いに影響しあうことで
好調・不調が現れてくると考えられる。
なかでも体内環境により影響すると思われるのが
気の状態だろう。
気は呼吸など生理機能(体のはたらき方)に影響を与える
いのちの有り様に直接的に影響していると考えられると
いってもいいかと思われる。
したがって導引で体内環境をととのえようとすることは
いのちの根元にはたらきかけるようなものかと。
古くから至高の目標は赤ん坊と語り継がれてきたのだろう。


導引三調とは調心・調息・調身のこと。
伝統的体操(導引)の理論をもとに
具体的にはたらきかけていく対象が心・息・身なのだ。
そしてその手段として用いるのが意である(用意)。

心はいわゆる情緒面のこと。
感情が生じることは自然なことだが
それに振り回されたり、
いつまでも引きずったりすることなく
平静な状態(平常心)に立ち戻るのを好しとする。
 無情(感情の揺れ幅を抑える→冷静・落ち着き)
 無欲(練習中は結果より経過→今に集中する)
意を用いてそのようにととのえる(調心)。

息は呼吸のこと。
初期段階は導引練習中でも平時と変わらずに
自然な呼吸ができるようになる。
次の段階になると
自然呼吸の状態がより深く長い呼吸へと進化する。

呼吸は自律神経がつかさどっている機能のなかでも
自らの意によってコントロールすることができる
唯一の機能だからか、
これまでにも多く呼吸に関する訓練法や健康法が
編み出されてきた。
導引では自然呼吸に基づいて呼吸の深さ(深呼吸とは異なる)
長さや息の太さ細さ(ゆっくりとした呼吸)といった
呼吸の質を、意を用いてととのえる(調息)。

身は五体の動きのこと。
太極拳導引では太極拳の動きの特徴でもある
円心(重心)の動きを使って動くのを第一に練習する。
重心の動き幅は両足間となり
重心は前後左右上下と立体的空間を移動する。
安定感のある体の動き方は
体の関節や筋肉の使い方の良し悪しが影響する。
安定した動作となるように意を用いて
身体をととのえる(調身)。

心・息・体は日常でも反射的な反応をおこしやすい。
息をのむ(息を詰める)、緊張する、興奮するなど
思わず出てしまう反射的行為だからこそ、
だれにでもそれと分かりやすい。
しかも相互に影響しあっているから、
どれか一つをととのえることで
連鎖的に変化がおこる可能性も十分にある。
したがって状態の変化にも気づきやすくなるだろう。
つまり意を用いてコントロールする練習には
格好の素材ともなる。

こうして調心・調息・調身によって
意を用いる練習ができ、
自らを総体的にととのえることもできるわけだ。


練習メモ_導引三調01

2015-03-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
朋昌会では2月の渋谷大会が終わると
年間カリキュラムが更新されます。
ということで今月の練習会からは
新内容で行っています。



専科クラスではここ数年、
月ごとに練習課題を変えてきたのだが、
今年からはこれらを総括した導引三調として
年間を通して練習していくことになった。
導引三調とは「調心・調息・調身」のことで
これまでも折にふれて繰り返し解説されてきたもの。

ところで導引の起源は非常に古いものだが
現代人に比べれば昔の人は
もっと身体を使っていたといわれているのに
そんな大昔の人ですら体操のような運動を
必要としていたのかと驚く。

ただ当時はだれもが医師のてあてを
受けられるわけではなかったから、
自分の身は自分で護るものと考えるのが主流かと。
武術が広く普及した背景にも
そのような事情もあったとされる。

おそらくは導引を必要としていた人達というのは
どちらかといえば労働をしなくてすむ階級層や
比較的身体的負荷の軽い労働をしていた人かとも思う。
肉体労働を中心にした人向けというよりは
運動不足が原因で体調を崩す人に向けて
意識的に運動させようとの目的で
導引はうまれてきたのかもしれない。
ヒトが運動不足を意識しだしたのが
昨日きょうのことではないというところに
深く感ずるものがある。


ブルース・ファートマンと学ぶアレクサンダー・テクニーク(2015.2.8)_02

2015-03-16 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
午後からのアクティビティ・ワークで
私は太極拳でワークを受けました。
ワークを受ける順番が
あらかじめ決まっているわけではなく
その場の流れによって決まっていきます。
というわけで私のワークも唐突に巡ってきました。

ちょっとドキドキしながら始めると
ブルース先生の声がかかって早々に中断。
先生が椅子から立ち上がり私の背後に立つと
先生の手が私の身体にそっと触れてきました。
そして静かに穏やかな声で"OK...yeah"と
繰り返し囁きながらアクティビティ・ワークが
始まりました。

自分の準備が整わないうちに
動き始めようとしていたなと我に返りました。
気づくことは我に返ること、
つまり気づく前の状態は我にあらず、
忘我の状態だったということになります。
慌てている、落ち着いていない、冷静でない。
平常ではない状態にありました。
それを陶芸の映像にたとえるならば
まだ粘土にもなっていない未熟な土をロクロに乗せて
つくり始めようとしてたようなものです。

自分で自分の状態に気づけていなかった。
準備にかかる時間は浪費ではない(無駄じゃない)。
まさに「急いてはことを為損じる」です。

私(陶芸家)が私の身体(土)を
ととのえきれてないままに
次の段階へと進もうとしたのを見て
ブルース先生(陶芸家)の手が
私の心身(土)に伸びてきた。
私が冷静になったところで
次へのきっかけとなる方向性を伝えてきた。
冒頭のシーンはそんな感じのワークだったのかなと
思いました。

その後も先生は太極拳を続けるよう促して
私の身体に触れ続け、ときどき動きを止めては
何かしら気づかせてくれるようなワークが続きました。
それは一方的に強制されたり
抑制されているわけではありません。
むしろ習慣化した身体の使い方や
意識の巡り方をしていることに
気づかせてくれてるような感触が残りました。

道は方法は一つじゃない。
もっといろいろ試してみてもいいじゃない?
そんなアドバイスをいただいたような感じがしました。


ところで、ひとつ謎が残っています。
土、ロクロ、陶芸家の手はわかりました。
では水とは何ものなのか?

ワークを受けていたときを思い起こすと、
陶芸家はブルース先生、粘土は私、
ロクロは…その場(もしかしたら地球?)。
そして問題の水ですが、それはもしかしたら
ブルース先生と私との間に交わされていた
何らかの(たとえば気持ち?)交流が
それにあたるのかなと思ってみたりしています。
相手を信じる思い、感情のようなものかな。

ブルース先生の言動からは
私がしたいことを理解してくれているように感じらた。
私の視線の向く方向を一緒に見てくれていると感じた。
共鳴、共感がそのベースにあったのかなと。
だから私は安心して先生の手を受け容れていた。
変化する自分を素直に受け容れられそうな気がした。
だから先生とともにチャレンジしてみようと。
そしてやってみたら、案外よい感じだった。
新しい自分に出会った気分になった。
思わず笑みがこぼれた。
そんな感じだったのかなと思いました。


それともうひとつ、
ブルース先生が水のように思えたこと。
水は冷静です。
少しの空気の流れにも水面は軟らかく揺れます。
些細な変化にも応じる備えができています。
そして水はどんな形にも変化する(受け容れる)
決まった形を持ちません。
水の性質は柔軟だけれども弱いわけではない。
表面張力は太極拳の掤勁のようでもありますし。

このへんは正直なところ、よくわかりません。
とりあえず今はそんなふうに感じています。
機会があればまた参加してみたいと思ってます。




ブルース・ファートマンと学ぶアレクサンダー・テクニーク(2015.2.8)_01

2015-03-15 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
ブルース・ファートマン(Bruce Fertman)先生の
ワークショップに参加してから1ヶ月あまり。
なぜこんな時期での更新となったかというと、
当日の感想メモが途中で見当たらなくなり
一度は諦めたのですが、
最近になってそのメモが見つかった
という恥ずかしながらの事情のせいです。

アレクサンダー・テクニークのワークショップは
これまでにも何度か体験しています。
私はアレクサンダー・テクニークの教師を
志しているわけではないのですが、
ワークによって繰りひろげられる変容は
そのどれもが固有でありながら
どこか普遍的にも見えてくるのが興味深いのです。
その場に居合わせることができることが
単純に楽しいのです。



ブルース先生の今回のワークショップは
陶芸の動画のシェアから始まりました。
それは土をこねて粘土に練り上げるまでと
練り上げた粘土をロクロを使って
器ができるまでを写したものの2本ありました。
映像に登場するのは土と水とロクロ、
そして陶芸家の手です。
ワークショップの内容が進むにつれて
なかなか示唆に富んだ映像だなと思いました。


土を手で捏ねて粘土をつくる。
対象(土)にはたらきかけていく手の動きが
微妙に変わっていきます。
それは土の質感が刻々と変化しているからでしょう。
最初は土の中に含まれている空気を抜くように
押しつけるような仕草から
しだいに微妙にひねっていく所作が見えてきます。
やがて土の表面にまでひねり紋様が現れる。
この段階になると、土は最初の質感と
かなり違うように見えます。
こうして土は粘土となり準備がととのい、
かれの手もまた準備ができましたと。
陶芸家の意を土に伝えるのが手の役目ですから、
手もまた、ととのっている必要があります。

そしていよいよ粘土の塊から器をつくり出す。
今度はロクロが加わります。
ロクロの回転の調節には大概は足を使います。
手足を自在に使うために
陶芸家は腰掛けた姿勢(座り姿勢)に
なっていることでしょう。

土を乗せたロクロを回転させながら
全体の状態をととのえるために
しばらくの間、土を上方へと盛り上げたり
低く沈み込ませるようにしたりと
粘土が上下動をくりかえすところに
ロクロの回転運動が加わるので
自然と螺旋運動へと変わって行きます。
(この状態は地球上で活動している私達の
ようにも思えました)

水は土と手との関係を潤滑にする
触媒のようです。
水を含んだ手指が土に触れると
螺旋の筋目が美しく描かれて行きます。
水によってロクロの回転で生じる
摩擦や熱も抑えられ、
土は柔軟さを保ちながら
手指の動きに応じて姿を変えて行きます。

こうした仕組みはたぶん
ヒトのなかにもあるのだろうなと思えてきます。
そして(私が)気になったのは水です。
水のイメージといえば
潤い、軟らかさ、決まった形がない…
などが浮かびます。

ときに感じる動きにくさ、○○しにくさといった
違和感や緊張感がうまれる状況とは
もしかしたら水不足になっているのだろうか。
では、水なるものの正体は?
なんてことを、つらつら思ったりしてました。



4年目の3月11日によせて

2015-03-12 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
母方の祖父母は宮城県出身です。
祖父は海方(漁師)、
祖母は山方(農家)の生まれで
ともに故郷から離れて縁あって夫婦となり
静岡県で一生を終えました。
祖父母の家には塩竈様のお札があったことを
覚えています。

私の友達は福島県で暮らしています。
福島県の他にも岩手県や山形県などにも
知人が暮らしています。
震災がきっかけとなって
新たにご縁を結ばせていただいた方達もいます。

日常の暮らしのなかで
東日本大震災という大きなくくりで思い出すことは、
正直なところ少なくなってきています。
ですが、知りあいがそこで暮らしているというだけで
折にふれて彼らを思うたびに
震災のこと原発事故のことを思っています。


4年前、どうしても消息がつかめなかった
友人の情報を得るチャンスを求めて
(つまり個人的な思惑から)
ネットでのボランティアに参加しました。
自分が貢献できたのはほんの少しでしたが
時々刻々と変化する状況に対応していくことで
自分が冷静に判断し落ち着いていったのを
覚えています。

動いてみたら自分が変わった。
巡り巡って自分に還ってくるものなんだなと
改めて思いました。
それからは自分のできることを
自分のペースで無理なく続けていかれることを
最優先にしてきました。


東北に行きたいなと思い始めています。
私自身の環境もあって
そうそう身軽に実現できるわけでもないのですが
楽しみなことのひとつに加わりました。