噛み合わせの異変から程なくして
影響が出はじめてきました。
新しい状況に慣れようとする一方で
それに対抗するような現象、
揺り戻しのような現象が出てきてます。
それまでほとんど動きのなかった振り子が
突然に大きく揺れたわけですから、
それと反対方向への振れも
大きくなるのは仕方ないというか
自然の法則かと。
揺れ方が落ち着いてくるには
いましばらくは時が必要なんでしょうね。
さて、この揺り戻し現象ですが、
具体的には痛みの感覚として現れています。
で、痛みは体の声とも言えるわけです。
“生きている証”と言われたりもしますね。
わたしもつらいが、体もつらいんです。
(でも、四六時中ということではなく
一日のなかでも波がありますし、日によっても違います)
体はそういう仕組みに
なっているんだからと思えば、
痛みを痛みとして捉えるだけではなくて
もう少し広く捉えられることもできるのかな?
でもね、そうはいってもですね、
耐えてることには違いないわけですから。
痛いことは痛いと感じてますが
ただ、痛みを目の敵にするのではなく、
必要以上に痛いと感じなくてすむように
できるだけ穏便にやりすごしたい。
意識的に、ことさらに、
浅はかな仕掛けを算段するよりは
体の主体的活動を認めて
その活動をいたわるような過ごし方をして
協力(後方支援?)する方が
体はうれしがるような気もしますし。
状況はつねに動いています。
安定とは、じつは不安定の一部に
すぎないのではないか。
不安定であることの方が
むしろ日常そのものなんじゃないのかなぁ。
“安定感”っていうのは
安定してるかのようにみえるくらいの不安定さ
というのが実態だったりするのかも。
影響が出はじめてきました。
新しい状況に慣れようとする一方で
それに対抗するような現象、
揺り戻しのような現象が出てきてます。
それまでほとんど動きのなかった振り子が
突然に大きく揺れたわけですから、
それと反対方向への振れも
大きくなるのは仕方ないというか
自然の法則かと。
揺れ方が落ち着いてくるには
いましばらくは時が必要なんでしょうね。
さて、この揺り戻し現象ですが、
具体的には痛みの感覚として現れています。
で、痛みは体の声とも言えるわけです。
“生きている証”と言われたりもしますね。
わたしもつらいが、体もつらいんです。
(でも、四六時中ということではなく
一日のなかでも波がありますし、日によっても違います)
体はそういう仕組みに
なっているんだからと思えば、
痛みを痛みとして捉えるだけではなくて
もう少し広く捉えられることもできるのかな?
でもね、そうはいってもですね、
耐えてることには違いないわけですから。
痛いことは痛いと感じてますが
ただ、痛みを目の敵にするのではなく、
必要以上に痛いと感じなくてすむように
できるだけ穏便にやりすごしたい。
意識的に、ことさらに、
浅はかな仕掛けを算段するよりは
体の主体的活動を認めて
その活動をいたわるような過ごし方をして
協力(後方支援?)する方が
体はうれしがるような気もしますし。
状況はつねに動いています。
安定とは、じつは不安定の一部に
すぎないのではないか。
不安定であることの方が
むしろ日常そのものなんじゃないのかなぁ。
“安定感”っていうのは
安定してるかのようにみえるくらいの不安定さ
というのが実態だったりするのかも。