巨樹、巨木巡礼

僕が訪ねた大きな樹を紹介していきます。

甲賀市水口町杣中 浅間さんのエノキ

2011-01-31 | 滋賀県

実は石仏のページで出そうか巨樹のページで紹介しようかと悩んだほどこの二つは切り離せない。

2つが揃っているからこそ見ごたえ有る景観となっているようにおもう、一つ一つを単体で見るとそれほどでもなさそうだが・・・・・・。

滋賀県甲賀市、甲賀忍法の里近くに有る田園地帯の静かな里山、国道307を信楽方面から東進,一山を越えると甲賀の里、大きな庚申猿が乗ってる道標の有る庚申口交差点を右折、約1kmも進むと右手にこの大きなムクノキと石仏に出会う。

鄙びた里山風景に溶けこんでなんとも懐かしい景観を醸しだして僕は好きだ。

琵琶湖に注ぐ野洲川支流の杣川に直角に注ぎこむ滝川との合流点の小高い土手に浅間「せんげん」さんが祀られている。

浅間さんは言わずと知れた富士山信仰の象徴「浅間神社」でその本地仏は大日如来、しかしこの近江甲賀の地に何故富士山なのだろう??。

何か近畿では有名な大峯山岳信仰が関わっているような気がするのですが???

格好の良いムクノキは目通り3.2m、それでも根張りは発達していて見事です。

株元に有る智拳印を結んだ丸彫りの大日如来石仏、これも単体では特記するほどの物ではなさそう・・・・・。

しかしこの石仏と大木が周囲の景色と合わさって持つ景観は特筆べきものに思える。

信仰は今もしっかり受け継がれているようだ。

撮影2008.11.29


舞鶴市 松尾寺の巨樹

2011-01-29 | 京都府

西国三十三ヶ所霊場の第二十九番札所の松尾寺は唯一馬頭観世音を本尊としていて、農耕、牛馬畜産、車馬交通 、競馬に係わる人達から広く信仰を集めている。

金剛院を後にして国道27号線を約2km程東進、松尾寺の大きな看板どおりに左折、農道、林道に近い県道564を5分も走ると松尾寺の駐車場につく。

 中国から渡来した威光上人が修行中に馬頭観音像を感得し、慶雲5年(708年)に庵を起し、観音像を安置したのが松尾寺の始とされている。

以後、元明天皇(707~715年)は藤原武智麻呂に命じ、本堂を建立、馬頭観音を刻ませ、信仰を集め大寺になったと言うが、織田信長の兵火により全焼、後、復興されたと言う名刹です。

仁王門を潜って本堂への石段登ると先ず始めに迎えてくれるのが石段上段右脇に聳えるモミの巨木。

目通り4.33m、樹齢は不明ですが傷みも無くまだまだ若そう。

此処での一番の目的はこの公孫樹。

石段を上がって右手に進むと「鐘楼」があり、その裏手この公孫樹が立っている。

威厳と風格を感じるがかなりの老体、鳥羽天皇の手植とされる公孫樹で樹齢約900年とされているが其処までは・・・・・。

目通り約5.4m、主幹は途中で欠損二本の大枝がそれに取り変わっている。

やっぱり寄る年波かハツラツサは感じられない。

鐘楼奥には鎮守社の六社神社が有ってその脇に葉過ぎの巨木が聳えている。

目通り6.2m、やっぱり主幹は欠損、三股の大枝がそれにとって変わっている。

駐車場脇にはタブの大木

目通り約5.5m余り目立たない。

撮影2008.10.18


舞鶴市 金剛院の千年榧(カヤ)と奉行杉

2011-01-27 | 京都府

舞鶴市は京都府北部日本海側の旧軍港として栄えた港町、そんな東部郊外、福井県境に近い舞鶴市鹿原(かはら)の地に鹿原山金剛院慈恩寺という紅葉の名所として知られた古刹が在る。

中心街から国道27号線を東進すること約4km、10分も走ると左手にこんもりとした鎮守の杜を持つ鹿原神社がありその前の信号が金剛院口、それを右折すると金剛院への進入路となる。

鹿原川に沿って鹿原の集落を越えると直ぐに金剛院の駐車場に着く。

駐車場から道路を挟んで鹿原川に架かる小さな橋、その先に有る小さな山門を潜って境内へと・・・・・。

拝観料を払って庫裏の裏に廻ると左手に柵に囲まれた巨大な榧(カヤ)の木が天に突きさって聳えているのが見える。

千年榧(カヤ)と呼ばれるには少し迫力に欠けヒョロ長く頼りなげに見えるがそれは余りにも無傷で高く聳えてるからなのか??

近くによって見上げて見るとやっぱり迫力充分、目通り5.3m、樹高22m

「京都の自然200選」にも選ばれた千年榧(カヤ)は開祖眞如親王が植樹したとの伝説もあり舞鶴市文化財に指定され、まだまだ元気に見える。

樹齢の1000年が俄かには信じがたい気がする。

金剛院は平城天皇第三皇子高岳(たかおか)親王(真如(しんにょ)親王)が天長6年(829)年に開基したと伝える古刹で境内の景観も素晴らしいのでその一端も・・・

高岳親王の菩提のため白河天皇が建立したと伝えられる三重の塔、紅葉の頃にはさぞかし美しいだろう。

当の横手にある急な石段の上に建つ本堂の景観もまた素晴らしく・・・

見事な建築美を見せてくれる。

帰りがけ、駐車場近くの道路脇で見かけた奉行杉。

取り立てて云うほどの特徴はないがここも金剛院の境内の一部で有ったのだろう「金剛院の奉行杉」と呼ばれている。

忠盛が金剛院の造営奉行として整備造営の記念として久安2年(1146)頃、お手植えしたと伝えられるがどんなもんだか??

因みに目通り約4m。

撮影2008.10.18

              

善通寺の大楠

2011-01-23 | 香川県

多分弘法大師がガキ大将だった頃この樹に登って遊んでいたのではないだろうか。

ここは香川県善通寺市、弘法大師生誕の地として名高く正式名称を屏風浦五岳山誕生院善通寺という。

善通寺は広大な境内を持っていて弘法大師の父、佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ、法名善通)が開基したと言われる東院と空海生誕地とされる西院(御誕生院)に分かれている。

大きい駐車場に車を置いて橋を渡るとそこが西院、境内を通りぬけ石畳の参道を行くと東院境内にと入る。

この境内には2本の目を見張る巨楠が有る。

直ぐに目に付くのが境内に入って直ぐ右側に巨大な天蓋の様な樹冠を持つ「五社明神の大クス」と呼ばれる大楠。

五社明神の小さな土盛の境内一杯に隆々と力漲る根を張り、いかにも楠の巨木に似つかわしいまさに絵に描いた様な樹姿でその威容を誇っている

この1本でまるで小さな森の様に天を覆う姿は雄大そのもの添加の善通寺に恥じない

何処と言って痛みもなくまだまだ若々しさの漲る力強さを感じさせてくれる。

幹周10.00m 、樹高約40mとなっていて樹齢は不明。

もう1本の巨楠、こちらが本命、弘法大師の子供だった頃にはもう既に大樹だったとか??

東院五重塔の西側境内にどっかり根を下ろすがぎお社明神の楠と比べると確かに老骨、溌剌さには欠ける。

それ故、根元の鬼気迫る迫力には歴史の重みが積み重ねられている感じが強くする。

襷掛けに掛けられた太いしめ縄、その下に置かれた石祠は庶民信仰が強いことへの信仰だろうか??

それともこの老楠に弘法大師を重ねているのだろうか??

樹齢1300年以上、目通り12.5m、樹高29mと成って居て共に香川県の指定天然記念物に成っている。

正しく由緒正しき巨樹には違いない。

撮影2008.11.2


西祖谷 五所神社の大杉

2011-01-21 | 徳島県

東祖谷の山を駆け下り県道32号線を祖谷川沿いにどんどん下るとやがてあの「祖谷のかずら橋」、やがて県道45号線に乗り換え大歩危付近へと出る。

この先又山道を縫うように幾つもの集落を越え、最奥の上吾妻橋へと至る、隣村だとは言えその間車で約1時間強、辺境から辺境への移動は大変。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/26/8d4d2203aecb10bf6953145689b58a16.jpg?random=ea83b8465dc3e84a6dc57962a18ca435

正しく天界の村、山上の神域と言った感じで下界のことなど全く別の世界・・・・ここの自然は過酷で厳しいと察するに余りある。

<バスは1日3回も来るけど??>

自然に囲まれて長閑などという言葉はここでは通用しない様に思う。

この地も例にもれず平成3年の台風19号に依って大荒れに荒らされこの杉の大枝も長々と境内に横たわった様で、境内の木々も被害を受けたのであろう??

何処と無く間が抜けてる様にがらんとしている。

しかし、石鳥居、石段参道脇に大きく枝を広げるこの大杉は正しく巨木の何恥じない威厳と歴史の重みを十二分に感じさせる姿で建っている。

主幹の根幹近くは妙に扁平で郷僕ではないのかとも思わせるが、それがこの巨杉の刻んで来た歴史の重みなのだろうと驚嘆せずには居られない。

この辺境の地で約1100年、生を重ねたものだけが持つことを許された神々しさも納得。

この地に建ってこの大杉と対峙すると、目通り11.5m 樹高30mと言われる巨杉は、正しくこの辺境の山岳集落を暖かく見下ろす神そのものだと云う気がしてくる。

自由奔放に伸びる大枝小枝はこの日当たりの良い山の斜面で元気そのものの様に見える。

撮影2008.11.2


東祖谷鉾神社の鉾立の杉

2011-01-18 | 徳島県

国道439号線は高知県から徳島県に越える県境辺りはまさしく酷道、急峻な山肌を縫うように県境の京柱峠までの高知県側は、離合も困難なほどの林道状態。

京柱峠でやっと一息、此処は標高1100mも越える絶景ポイント、ツーリング族?には人気が高いく、此処から先徳島県側は道路も良くなって旧東祖谷山村へと入る。

鉾神社は京柱峠を一気に下った日本三大秘境に数えられる祖谷川沿い、栃之瀬小学校前の分岐点から急峻な山肌をクネクネと5km近くも登った平家落人が隠れ住んだと伝えられる地に鎮座して居る。

平家の末裔とされ、今は移築され一般開放もされている武家屋敷の「喜多家」のすぐ横が鉾神社、この境内奥の鬱蒼とした木立の中に鉾杉が聳えて居て全体を捉えるのはかなり困難です。

神社には大木が生い茂り、地方独特の自然石の石段を登ると神さびた雰囲気の中に樹齢約800年、目通り約11m、樹高約35mと言われる鉾杉が立ち尽くしている。

この地は平家落人にまつわる遺跡や伝説が多く残され、この鉾杉もこの地に入った 「平国盛」が鉾を納めた鉾神社に国盛の手植したのがこの鉾杉だと伝えられ県内一の巨杉として天然記念物に指定されています。

まるで鷲掴みにするかの様に聳え立つ太い主幹、脇から何十本となく突き刺すような枝はこの地の歴史と自然の厳しさを物語る様に猛々し見事ですが、写真には収めづらい場処に立っています。

この杉が健在な限り「平国盛」の名も忘れることなく語り継がれるのだろう・・・。

四国の山深い山中に隠れ住んだという平家落人の悲哀が実感として感じられる土地であり、神社であり、杉の巨木です。

撮影2008.11.2


桃原の「熊野十二所神社」の牡丹杉

2011-01-18 | 高知県

四国巨樹追いの旅は早朝、新浜の宿を出て一気に高速で高知県大豊の「杉の大杉」を訪ね、その足でこの桃原の牡丹杉を訪ねた。

 四国三郎の名を持つ吉野川は四国4県全てをその流域に持つ大河、高知県の山間部を水源域に四国山脈を横断し、あの祖谷のかづら橋で名の知れた大歩危小歩危峡を作り徳島県に出、徳島市内で紀伊水道に注ぐ。

その吉野川の中流域上流に当る高知県大豊町はその深い峡谷と剣山系の急峻な山がせめぎあって集落は山肌に点在し、まさに恐るべし四国山岳集落を形成している。

徳島県側から高知県へつながる四国山地を縫うように走る国道439号線は「酷道与作」として有名ですが一部国道32号線と共用、ちょうど国道32号と酷道439号線が分岐する大豊町役場付近から吉野川の支流である穴内川を下ること約5km、本流の吉野川に合流、其処から本流沿いに峡谷を更に6km程下っていく左手斜面に登るわき道が有り、其処が桃原集落への進入路となっている。

此処から山肌を縫うようにジグザグ急峻な斜面を約5km、ほとほと運転が辛くなった頃桃原の集落が見え、この巨杉の有る「熊野十二所神社」はもう直ぐそこ。

神社は集落脇の山肌を拓いた広い境内を持っていて、歴史の深さを感じさせる神錆びた雰囲気をかもし出している。

「桃原の牡丹杉」 と呼ばれる老杉は境内奥の斜面からまるで見るものを威圧するように見下ろしている。

密集した葉が遠目にはまるで盆栽の松の枝ででも有るようにいくつにも分れ、その一つ一つが牡丹の花に見える事からの命名らしいが、確かに特異な姿で聳えている。

こんな姿の巨杉に出遭うのはこれがはじめて。

伝承に拠ると、往古、都の巫女17人が捕らえられ土佐に流されたが、そのうちの幾人かは阿波から国境の京柱峠を越えこの地に到達し杉の木を植えたとされていて、それが現代まで残った一本だといわれている。 

樹齢1200年、樹高31m、目通り幹周10.6m 、何度と無く天災を潜り抜けたであろう老杉はその根元の老骨さをさらけ出しているがまだその牡丹の枝葉健在です。

見事な巨体、特異な樹姿葉こんな人里離れた山奥だから保たれているのでは無かろうか???

またこの神社では「百手の的打ち」神事が今に伝えられ大豊町の無形文化財に指定されている。

畿内、大和や近江では良く見かける的打ち神事と同じだろうが???

撮影2008.11.2


 新浜市一宮神社(いっくじんじゃ)の大楠群

2011-01-16 | 愛媛県

剣の山を下ってその日の宿泊地に決めていた新居浜市までひとっ走り・・・・・・。

このままホテルに入るには少し時間の余裕が在ったので近くの一宮神社に寄る事にした。

新居浜市の学校や官庁が建ち並ぶ中心街に在って、その参道を途中で切り裂いて県道13号線が走っている。

<ちょっと他所では見かけない形の随身門>

それでも長い参道の脇には大きな楠が並びちょっと特異な楼門の奥には大きい楠の杜を持った広い境内、奥まった一宮神社(いっくじんじゃ)の拝殿横に「一番楠」と呼ばれる国天の巨楠が特別な存在感で周囲を威圧するかの様に聳えている。

この杜や参道の神域には目通り3m以上の楠が29本をも有るが、中でも一番楠と呼ばれるこの巨楠は樹齢約1000年、目通り9.4m、樹高29m。

この大楠にはその昔、狸が住み着いていて、とて も利口で人の助けをしたということから祭神としてこの楠の根元に祀られている。

小女郎たぬきがこの一番楠に住んでいたとされるため、その狸を祭神とする祠が楠の根元に祀られている。

曰く、「小女郎大明神」として根元には小祠も有ってこの日も、この祠の前で拝礼をする老婦人を見かけた。

現在に至るまでこの大楠は多くの信仰を集めてまだまだ若々しい力を秘めて元気そのもの・・・

二番楠と呼ばれる大楠は拝殿を挟んで一番楠の反対側

 

二番楠とは言えこの巨大さ、目通り7.1m、樹高27mまだまだ若々しく全く衰えは見えない。

撮影2008.11.1


地蔵森のカゴノキ

2011-01-14 | 徳島県

主幹は殆朽ち果て脇より立ち上る二本が世代交代を果たしている。

桑平からの帰り道、ちょうど旧村役場との中間辺り、河内地区にさしかかり貞光川が大きく迂回、国道も大きく右にカーブを切る辺りに車を寄せるとそれと解る案内板も建っている。

右側斜面に山道が有りそれをよじ登るとこのカゴノキを主とする木々の生い茂った場所に出くわす。

なんとも早、ものすごいカゴノキです。

すっかり朽ち果てている主幹の根元には延命地蔵、庚申塔、常夜灯などの石造物が置かれ、この木は間違いなく神の宿る樹として信仰されて来たことが窺い知れる。

天明の飢饉(1787年頃)当時、この地でも多くの犠牲者が出たため、その犠牲者の冥福を祈り、飢餓が終わることを願って石仏を建てたと伝えられ「地蔵森のカゴノキ」と呼び親しまれている。

幹周り、ひっくるめて約9m、樹齢は不明ですが天明の頃、既にカゴノキが大樹で有ったとしたなら500年以上には成るのじゃ無いだろうか???

根元の石仏さんに聞いてみれば解るかも・・・・。

しかし一度後ろに回ると朽ち果てた主幹は哀れにもこの姿。

撮影2008.11.1


桑平のトチノキ 桑平堂の大杉

2011-01-13 | 徳島県

四国の山間部を走っていると毎回の事ながら本当に驚く・・・・・・こんな山深い奥地に道路も車もない時代によくも集落がつくれたものだと・・・・、まさに恐るべし四国人、関西の生ぬるい環境に育った僕なんかにはこんな所に人が何代にも渡って生活し続けてきたことが俄には信じがたい。

ここは前回紹介の赤羽根太師のある麓、一宇村の旧役場から国道438号線で剱山を目がけてひた走る事約40分足らず、国道と言えども四国の山岳国道のそれは酷道と称され、急カーブと急勾配の連続。

急勾配と急カーブがますます険しさを増すあたりの山肌にポツポツと四国特有の山岳集落が突然姿を現すここが一宇村の最南部の集落桑平。

しばらく走って大きくUターンする程の急カーブを過ぎると眼下に2~3軒の民家が見え進入路が有り、大きな杉木立を望むことが出来る

進入路の最奥部は少しひらけて小さな桑平観音堂、その傍らには天を突き刺すように大杉が正しく聳えている。

推定樹齢約500年、目通り約8m、樹高は何と45m、こんな雪深い山中であるにも関わらず良くのびたもんだ。

この大杉横の石段を少し下ると桑平のトチノキ、途中から振り向き見上げる大杉の姿が格別。

トチノキは「トチの木大師」の祠の傍らにあって 

里道脇の細い谷川越しの斜面にどかっと腰を据えている。

この巨大さはどうだと言わんばかり、樹勢は衰えを知らず大きな損傷も見当たらない。

実に端正伸び伸び、あるがままに育ったと云うか、自然そのままのおおらかさ・・

推定樹齢500年 、目通り8.3m、樹高27m、徳島県天然記念物指定・・・・・・・旧剣山登山道入り口にあたる桑平集落の歴史と共に、この2本の巨木は正しく集落と運命共同体。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/48/852e5cd8f9c83962f187ad89e5bfd34c.jpg?random=531ca43bb0241b1b6431fa207e5c7bda

この先も集落を見据えながら元気に生き抜いてくれるに違いない。

2008.11.1


赤羽根太師のエノキ

2011-01-12 | 徳島県

吉野川市を出て吉野川沿いの国道192号線を西進、つるぎ町貞光の「うだつ」の街並みを少し車の中から眺めながら国道438号線を剣山系に分け入るように南下すること約30分強、つるぎ町一宇の旧村役場辺りに到着。

ここつるぎ町一宇は剣山系の山深い過疎の山里、一宇地区には巨樹が数多く有るため「巨樹王国」をうたい文句に地域振興を図ろうとして行動、その目玉的存在になっているのがこの「赤羽根大師のエノキ」です。

<山道から見える対岸山手の山上集落、向こうから見ればこちらも同じ様な景色なのかも??>

現在はつるぎ町一宇支所となった旧村役場を越え道なりに進めば左手に橋があり表示板、表示に従い急峻な山道を駆け登りつめるとやがて開けた大きなな駐車場と真新しいトイレがあって、この巨樹に寄せる町の力の入れようが解る。

平成10年に調査が行われ、それまではムクノキと思われていたこのエノキの巨木が日本一と認定されたようで、当時付近住民は困惑の色を隠せなかったようです。

赤羽根大師堂は管理不十分で廃堂となった氏堂の変わりにこのエノキの傍に建てられた様ですが平成17年10月に建てかえられエノキは現在有るような姿に成っているようです。

山肌の緩斜面に力一杯根を下ろして入る姿はやはり感動もの、気の遠くなる800年という樹齢を生き抜いてきたものだけが持つ力強さが主幹に脈打っている。

この様な人里離れた山奥の小さなお堂の守り神として人知れずたちつくしてきたこのエノキ・・・。

一躍有名になってしまって、訪れる人も多くなってちょっと迷惑してるかも??

樹高18m、目通り8.7m、平成16年国の天然物に指定されている。

撮影2008.11.1


壇の大楠

2011-01-11 | 徳島県

つい最近になってNET記事を見て驚いた・・・・・・。

徳島新聞によれば、2009年4月半ば頃から樹勢が急激に衰弱し、大半の葉が枯れ落ちた・・・・・壇の大クス回復の兆し 吉野川市、栄養剤投与など奏功<2009/6/28>とある。

僕がこの楠と出遭ったのは2008年11月、まだ写真の通り元気そのもの、樹冠に緑一杯の葉を茂らせて弱った感じなど微塵も見出せなかった。

壇の大楠は吉野川を挟んで南側、その名も吉野川市鴨島町背後の山裾、森藤壇集落にある。

此処も判りにくい所でしたが、ナビが連れて行ってくれたのはちょうど大楠の下に当る辺り、見かけた子供連れ婦人に訪ねると神社の横を上がったところだと・・・

この「壇の大楠」をお手植えしたと言う平康頼(たいらのやすより)を祀る康頼神社の細い脇道を登り、比較的広い農道で振り返ると巨大な樹冠が聳えているのが見える

目の辺りにする壇の大楠はまさしく巨大でど迫力・・・・その上やっぱり威風堂々、樹から出る一種オーラのようなものを感じる。

主幹の幹周りは10.3m、ぐるっと一周りして見上げる大枝はそれだけでも主幹として通用しそうな程・・・その重量感たるや見事と言わざるを得ない。

そしてその大枝を支える主幹はどっしり大地を捕まえている。

推定樹齢約950年、高さ約35m・・・・

しかしこれほど逞しく見えた楠がこの半年後には大部分の葉を落としたとは俄かには信じ難い。

何ごとが有っても動じないような力強さも・・

拠る年波には抗うことが難しかったのか??

しかし栄養剤の点滴で少しは勢いを持ち直してるとか???

あの新聞記事から1年半・・・・今はどんな姿でいるのか??ちょっと気にかかる。

撮影2008.11.1


乳保神社の大イチョウ

2011-01-10 | 徳島県

乳保神社 というこの聴き慣れない名前の神社・・・・?

可笑しいなあと思って調べて見るとやっぱり江戸時代に改称されていたとか。

勿論乳イチョウと呼ばれているこの老イチョウを神格化しての改称だったのだろう??ちょうど改称された寛政年間には落雷に寄る火災、戦火に拠る出火のおりには自ら噴出した水で火を消し止めたと伝えられ、それがこのイチョウの神格化と共に「乳保神社」へ改称の弾みに成ったのだろう???。

鳥屋の大楠とは目と鼻の先、県道を挟んで1kmも離れておらず、どちらからもそれと確認できるほどです。

天を覆うばかりに青葉を茂らせた大イチョウはその繁茂ぶりで遠目にも近くに寄ってもその樹様がイマイチ判りづらい。

余りにも良く伸びた枝に葉が茂り過ぎ、主幹の様子や概要が掴みにくい。

大銀杏は拝殿の奥、小さな本殿脇の窮屈な場所に在って、周りを頑丈な高いフェンスで取囲まれいかにも窮屈そうな上、主幹などは写真にも収められないお粗末さ。

いかに保護の為とは言え,ちょっとやりすぎじゃない??これでは写真にもならない。

確かに巨大で威厳に満ちてることは間違いないのだが、乳イチョウの何恥じない気根も生い茂る緑が邪魔をして良く判らず終い

主幹は度重なる落雷や炎焼に拠る頂部の損失により地上4m付近から4本に分岐、ヒコバエが大きく育ったものとが合木、幹廻り17.2mと言う巨大さ

推定樹齢900年、国の天然記念物に指定されている。

NETの写真などを見ているとやっぱり裸木のイチョウの方が迫力有る写真に成るのかなあと感じることしきり・・・。

しかし青葉の一杯茂ったこの老イチョウは、まだまだ元気だなあと感じれる写真には成ったとおもう。

 

撮影2008.11.1


鳥屋の大楠

2011-01-09 | 徳島県

こんな抜け殻のようになっても良く生きてるもんだ・・・ 

石井町から吉野川を挟んで対面する上板町もまた肥沃な農地の広がる長閑な田舎町を思わせる景色が広がるところです。

上板町の西端に近い畑地が広がる鳥屋付近は民家が群をなさず点在してるが、そんな小さな民家の集まりの中、この大楠の聳えているのが遠くからでも見える。

この地は瀬部椿神社跡地で現在小さな祠とこの大楠だけを残して民家の庭先のようなところにたち尽くしている。

主幹の根元はすっかり抜け殻、子供なら10人以上も入ってままごとでも出来そうな空間が広がる。

天井も高く一昔前なら格好の遊び場だったに違わない。

内側は炭化していて洞の中で火災でも起こしたのだろうか??

洞が広がる少し上の大枝は2004年6月、徳島県を直撃した風6号の強風にもぎ取られたとか・・・

大楠を眺めて居るとおじいさんが出てきて台風で捥ぎ取られた大枝のことを思い出すように話してくれた。

此処に有るのが台風で大枝を失う以前の雄姿。

確かに現在の樹姿より一周りも二周りも大きく聳えている。

それでもこの大楠はそんなことなどものとせずに残った枝一杯に青葉をつけている。

木の裏に廻れば全く表の洞など何処ふく風・・・・・。

樹齢約700年、幹周り11.6m、樹高25m、徳島県指定天然記念物・・・・・・まさに驚くべき生命力です。

撮影2008.11.1


矢神のイチョウ

2011-01-08 | 徳島県

前回紹介の天神の公孫樹から直ぐそこ、 距離にして1kmばかり、ほんの隣村と云った感じの処にも公孫樹の巨木。

この辺りは那須与一が屋島での軍功によって与えられた領地で近くには那須与一神社もあってそれに纏わる話も多い。

この公孫樹の巨木は那須与一が紀州熊野より勧請したという新宮本宮両神社の真新しい神殿脇にどかっと腰を据えている。

曰く、矢神の公孫樹・・・、これも那須与一が阿讃山脈の大山寺山から射た矢がこのイチョウに当たったという伝説が伝えられていて神木とされています。

推定樹齢900年以上、主幹の上部はすでに欠損小枝が大量に繁茂して居て、まるで箒を逆さまにしたようです。

樹姿は老齢を感じさせない程若々しく見えて巨樹ファンにとっては余り興味を惹かないのは事実。

僕がここを訪れたのはまだまだ元気な青葉を目一杯に付けてる頃でふと裸木の姿はどんなだろうと思ったりした。

それでも目通り約10m、樹高約30mと圧巻、徳島県の天然記念物に指定されている。

樹勢は写真でも解る様に旺盛極まりなく推定樹齢900年以上がどうも信ぴょう性に欠けないでもない。

脇に有った掲示板です。

ダダ広い境内は公園の様に整備され、楠の大樹が多く

そのうちの1本は見事な巨樹ぶり。

これが四国でなかったら、この楠だけでも巨樹として充分に紹介出来る威容ぶりです。

名無しの権兵衛の楠の木。

撮影2007.11.8