--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
(本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)
<この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
--目次は第2回目に掲載--
------(P.91)---(以下、本文)-------
4 創価学会・公明党七つの大罪
◆ 公明党は創価学会の罪の“落とし子”である 〈第一、政教混淆、政教混濁の罪〉
◆ アナクロニズムの罪〈第二〉
◆ 危険をはらむ盲目的服従
◆ 他人を「ノロウ」ものの罪〈第三〉
◆ はなはだしい人間性への冒涜
◆ 人を惑わす八方美人の罪〈第四〉
◆ 著るしい虚妄と方便
◆ 体質は保守--宗教は元来保守的てある
◆ 思考停止、愚民化誘導の罪〈第五〉
◆ いつもお祭リ騒ぎの“演出”と“施策”
◆ バカバカしいほどの「虚業」繁昌にすぐるの罪〈第六〉
◆ 罷リ通る“ゴリ押し議員”
◆ 強きをたすけ、弱きをくじくの罪〈第七〉 (~以上、前掲 P.157~)
◆ キャスティング・ポートを握らんがための右顧左ベン
第一は、東支持でこりたことがあげられる。大量の選挙違反者をだした東派を支持したことに対して、「政界浄化」を看板としていた公明党は、はなはだ苦しい言い訳を繰り返さなければならなかった。東派は一九五九年にも悪質な選挙違反者をだしているのだから、そういう弁解はなり立たなくなっていたといってもよい。さらに東を支持しておきながら東都政を批判するのは、おかしいという論議もあったし、批判をさし控えれば、公明党は口どめでもされているのかという批判をうけることにもなった。いずれにしても公明党は、都議会で散々な目にあったわけである。
第二は、会員内部に保守派もいれば革新派もいて、東支持は革新派の不満をよび起こした。
支持しても是々非々の立場でいくのだとかなんとかいって、この不満を抑えたけれども、自社両党のいずれの候補を支持しても学会内には不満が必ず起こってくるという気配があったからである。
第三には、自社両党の働きかけをあげることができるであろう。自民党は、公明党が社会党と共同推薦することは絶対にないとふんでいた。都議会では社会党と公明党は宿敵の関係にある。ことに水道料金値上げ問題、その折の乱闘事件で、当時都議であった竹入義勝委員長は社会党議員によって手痛い目にあっているのである。それらのことを自民党はちゃんと知っていた。では、何故に自民党は公明党に働きかけたのか。もちろん自民党と公明党との共同推薦にこぎつけることができれば、文句はない。かりにそれができないとしても公明党が中間的立場をとらず、むしろ独自候浦を立てることを願ったからである。
自民党にとって太田薫は強敵である。彼をおろしたいのである。太田はウカツにも「公明党の支持がなければ……」ということを口にした。バカ正直な男である。その言葉をとらえ、公明党に独自候補を立てさせ、太田をひきずりおろすことに自民党の筋書が組み立てられていたということがいえるであろう。
竹人は委員長になるすぐ前の年(一九六六年)の二月上旬に、自民党最右翼の巨頭である賀尾興宣と会っている。何を話したかは不明であるが、公明党への働きかけは賀屋の線によると推測されている。右寄り的体質があるのかもしれない。竹入ははなはだ自民党好きである。
社会党は社会党で共同推薦を期待していた。成田書記長(現委員長)は「共同推薦がだめというなら、独自候補を立ててくれ」と依頼した。前回のように自民党と公明党が組まれては、戦わずして敗北は明瞭であったため、そういう態度をとらざるをえなかったのである。創価学会・公明党は各党にねらわれ、こうした取り引きにたけていない公明党は、まさにモミクシャにされた観があった。
ところで、選挙から話しはそれるが、これまでのところを見るとモミクシャにされて落ちついたところは、おおむね自民党との妥協であった。都議会ではしばしば自民党と公明党の妥協工作によって、法案が通過してきたといっても過言ではない。最近の選挙において都議会第三党に転落した社会党は、公明党にふりまわされ、与党としての権威をはなはだしく失墜しているが、公明党はこのチャンスを逃さず、あくまでもキャスティング・ボートを握りつづけようとしている。
一九六七年の都知事選挙でこそ独自侯補を立てたが、その他ではさなきだに強い保守独裁を助け、野党勢力を分散し、いがみ合う革新系三党の力をそれなりにくじきつづけている。こうした公明党の存在は、野党といいながら、態度はきわめて暖昧である。
もし、公明党が第三の政党として独自性をだすことに意義をみいだすとしても、このような傾向自体のもつ問題を決して軽んじてはならないといわなければなるまい。
◆ 学会と公明党とを切断するべし
以上のような創価学会・公明党七つの大罪の大半は、公明党という政党が国民政党と口ではいいながら、事実上は、創価学会という特定信仰集団の特定利益のために存在する政党であることによって起こってきている、と判定してよいであろう。
創価学会の会員が増加してゆくことによって、公明党という政治勢力が自動的に伸張してゆくしかけになっており、そういうやり方自体が政治的にみて邪道であるとすれば、両者の関係をここではっきりと切断することが望ましいといわなければならない。
しかし、創価学会と公明党とがバラバラに切り離されたならば、公明党という政党の中味はそれこそ空っぽになるほかないのである。創価学会関係者以外の国民各層の政治意識に訴えて、国民政党性を主張するには、公明党はまったくといってよいほど政党としての本来的条件を欠いているからである。もしこのままで、創価学会と公明党とがシャム双生児のような形で発展してゆくとすれば、新らしい型のファシズムとして変貌してゆくかどうかの判断は別としても、日本における民主政治のルールにとって、百害あって一利なきものとなろう。それはまず間違いない見通しといってよいように思われる。
そして、シャム双生児の一方が死ぬと他方も死なざるをえないように、いつかは両者ともに腐臭紛々たるなかに共倒れする可能性もでてくることになろう。カイゼルのものはカイゼルへ、宗教勢力は本来の宗教の使命に立ちかえることこそが、創価学会の本筋というべきであろう。私が、政党としての公明党の解散を強く命じ、公明政治連盟的組織にかえれという所以もここにある。
地方選や参院選に信者代表を送って、宗教的立場からそれなりの政治に対する自己主張を展開するぐらいのところが、宗教勢力による政治進出のマキシマム・リミットだということにほかならない。多数勢力を衆議院で占め、政権を担当しない限り、王仏冥合の理念が実現できないというなら、それはもはや人間の内面を担当する宗教の分野には属さないといわなければならない。それならば宗教であるという看板をおろすべきであろう。はっきりと、そのいずれかにする必要がある。
創価学会そのものを解散して、公明党なる政治団体の教宣機関になるのなら、話はまた別である。それでは創価学会と公明党の関係においては主客転倒ということになろう。むしろ創価学会はその本来の宗教活動を通じて、間接的に政治粛正に専念し、そのことを通じて、そのめざす王仏冥合的な政治の実現にアプローチする道を選ぶべきではないだろうか。
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