創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

乱脈経理-7

2014-01-16 08:56:39 | Weblog
○〝乱脈経理…創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント、矢野絢也…講談社…2011/10刊〟より

第二章 ブラックボックスだらけの学会会計
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◆学会の経理
 料調の調査が入った聖教新聞社の建物は、東京.新宿区信濃町の学会本部から歩いて五分ほ
どのところにある。
 創価学会は多数の外郭団体•関連営利企業を抱えており、法人として別人格のものが多い。
聖教新聞社もその名称から、独立した株式会社のように思われがちだが、あくまでも創価学会
という宗教法人の機関紙を発行する本部機構の一部門である。つまり宗教法人創価学会の直営
組織なのである。
 だが学会の一部門とはいえ、その事業規模は日本の有名企業に引けを取らない。聖教新聞社
の収入の中心は公称五五○万部とされる新聞の購読料。それだけで年間一〇〇○億円以上の売
り上げがある。この他、銀行やゼネコンなど日本の大手企業が常連の広告料や、聖教新聞社が
出版する本などの売り上げもある。
 創価学会の事業は収益事業、公益事業、墓苑事業の三つがあり、それに伴い会計も「収益事
業会計」、「公益事業会計」、「墓苑事業会計」の三つに分かれる。
 聖教新聞の事業は課税対象の収益事業会計に計上されている。収益事業とは法人税法施行令
に規定された、物品販売や金銭貸付、不動産販売、運送、食庫、出版業など、三四項目の事業
を指し、宗教法人がこれらの事業を行う場合は法人税が課される。ただし営利を目的とした事
業ではないとして、税率は、企業の三七・五パーセントに対し二七パーセントの軽減税率が適
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用されてきた(現在は企業三○パーセントに対し二○パーセント)。
 一方、学会における公益事業の収入は「財務」や「広布基金」と呼ばれる学会員からの寄付
金で、これが学会の最大の収入源になっている。私が八尋氏から聞いたところによると、料調
の税務調査が人る前年の一九八九年、学会には、毎年恒例の「財務」だけで一四○○億円の収
入があったとのことだった。会員からの寄付を中心とした公益事業会計は非課税で、誰がいく
ら寄付をしたかはむろんのこと、寄付金収入の総額や、それを何に使ったかも、いっさい税務
署に詮索されることなく自由に使える。それ以前の問題として、それら経理内容は世間への公
開もしないし、会員にもいっさい報告されないのである。
 もう一つの「墓苑事業会計」は学会による墓苑販売事業に関わる会計だが、これについては
後述する。
 創価学会の収益事業の中心は聖教新聞社の出版事業である。一九八九年の学会の収益事業の
申告所得は一○○億円あった。この申告所得額は同年の明治製菓や日本交通公社の申告所得を
凌ぐ規模である。また二〇〇三年の収益事業の申告所得一八一億円もイトーヨー力堂(一八六
億円)やKDDI(一八九億円)と肩を並べている。申告所得とは平たく言えば儲け高のこと。
 聖教新聞社といぅ学会本部の一部門の事業だけで、学会は有名企業並みの儲けを出しており、
これに軽減税率が適用されているのだ。
 聖教新聞社に足を踏み入れた料調の調査官四人は、学会側と交渉し、聖教新聞社一階に調査
のための部屋を一室確保した。だが、聖教新聞社内を歩き回ることは拒否され、必要な資料が
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あれば学会側に頼んで部屋に持ってきてもらうしかなかった。一室に閉じ込められ、手足を縛
られたも同然だった。八尋氏の言葉を借りれば「調査官の対応はこれ以上ないほど丁重だっ
た」そうだが、これは表向きのこと。後で国税庁幹部に聞いたところ「調査官たちのはらわた
は煮えくりかえっていた」という。
 料調が学会本部ではなく聖教新聞社から調査に取り掛かったのは彼ら一流の作戦だった。い
きなり学会本部の調査を始めると、学会側は公益事業会計が非課税になっていることを盾に激
しく抵抗したはずだ。公明党も陰に陽に働きかけてくる可能性があった。しかし聖教新聞社の
事業は税金の申告義務があり、料調が税務調査を要求すれば学会が拒むことは難しい。そこで
料調は、聖教新聞社を足がかりに徐々に網を広げ、学会本部という本丸に迫る作戦を考えたの
だ。
 料調が最初に手がけたのは聖教新聞社の幹部と職員全員の源泉徴収のチエックだった。源泉
徴収は給与・報酬を支払うときに企業・団体などが所得税などを差し引いて国などに納付する
制度で、企業•団体には全職員の源泉徴収の記録が保管されている。源泉徴収がキチンと行わ
れているかどうかを確認したいと言われれば学会側に断る理由はない。
 源泉徴収を記録したものが源泉徴収票だが、それには聖教新聞社の職員や幹部の住所、氏
名、給与、賞与などの支払額と源泉徴収税額の他、役職名も記されており、これを見れば聖教
新聞社の組織の全体像をつかむことが可能だ。
 後に料調は聖教新聞社の職員•幹部の源泉徴収票に続き、学会本部全体の職員•幹部の源泉
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徴収票の提出を要求してくるのだが、その狙いは学会本部の人員構成、人件費など経費の大枠
を把握し、学会本部の経理に踏み込む足がかりにするためだった。「マルサより怖い」という
定評どおり、さすがに料調の手口は周到でしたたかだった。
◆「矢野さん、頼む」
 税務調査が始まった六月二六日、大蔵省人事会議で新事務次官などの人事が決定した。この
日の人事では平澤事務次官と水野国税庁長官の勇退が決定。後任の事務次官には小粥正巳主計
局長が、国税庁長官には角谷正彦証券局長がそれぞれ昇格することが決まった。また主計局長
には保田博氏が就任し、主税局長は尾崎護氏が留任した。
 新しい大蔵省•国税庁首脳陣はいずれも私と旧知の間柄で、彼らと長い間の交流があるのは
学会•公明党では私だけだった。いよいよ私は国税工作の矢面に立たされることになったのだ
が、頼まれる大蔵、国税の幹部は、間違いなく私以上に迷惑千万だったはずだ。
 学会が通常のルールに従って粛々と協力すれば税務調査は短期間に終わる。ところが実際
は、学会があれこれ理由をつけて調査を妨害し、調査はいっこうにはかどらない。現場には当
然、不満がたまるので、国税の上層部が現場をなだめなければならない。しかも学会を怒らせ
たら公明党を動かして国会で法案審議の妨害をやりかねない。国税庁にとって税務調查に抵抗
する学会は無理難題を押し付けてくる厄介極まりない相手だったはずだ。
 大蔵省高官は私が交渉に関わることを知ると、私のことを心配しながら「放っておいたほう
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が得策ですよ。学会のためにもなる」と力説した。いまから考えると、高官たちの忠告は至極
もっともな話だった。
 私は国会議員である。国会議員は国民の代表として、税の徴収や分配の大本となる法律を定
める重要な立場にある。その国会議員が課税問題を巡り国税当局に脱税交渉まがいの裹工作を
するなどということは、国の税制度の根幹を揺るがしかねない犯罪的な行為であり、けっして
許されることではない。
 私はそれを承知で、信心の名の下、池田氏を守るために裏工作に携わってしまった。私は自
分のやっていることに煩悶した。いまでも当時のことを思い出すたびに苦い思いが体の中をせ
り上がってくる。だがこのときは池田氏にお世話になったという気持ちが私の背中を押した。
私は三五歳の若輩で衆議院議員に当選し公明党の書記長に就任した。以来二○年もの長きにわ
たって書記長を務め、委員長も三年やった。池田氏に引き立てていただいたお蔭である。私
は、ひとかたならぬご恩を受けてきた池田氏への最後のご奉公のつもりで国税庁との裏交渉を
引き受けてしまったのだ。
 大蔵省首脳人事が決まったこの日、私は公明党本部で八尋氏の要請で緊急協議をした。
「完全な準査察であり国税当局の態度は硬化している。聖教新聞がらみの調査が終わり次第、
公益会計と収益会計の決算害と伝票を出せと要求している。対応はこれ以上ないぐらい丁重だ
が、学会のすべての経理を出せと言っているに等しい」
 八尋氏は危機感を募らせながら、東京国税局の狙いをこう推察した。
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「第一が学会の経理資料の入手、第二は何か特定の夕ーゲットをもって、その裏付けをやると
いうことではないか。どうも二番目のょうな気がする。というのも四○人もいる学会の責任役
員の中から前経理局長の名前を指して〝いまの役職は何か〟と聞いてきたからだ。学会の役職
などの内情をかなり知っている。夕レコミがあるとしか思えない」
 中西氏や江戸川税務署の件は「不思議なくらい出なかった」という。
 国税庁は、宗教法人の会計決算書の提出について一九八一年に、収益事業会計だけでなく公
益事業会計の損益計算書または収支計算書の作成と提出を宗教法人に求める通達を出した。し
かし、この通達には強制力がなく事実上、有名無実だった。学会も、国税庁に公益事業会計の
関連資料を提出したことはなかった。
 なお、その後の一九九五年の宗教法人法の改正により、すべての宗教法人に対し、「役員名
簿」と「財産目録」の提出(都道府県など所轄庁向け)が義務付けられ、年間収入が八○○○
万円を超えている宗教法人は収支計算書の提出も義務付けられている。ただし、貸借対照表は
「作成している場合のみ」提出することになっていて作成していなければ提出義務はない。
 ところがこのときの税務調査では、料調の調査官が公益事業会計の決算書類などを出せと言
ってきた。もちろん、学会にとって初めての経験である。国税当局の本気がうかがえた。
「森田理事長は〝自分の時代にこういうことになり貴任を感じている〟と言っていたが、秋谷
氏は強硬だ。私も決算書などの提出を拒否するつもりだが、もし特別な狙いがあるとしたら強
制調査もあり得る。国税側は続参院議員には丁重だったが本当の狙いはわからない……」
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 八尋氏が不安気に続けた。
「料調は七月五日にまた来ると言っていた。その後、夏休みを挟んで九月ごろには伝票を調べ
たいとも言ってきた。今年一杯はかかりそうだ。一七年間も調査がなく、しかも初めて東京国
税局が来た。学会は巨大な組織だし、金額も大きいから税務綢査にくるのは当然とも言えるが
……。秋谷会長に相談したが矢野さんに頼むしかないということだった」
「池田先生を守るためだ。助けてくれ」と頼む八尋氏に、私は「経理処理が正当であれば、池
田先生に迷惑はかからないのでは」と反問した。八尋氏は「それがそうでないから助けてくれ
と言っている」と繰り返した。
 また「矢野さんに頼む」か。私は心の中で舌打ちしながら、大蔵省・国税庁の首脳と歓送迎
会をする予定になっていたことを思い出し、「たまたま来週、大蔵•国税首脳と私で新旧歓送
迎会をやることになっているので、そこで少し状況を聞いてみるか」と何気なく話した。する
と八尋氏は身を乗り出して「ぜひそこへ私を連れて行ってほしい」と何度も頼み込んだ。
◆旨みの大きい墓苑事業
 私は戸惑った。八尋氏を同行させると大蔵省•国税庁幹部が反発するのは目に見えていた。
税務調査の対象団体の当事者と、その団体の番犬とも言うべき国会議員同席のうえで会うこと
は彼らにとって受け入れがたいはずだ。もしそのことが外に漏れたりすると、とんでもないこ
とになるのは明らかだった。傍目には、八尋氏を私が同行させることは政治家による税務調査
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への圧力以外の何物でもないはずだ。
 だが一方で私は、八尋氏に同行してもらったほうがいいかもしれないとも考えた。私には学
会の経理はわからないし税法も詳しくない。専門用語や概念を咀嚼できず、誤った理解をして
国税庁と学会双方に迷惑をかける恐れもあった。また交渉の際、国税庁に学会の特殊な体質を
理解してもらうのは容易でないと予想された。よい話は喜んで聞くが、都合の悪い話には耳栓
をして、何かあると逆恨みするのが学会の体質で、何事も池田氏の判断次第で決まるので道理
が通用しないことも往々にしてある。
 こうした学会の体質は外部の人にはなかなか理解できない。たとえ国税庁首脳に学会の事情
を説明し、国税庁案ではまとまらないとの見通しを私が伝えても、学会のこういう体質がわか
らない人には「国税庁を妥協させようとして学会内部の反発や抵抗を実態以上に大袈裟に伝え
て、脅しているだけではないのか」と曲解される恐れが十分にあった。それならいっそのこ
と、国税庁首脳のストレートな考えを八尋氏ら学会首脳が直接聞いたほうが調整がスムーズに
進むように思えた。何よりも学会内部の問題は学会で処理してほしかった。小ズルイと言われ
ればそれまでだが、後のことを考えると八尋氏と国税との間にパイプがあるほうがよいという
判断もあった。私は迷った挙げ句、八尋氏の同行を承諾した。
 八尋氏は大喜びだったが、すぐに不安気な顔に戻り、こうつぶやいた。
「学会では墓苑事業会計は公益会計になっているが、他宗教では営業(収益)会計扱いにして
いる。これは今後、問題になるだろうなあ……」
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 学会の墓苑事業会計をこれから料調が突いてくるだろうと八尋氏は予想したのだが、これは
私も同意見だった。
 先に創価学会の会計には三つあり、その一つが墓苑事業会計だと書いたが、墓苑事業の中に
は、墓石販売など課税対象になるものが含まれていた。ところが、当時、学会は墓苑事業すベ
てを非課税の公益事業扱いにして、墓石販売などについてもいっさい税金を支払ってこなかっ
た。
 普通、人が亡くなると、遺族は墓地用の土地を宗教法人などから借り、その対価として永代
使用料を払う。これは税法上「墳墓地の貸付」として非課税になっている。一方、墓石は遺族
が石屋から買い、石屋は墓石を売った収益分の税金を申告納税するのが一般的だ。では学会の
墓苑はどうなっているかというと、非課税の永代使用料(土地の貸付代)に、墓石など本来な
ら課税対象となるものを一緒くたにして販売している。
 墓石と地中に埋まったカロート(納骨室)は永代使用料とはまったく別物で、本来なら収益
事業扱いにして税金を納める義務がある。八尋氏が「他宗教では営業会計扱いにしている」と
発言しているょうに、学会側は、これまで税務調査が入らなかったのをいいことに、不正を承
知で税金を払ってこなかったのだ。
 学会は一九七七年の戸田記念墓地公園(北海道厚田村〔現石狩市〕・四万五〇○〇基)を第一号
に、税務調査時点で全国に六ヵ所の巨大墓苑を開発、墓の数は合計二四万基に達していた。墓
苑の造成費用は主に学会員の財務(寄付金)で賄い、墓が完成すると永代使用料と墓石代など
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をセットで一基約四○万円から九〇万円ほどで学会員に販売してきた。学会は自腹を切らず丸
儲けである。しかも池田氏が「墓を多く持つほど偉い」と墓地購入を推奨したため、一世帯で
いくつもの墓を購入する学会員も珍しくなく、かくいう矢野家も全国にいくつか墓を持ってい
て、中には遠くて一度も足を運んだことのない墓もある。
 まさに墓苑は学会にとって〝金のなる木〟だ。料調がこの問題を黙って見過ごすはずがなか
った。
 六月二九日、私は国税庁の水野長官と電話で話した。水野氏はこの日を最後に角谷氏と交替
することになっていた。
 学会の税務調査という厄介な問題の引き継ぎを、長官としての最後の仕事にしてしまい、私
は水野氏に対して済まない気持ちで一杯だった。「最後の最後まで申し訳ない」と、私は心か
ら謝った。
 水野氏が東京国税局に聞いてくれたところにょると、今回は「公益会計全部の調査のお願い
はしていない。出してほしいのは公益会計の収支計算書だけ。ただし墓苑会計については、か
なり関心があるようだ」ということだった。
 水野氏が公益事業会計資料の提出に言及したため、私は八一年の国税庁通達を引き合いに出
して「通達は全面的に資料を提出しろということではないはず」と質したが、水野氏は「通達
は、必要があれば公益会計全体の資料の提出を求めるというのが基本的立場で、それは変わっ
ていない。しかし、いまは部分的に協力してほしいとお願いしている」と、やんわりかわした。
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────────────────◇────────────(引用ここまで、つづく)
今回のコメントは〝仏のじっちゃん〟です。元バリ活さんでもありました。
じっちゃん…「〝バリ活〟貶すな来た道ダ!!〝非活〟誹るな、行く道ダ!!‥‥」
‥‥ん?…まだ、あるんですか?‥‥
じっちゃん…「バカは死んでも直らない!!‥池田の勝ち!!‥」
‥‥ありがとうございました。
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乱脈経理-6

2014-01-14 09:56:26 | Weblog
○〝乱脈経理…創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント、矢野絢也…講談社…2011/10刊〟より
◆国税庁長官への電話
 年が明け、捨て金庫発見から七ヵ月後の一九九○年二月二日、八尋副会長から急ぎの電話が
あった。八尋氏はかなりあわてていた。
「国税庁の江戸川税務署の職員が中西治雄の自宅に突然やって来た。一時問ほど公式的な話を
して帰ったそうだ。中西は気の弱い点があり、二、三、心配なことがある。驚察より国税のほ
うがはるかに怖い」
 私は事情を聞くために勇気を出して、唐突ながら水野勝国税庁長官に電話をした。水野氏は
「江戸川税務署? 四谷税務署じゃないのか」と怪訝そうに尋ねた。四谷税務署は学会本部を
管轄する税務署だ。私が江戸川税務署で間違いないと伝えると、水野氏はかなり渋い口調で、
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「実は四谷税務署に学会に関していろいろと投書があった。一時、四谷署に〝学会を税務調査
しょう〟という空気があり、私に相談があった。私は慎重にと抑えている。江戸川署のことは
知らない。すぐ調べる」と言いながらも言葉を改め、「いろいろと考えのある人(国税マン)
もいて、直に抑えると反発して外にリークする可能性もある。ちょっと時間をくれ。返答はす
ぐにする。確定申告の時期でもあり、とにかく (江戸川税務)署長を呼んでうまくやるつもり
だ」と声をひそめた。心底迷惑そのものという口調だった。
 私は四谷税務署でそんな動きがあることを知って驚き、水野氏の不機嫌も承知のうえで、翌
日、再度水野氏に電話を入れた。
 水野氏は江戸川税務署長に確認したのだろう、
「警察の捜査も終わったので一度、中西氏から事情を聞かねばならないということだった。何
度か中西氏に電話したが不在だったので、たまたま自宅を訪れたら会えた。いろいろ聞いた
が、正式には次回、本格的に話を聞く。中西氏は弁護士と相談し、会うことを約束してくれた
そうだ」
 「中西氏からあらましは聞いたが、まだ釈然としないとのことで正式に聞くことになってい
る。確定申告の時期で(捨て金摩事件について)社会部の報道(がうるさい)ということもあ
り、何もしない訳にはいかない」
と事情を説明してくれた。
 私は「正式な調査というのは止めてほしい」と頼んだが、水野氏は「そうしたいが、上から
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ストップをかけるとかえって逆効果になる」と渋った。
 その一方で水野氏は、警視庁も捜査していて落ち着いたことだから「私としてはことを複雑
にするつもりはないから」とも語ってくれた。
 何しろ中西氏が金杯などの売り上げを隠したと言っても、それは二○年も前のこと。とっく
に脱税の時効を過ぎている。捨て金庫以外の新たな脱税の証拠が出てくれば別だが、そうでな
ければ追徴課税もできず、手間暇をかけても実が取れない事件である。江戸川税務署の調査は
マスコミ向けの形式的なもので終わる可能性もある、私はそう考えた。
 その後、江戸川署が中西氏側に金杯の仕入れ先などについて問い合わせるなど、しばらく双
方のやり取りがあったが、それも三月下旬以降途絶えた。
 私は「おそらく中西氏のことは終わりだろう」と八尋氏に見通しを伝えたが、はたして五月
に入ると、八尋氏から「中西の税金問題を担当していた税務マン(公認会計士)の通報によれ
ば、矢野さんの言うとおり、終わったと見てよい。心より感謝する」と連絡があった。私はこ
れですべて片付いたとホッと肩の荷を降ろしたつもりでいた。
◆国税が学会本部へ
 ところが六月一四日になってにわかに雲行きが怪しくなる。ある政治家のパーティで、たま
たま国税庁の水野長官にお会いしたとき、 水野氏が声をひそめて「一度は終わったと思った
が、現場はまだ終わっていない。学会に調査の協力を頼むかもしれない」と心配そうに話した
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のだ。
 意外な展開に驚いていると八尋氏から電話があった。八尋氏は不安そうだった。
「二時に四谷税務署が学会本部に来た。今後の調査の打ち合わせだという。もしかして中西の
件だろうか。中西の件はもう終わったはずなのに……」
 江戸川署ではなく今度は四谷税務署。いったい何が起きているのか。私は自分の顔が青ざめ
るのを感じた。
 翌日、八尋氏から再度、電話があった。
「昨日の四谷税務署は、例の件(中西)も含め、それ以外も要注意だ。六月一八日にもう一度
来るとのことで心配している」
 事態が予想外の方向に展開しつつあることが明らかになったのは六月一九日のこと。八尋氏
の電話の声は緊迫していた。ほとんど悲鳴に近かった。
「一八日に来たのは東京国税局直税部資料調査六課の職員四人だ。二一、二二日にも、また来
ると言っている。中西のことは出なかったが、調査の範囲は広い。学会としてはかなり深刻に
受け止めている。一七年間なかった準査察と見る」
 資料調査課と聞いて私も「これはただごとではない」と直感した。
 資料調査課は、通称「料調」と呼ばれ、大口・悪質案件を対象にしている。ターゲットは
政治家や芸能・スポーツ選手などの大物も多く、彼らのまだ事件化していない案件について綿
密に資料を集め、じっくりと調査を進める。税務調査の腕は料調の調査官が一番で、何年もか
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けてじっくり相手を追い詰める。料調に食いつかれたら最後、もう肋からないというのが国税
庁内部の評価である。彼らが悪質な事案を見つけた場合は映画『マルサの女』で有名になった
マルサ(査察部)に連絡。マルサが強制調査を行い犯罪性があれば刑事罰を科すという。
 マルザと違い強制調査権を持たない料調の調査は、任意調査が原則だ。しかし実際は、裁判
所の強制調査礼状を取らずにマルサに近いことを行うため「マルザより怖い」と恐れられてい
る。なお学会本部の調査を行うことになる東京国税局直税部資料調査六課は、一九九一年七月
に組織変更され、現在は課税第一一部資料調査三課に名称が変わっている。
 なぜ、よりによって料調なのか。
 これについては国税庁を長年取材したジャーナリストの落合博実氏(元朝日新聞編集委員)
の著書『徴税権力』 (文藝春秋)が参考になる。落合氏によると当時の国税庁の内部資料には、
こう記されていたという。
『最近では創価学会については中西治雄の一億七千万円金庫事件以降学会の金銭問題等につい
て各種マスコミ報道され(中略)宗教法人の動向については社会的にも大きな関心を呼んでい
るところであり、これら報道内容を含め、片名な宗教法人に対して税務執行面での適切な対処
が一層必要となってきている』
 やはり捨て金庫事件に象徴される学会の金満体質が国税当局を強く刺激したということだ。
 また、これは表沙汰になっていない話だが、捨て金庫事件の前に学会で別の事件が起き国税
当局に不審を抱かれたことがある。発端はパチンコ店を経営するある学会員への税務調査だっ
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た。調査の過程で創価学会を受取人とする巨額の領収書が見つかり、学会員が「学会への寄付
だ」と言うので国税側が事実関係を学会に照会したところ、学会内部は大騒ぎになったのであ
る。
 当時、秋谷氏が「大変だ」とあわてていたのを私はよく覚えている。私が「寄付はありまし
たと言えばそれで済むだろう」と気楽に話すと、秋谷氏は「それができるなら苦労しない」と
顔をしかめた。「パチンコ店経営者からの巨額の寄付金は学会本部に入金されておらず、学会
のどこかに消えたらしい」という解説が本部内部で流布していた。「まともな財務ならことさ
ら回答を拒否する必要はないはずだ」と、ある学会幹部職員は言っていた。秋谷氏がえらく深
刻な声で頼むので、要領を得ないまま、私は国税の国会担当に電話した。
 国税側が私の意向を尊重してくれたので、この件はウヤムヤになり、最終的に大事に至らな
かった。だがこのときの経験が国税当局に学会経理への不信感を植え付けたのは間違いない。
◆学会員の寄付
 この事件に懲りたのか、学会は一九八九年から寄付の入金方法を改めた。それまでは地区の
幹部が寄付金を預かり本部に入金していたが、事件後の八九年からは学会の銀行口座に会員が
直接振り込む形式に変わった。現在、振り込み額は最低一口一万円で上限なしということにな
っている。
 もっとも銀行振り込みになって学会财務が叫朗化したかというと、「必ずしもそうでないら
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しい」と関西本部の幹部職員が声をひそめて話してくれた。この幹部によると「大口寄付者に
対して別口座への入金、あるいは現金での持参が内々で指導されている」という。私は驚いて
「その口座のことを学会本部は承知しているのか」と聞くと、幹部は「それは言えない」と言
葉を濁した。「もし学会本部も知らない口座や入金があれば横領になるではないか」と私が指
摘すると幹部は黙ってしまった。まさかそんなことがあったとは思いたくないが、そういう話
が流れていたのは事実だ。
 学会員の寄付については、捨て金庫事件のところで引用した藤原道宏•聖教新聞社東海道総
支局前総支局長が『文藝春秋』誌上(「池田大作の金づくり金づかい」で、池田氏が「金を出す
ことが功徳である」と寄付を煽り、年間一五○〇億円もの巨額の資金が学会に集まっていたこ
と、また寄付の記念品として会員に配られる池田氏の写真集や著書の印税が池田氏の懐を潤し
ていたと書いている。いずれも私も知っていることで事実である。
 また一九八八年九月一日に、公明党の国会議員だった大橋敏雄氏が衆議院議長宛に質問主意
書を提出したことも大きい。
 大橋氏は公明党の現職衆議院議員時代の一九八八年に「池田大作への宣戦布告」(『文藝春
秋』六月号)という手記を発表。現職の公明党衆院議員が池田氏に退陣を迫ったとして大きな
話題になった。委員長だった私は、学会から「名誉会長批判を理由に党を除名せよ」と迫ら
れ、「そんなことをしたら、それこそ政教一致だ」と抵抗した。最終的には党の福岡県本部な
どから出ていた大橋氏に対する統制処分請求に基づき、党の中央統制委員会が「党の名誉を傷
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つけた」として別件で除名した。
 質問主意書の中で大橋氏は、「寄付をめぐって夫婦の意見が対立し、遂に別居や離婚という
家庭崩壊現象が起こったり、また生活保護世帯や老齢者、身体障害者等の会員の中には生活苦
に陥り、あるいは公営住宅でささやかな生活をしていた人が夜逃げしたなどという例もある」
「学会の寄付金集めとは別に、名誉会長の就任記念日や誕生日、海外出張等に際し、餞別やお
祝い、その他の名目で公明党の国会議員や地方議員、学会本部職員等からその都度、多額の金
銭を集めている」として「学会の収支状況については、学会員でさえ周知されていない状況に
あるので、最近五年間における収支状況及び課税、非課税別金額を調査の上明示されたい」
「名誉会長に対する多額の餞別、お祝い金は贈与に当ると思うが、これら贈与金にかかる最近
五年間の所得申告及び課税の有無の明示を求める」と時の竹下内閣に要求した。
 さらに大橘氏は、学会所有の不動産についても、全国に会館、研修所などの学会施設が数百
力所あるが、その主要な施設内にほぼ例外なく池田名誉会長の「専用施設」があり、「このよ
うな専用施設は、学会員はもとより学会幹部といえども容易に人室は許されず、完全に名誉会
長の個人的使用に供されている」として、「専用施設の維持運営経費は名誉会長への贈与であ
り、贈与税を課税さるべきものと思うがどうか」などと質問している。
 こうした告発に国税庁が留意しない訳がない。料調は新聞.テレビ•雑誌の報道など、調査
対象になる可能性のある団体や人物に関する資料はすべて収集していると言われている。なか
でも大橋氏の質問状は、衆院議長を通じ国税当局にも向けられたものだ。国税当局は無視する
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ことができなかったはずだ。
 先の落合氏も『徴税権力』の中で、当時の国税庁の内部文書に「課税上の問題」として『「創
価学会の運営に関する質問主意書」(提出者大橋敏雄(衆))の中で、次の課税上の質問があっ
た』と書かれ、池田氏の贈与税がらみの二点が引用されていたことを明らかにしている。落合
氏はまた、同じ内部資料に『東京局資料調査課において「池田大作」を準管理対象者として継
続管理しており、約一ヶ月の準備期間を置けば、五月頃において調査着手が可能』との記載が
あったことも明かしている。
 国税庁は、以前から学会と池田氏にまつわる不透明な金の流れに強い関心を寄せ、税務調査
のチャンスを虎視眈々とうかがっていたようだ。
 もっとも、宗教法人に対する税務調査は容易ではなく、これまで定期的に行われることはな
かった。創価学会への税務調査は一九七三年以来だと先に書いたが、七三年の税務調査にして
からが、四谷税務署が学会職員の源泉徴収調べをしただけの極めて限定的なものだった。
◆宗教法人への課税問題
 日本では、戦前の政府による思想•宗教統制が悲惨な戦争につながったことへの反省から国
家権力による宗教への介人が厳しく戒められ、戦後の日本国憲法も〈信教の自由は、何人に対
してもこれを保障する〉などと信教の自由を重視している。こぅした歴史的背景を踏まえ、宗
教法人法八四条は宗教法人への税務調査について「宗教上の特性及び慣習を尊重し、信教の自
────────────────改頁──────59
由を妨げることがないよぅに特に留意しなければならない」と厳しい制約を課した。こうなる
と、正当な税務調査でも「国家権力の介入だ」と批判される恐れが多分に出てくる。
 しかも宗教法人は、税においても非課税措置や減免措置などの優遇税制の恩恵を受けている
ため、たとえ国税庁が税務調査をしても人手と時問の割には徴税効果を上げにくいという側面
もある。
 これらの制約が宗教法人への税務調査に枷となってきたことは否定できないだろう。特に日
本最大のマンモス教団で、自前の政党まで持っている創価学会に対しては、国税庁も及び腰に
ならざるを得なかった。学会に対して一七年間も税務調査がなかったことが、そのことを雄弁
に物語っていると言えるだろう。
 落合氏は『徴税機関としてマネーの動向に常に関心を持ち、厳しくチェックする国税当局と
は思えない鷹揚さである。平均して少なくとも三年に一度は調査を受けている一般企業と比較
すれば、これがいかに「異様な事態」であるか、よく理解できるだろう』と皮肉っているが、
まさにそのとおりであった。
 東京国税局の料調が、調査に入る前に学会側に事前予告したのも異例のことで、相手が学会
だけに慎重にことを進めたというのが真相のようだ。落合氏は当時の資料調査六課の総括主査
の述懐を交えながら、こう書いている。
『「上からの指示で調査の予告に出向いたのです。学会の誰に会ったかは忘れましたが、丁重
な応対でしたよ。ただ、調査官が来訪する際、『正面から入られては目立つので困る。裏口か
────────────────改頁──────60
ら入ってほしい』と要望されましたがね」
 資料調査課では通常、わざわざ先方に出向いての事前通告などまず行わない。通知する場合
でも電話で済ませることが多く、事前通告なしで不意をつくこともめずらしくない。
「相手は天下の創価学会さんですよ。『対応は丁重に、調査は厳正にです』」(国税庁幹部)』
 だがこうした「配慮」にもかかわらず、ー七年ぶりの国税調迕に学会は蜂の巣を突いたよう
な大混乱に陥った。何しろ学会首脳部にも私たち公明党幹部にも、国税調査にどう対応してい
いのか、また国税側の意図が何なのか、まったくわからなかったからだ。学会・公明党は浮き
足立ち、首脳部は右往左往するばかりだった。
八尋氏はすがるように私に言った。
「秋谷会長と打ち合わせた結果、今後の対応については市川書記長ではなく、矢野さん一本で
やりたいとのことだ」
 現職の公明党書記長で公明党随一の切れ者として鳴る市川氏ではなく、なぜ常任顧問である
私に、秋谷氏ら学会首脳が国税庁対策を押し付けてきたのか。降って湧いた災難みたいなもの
で、私は正直ゲンナリした。
 その後も何回も呼び出されては「君しかいない」と言われたが、私は本気で「私は適任では
ない」と何度も断った。だが秋谷、八尋両氏はほぼ毎日、切実な信仰心を吐露して私の協力を
求めた。信仰心を持ち出されては日蓮正宗の信者である私も黙って「そのとおり」と拝聴する
しかなかった。しかし国の法律を曲げることすらも信心という主張には、さすがに私も納得で
────────────────改頁──────61
きなかった。「矢野君には信心がないのか」「池田先生を守るのが信心だ」。彼らはときにケン
力腰で私に詰め寄った。私が「国税と信心は別だ」と言うと、彼らは「魔を打ち破るのが信心
だ」と反駁した。
 最後に秋谷氏らは切り札を持ち出した。「この件は矢野にやらせろ、というのが池田先生の
たってのご意向なんだ」。そう言って一歩も引かない。
 私は進退窮まって「できることはやりましょう。しかし脱税などないでしょうね」と毒舌を
吐いたが、秋谷氏は、「そんなことはあるハズがない」という言い方だった。
 政官界に人脈のある私に面倒を押し付けて、万一失敗したら私に詰め腹を切らせればいい、
ということなのかと邪推したくもなった。利用されるだけされて用が済めばポイ捨てされた人
たちを、私は過去に何人も見てきたからだ。
 この国税側の調査開始通告の直後、公明党の続訓弘参院議員(元東京都副知事)が国税庁幹
部に調査の趣旨を確認したことがある。公明党の藤井富雄都議の依頼を受けたためだ。続参院
議員に対する幹部の回答は「準査察の構えだがご迷惑はおかけしない」というものだった。準
査察ということは査察と変わらないということだ。「ご迷惑はおかけしない」などと言葉遣い
は丁寧だが、国税庁の姿勢は強硬だった。
 この当時の官界では「キャスティング•ボートを握る公明党を敵に回すとどんな報復を受け
るかわからない」という「永田町神話」が定着していて、大蔵省の高級官僚は常日頃、公明党
を巧みに抱き込んできた。ときには公明党に妥協することもあった。
────────────────改頁──────62
 だが税務調査を執行するのは経験豊かな東京国税局資料調査課の調査官たちだ。精鋭中の精
鋭部隊である彼らは、政治とは別の次元で動いていた。すなわち「税務調査に聖域はない」と
いぅ国税マンとしての高い職業倫理観と正義感である。
「この交渉は難航する。多分失敗するだろう。下手をすると、交渉が逆効果になって、国税の
現場が反発し、より厳しい税務調査になるかもしれない」
 私は不吉な予感を覚えた。
 そして遂に、学会に対する初の本格的な税務調査が始まった。一九九○年、国会が閉会した
六月二六日の朝、料調の調査官四人が学会本部近くの聖教新聞社に乗り込んできたのである。
────────────────改頁──────63
────────────────◇────────────(引用ここまで、つづく)
今回のコメントは、裏情報で断トツの…勝谷さんです。
勝谷…「猿は〝エサ〟のために芸をする。八百屋は大根売って金もらう‥なんぼくれる??‥」
‥‥と言いながら‥‥も…(シーン)…
勝谷…「〝ウソつき〟する度に組織を大きくしたのは、池田大作だね。ニセ本尊に大きな会館、名聞名利…政治は参議院のみで腐敗をなくす、何たって賽銭箱の無い宗教だね‥‥今は、どの宗教より金かかっているやろ、喜んで寄附してる?‥だから池田はスゴイ‥民主や小沢は〝ウソ〟毎に駄目になっていった。池田は〝ウソ〟毎に学会と自分を大きくした。えっ‥今??‥俺のメルマガは…?億円だゾ‥‥バカ・ぼけ・カス・あほ‥‥終わり‥」──ありがとうございました。

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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乱脈経理-5

2014-01-12 11:28:41 | Weblog
○〝乱脈経理…創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント、矢野絢也…講談社…2011/10刊〟より
◆池田氏の公明党攻撃
 捨て金庫事件が自分に飛び火することを恐れた池田名誉会長は、自分の私兵である公明党に
怒りの矛先を向けた。池田氏の公明党攻撃は日を追うごとにエスカレートしていった。
 七月の終わりごろ、池田名誉会長が学会会館の完成祝いのため竹入元委員長の地元の江戸川
区に足を運んだ。ある学会首脳によると、このとき池田氏はすこぶる機嫌が悪く、周りに当た
り散らしたという。江戸川区には中西氏の住まいもあり、よけいに池田氏の機嫌を損ねたのか
もしれない。池田氏は大変な剣幕で、「気に食わない。竹人に利用され騙されていた。江戸川
区に来る気がしない。党と学会青年部は何もしない。選挙で何をしたか。もう帰るが、見送り
もいらない」と怒りをぶちまけて、さっさと引き上げたという。
「婦人部は泣いていた。皆ショックを受けていた。それにしてもキツすぎる」
と、この首脳はうめいた。
 池田氏の怒りを背景に、秋谷会長ら学会幹部は党の機構改革を強く要求してきていた。池田
氏の威光を借りた党攻撃に、市川書記長が嘆いた。
「(昭和)四二年当選議員(公明党衆議院第一期当選議員)と四四年当選譏員(同第二期当選議
員)は皆、バッジを外すくらいの気持ちでやれと秋谷会長らは言う。池田名誉会長は、竹入さ
ん、正木(良明元政策審議会長)さんらについて〝反逆だ、裏切りだ〟と悪口を言っている。
みんな、いまは人のこと、次は自分のことと思って聞いている。金庫問題をすり替えるために
党を罵っている、党は可哀想だという声も学会内にはある」
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 要するに、竹入氏や私といった四二年当選のベテラン議員を「全員辞めさせろ」と学会首脳
すなわち池田氏が秋谷会長に命令したわけだ。
 市川氏は党内で冷静な人物として通っていたが、自分が正しいと信じることは一歩も引かな
い剛直さも備えていた。私は学会に苦言を呈するにしても、やんわりとした口調で話すことを
心掛けていたが、彼は厳しい口調でストレー卜に苦言を述べるか、完全な沈黙で応えるかのど
ちらかだ。その市川氏も池田氏にだけはさすがに直言しない。それにしても冷徹な市川氏をこ
こまで嘆かせたのだから、池田氏の党への怒りは相当、強烈かつ理不尽だったのだろう。
 八月九日、藤井富雄都議から捜査の見通しについて電話があった。
「八尋の話だと、神奈川県警と話はついているが警察庁が固い。時間がかかる。金庫について
二回上申書のやり取りをした」
「昨今、中西はいばっている。注意信号が出ているという感じ。中西が変わると大変なことに
なるので早く決着をつけないと大変、というのが八尋の考えだ」
 これもかなり誤解のある話のようだ。当時、ある学会本部職員は「中西さんはいばるどころ
か、身の置き場もないくらい遠慮している。それなのに中西さんが開き直っているように受け
止めるのは一種の被害妄想だ。よほど後ろ暗いことを中西さんが握っているのかな?」と解説
していたが、何が真相やらさっぱり藪の中だった。
 翌八月一○日、『文藝春秋』九月号が、学会批判の急先鋒である藤原行正元都議の弟の藤原
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道宏.聖教新聞社東海道総支局前総支局長の告発記事を掲載した。
 藤原氏は財務で集めた巨額の資金の一部が、全国各地にある池田氏の豪華な専用施設の建設
に使われていると考えられるなどと書いたうえで、捨て金庫事件に関してこう綴っていた。
『昭和五十二年、民社党が各地にある豪華な会長専用室を、宗教法人にあるまじきことと、国
会で追及しようとしたことがある。このとき、公明党が民社党に働きかけて時間稼ぎをし、そ
の間に全国の専用室を消してしまえということになった。そこで建物を壊したり、温泉や庭を
潰すことが各地で行なわれた。
 ちなみにそのとき例の金庫が一緒にブルドーザーで埋められた可能性が高い、といわれてい
る。そして、改めて違う施設をつくるために掘り返し、出てきたものを誰かが日本図書輸送に
頼んだ……』
 民社党の追及を避けるために学会が一時期、半狂乱のようになって池田専用施設を壊したり
庭の池を埋め立てたりしたことは事実だが、このときに一緒に金庫が埋められたかどうかまで
は、私は知らない。
 また、藤原氏は金庫番としての中西氏について『池田氏は三代会長時代から「お小逍い」を
配ることをせっせとやっていた。とにかく手当り次第に配るという感じだから、総額では相当
になるだろう。金の出所は知らないけれども、私もその都度喜んで受け取っていた。(中略)
 池田氏が「小遣いをやろう。おい」と言うと、学会の〝金庫番〟こと中西治雄氏が黒いア夕
ッシュケースを開いて金の入った白い封筒を池田氏に手渡す、という仕掛けである。中西氏が
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遠ざけられた後は第一庶務担当の長谷川重夫副会長がその役を務めていた』と書いた。
 この内部告発に学会側は大揺れだったが、党は四二、四四年当選組の引退問題の対応に追わ
れ、それどころではなかった。石田氏は「議員引退問題は矢野さんの進退が焦点だ。つまり国
税など学会の諸問題に関わっている矢野さんを一緒に辞めさせるのかどうかだ」と私に解説し
てくれた。これに対し私は「議員を引退する。定年制をつくった本人だから、むしろ定年前に
辞めたほうがよい。だが他の優秀な人は残せ」と話した。
◆殿のご乱心
 毎年夏になると、池田名誉会長は軽井沢の学会研修道場に避暑に出かける。このとき学会の
主だった幹部と公明党幹部も軽井沢に出かけ池田氏の話を聞くのが慣わしになっていて、その
日が迫っていた。
 学会から再要求され、市川氏は口ごもりながら次のように語った。
「池田氏と会うまでに四二、四四年当選組の議員辞職問題について公明党としての結論を出
し、学会に対して報告を出す必要がある」
 竹入氏や私は既に議員を辞めるつもりでいた。だが他の議員の心の中まではわからない。市
川書記長も先輩議員全員と会って、辞任する気があるかどうかを質すような失礼なことはした
くない、と断言していた。私は市川氏らに同情しながらうんざりした。こういうことは、時間
をかけて解決するものだと、私は経験上考えていた。
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 消費税問題で元首相の竹下登氏から電話があり、「補正を組んで景気対策をする。衆議院解
散総選挙は来年一月以降だろう。小沢一郎が学会の山崎尚見副会長とパイプがある」との話だ
った。私は、「山崎さんは真面目な人だから、よろしくお願いします」と答えた。その後、私
は、国会本会議前に、公明党の院内控え室に出向いた。
「全員辞めることを決意せよと秋谷会長より強い指示があった」
 市川氏が苦りきった顔で私に話しているところに学会の青木亨副会長から電話が入り、市川
氏と押し問答になった。
青木「四二年組が辞めるとは戦場放棄だ。無責任だ」
市川「そうせよと言ったではないか」
青木「そんな報告書が出たら池田名誉会長に(辞めさせるかどうかを)選ばせることになる。
矢野も四二年組だから(辞める)というなら、むしろこの選挙戦を戦ってご奉公するのが当然
だ」
市川「このままだと党はおかしくなる。皆、嫌気がさす。後輩として、先輩の心をのぞくよう
なことができるか。どうすればいいというのか」
 怒気をはらんだ市川氏の言葉に気圧されたのか、青木氏は無言だったという。
 それにしても学会側の言うことは支離滅裂で、これに振り回されていたら党は自壊してしま
うと私は思った。
 市川氏は電話を切ると苦渋に満ちた表情で、「もう無茶苦茶です。ただし、矢野さんについ
────────────────改頁──────43
ては辞めずに選挙に回ってくれということだった。でも、たとえ残っても学会から不愉快なこ
とをやられるのではないか」と心配してくれた。
「いや、もう辞めたい。勘弁してもらいたい。自由こそが成仏だ。残れば不愉快なことがあ
る。それはよくわかっているが……。しかし陰湿なものだ」
 私が溜め息をつくと、市川氏もうめくように「そのとおり。もう嫌になる。イビリだ……」
と言って眉をひそめた。
 議員を辞めろと言ったり、辞めるなと言ったり。池田氏やその周辺の考えは訳がわからなか
った。協議後、市川氏は軽井沢に向かった。
 後で学会首脳から軽井沢での池田発言を聞いた。やはり党と四二、四四年組を厳しく批判す
る内容で、池田氏は「石田も早く替われ。あとは市川だ」と市川氏を委員長に据える考えを示
した。私への批判は特に出なかったという。それにしても公党のトツプ人事が池田氏の一存で
決まるのだから、これこそ政教一致の証みたいなものだ。
このころの私の心境を手帖から抜粋すると——
《君子危うきに近寄らず、只静観。沈黙に徹しきる》
《(議員辞職は)自由があることがより望ましいので何ら失うものはないし、人生もう一度やり
直しというフアィトすら湧く。権威集団から抜けられぬ人々、これからそれを目指す人にとり
公明党•学会全体の地盤沈下と内部矛盾は困ったもの。創価学会の興亡という言葉は私の造語
だが、ローマ帝国と同じく、その時代にきたのかなといささか感慨無量。いずれ矢野の復権と
────────────────改頁──────44
いう人々もいるが、矢野としてはまっぴらご免を願いたい。この複雑な世界は権力をもてば否
応なしに巻き込まれる》
 一方では《二四年この世界で恩を受けたものとして座視することはやはりできない。ひょう
ひょうとして出来る手伝いはやる》とも書いており、私の気持ちもかなり迷走していた。
別の日の手帖の雑感にはこうある。
《殿(池田氏)御乱心の表現も的外れでないと言える。しかし金庫問題で打撃を受けた組織。
池田名誉会長としてそれを認めることはできないのは当然で、外部組織である公明党の悪者論
を婦人部にけしかけ、焦点をぼかしていくのは当然のこと》
《党は右往左往するだけで疲労困憊の状況。石田は半分やけくそ気味で衆院選後は首が決まっ
ていると自分で言っているぐらいだから、仕方なし。市川は憎まれ役をやっていて気の毒だ》
 八月二八日、藤井都議が捨て金庫事件について電話をしてきて「矢野さんは辛抱強くやって
くれ。警察庁が慎重で(捜査終結には)六ヵ月かかるそうだ。八尋が焦っているが無理だ。や
はり辻褸が合わないからだろう」とぼやいた。
 警察庁が慎重なのは国会対策が関係していた。警視庁最高幹部は私にこう説明した。
「神奈川県警本部長はこの辺で決着したいと考えているが、国会でこの問題について質問が出
ているため、警察庁としては〝まだ調査中〟と答えたほうが無難なのだ」
 膠着状態に焦った藤井都議は「もはや矢野さんに頼むしかない」と電話してきたが、私は
「秋谷会長から〝微妙なことだから、捨て金庫事件では政治的に動くな〟と言われている。や
────────────────改頁──────45
ってマイナスではいかんので。八尋さんの判断が聞きたい」と態度を保留し、あわせて一万円
札の帯封についての矛盾を指摘した。藤井氏はこのあたりの事情をよく知っているらしく、
「そうですね」と言いながら言葉を濁した。折り返し藤井氏から電話があり「こっちは死に物
狂い。八尋も矢野さんにやってほしいとの言い方。矢野さんしかできない」と切羽詰まった様
子だった。翌日には八尋氏からも「よろしく頼む」の電話が入った。
 それでも腰が重く迷っていたが、その矢先の八月二九日、産経新聞が、中西氏が県警に提出
したカギの製造番号と金庫の製造番号が一致した、と報道した。八尋氏から「そういう訳だか
ら、あと一歩だ。よろしく頼む」と矢の催促だった。捨て金庫で国税が関心を持っていること
は知っていたが、まだ動いている訳でもないし、何がどう問題なのかが理解できなかった。
◆捨て金庫事件で金丸副総理に相談
 私はやむを得ず、とっておきの手を使った。自民党の金丸信副総理に面談し、丁重にこの間
の事情を説明し協力を要請した。金丸氏は快く了承し、翌日、電話をくれた。
「警察庁の国会担当から事情を聞いた。マスコミが鵜の目鷹の目でうるさい。金庫は中西のも
のと一応ハッキリしているらしいが、中のお金は、いまの状況から中西のものと裏付ける資料
がいまひとつ不足している。いま、(中西氏にお金を)お返しすると、マスコミから〝何を理由
に(落とし主が中西氏だと)断定したか〟と詮索されるとやはり弱い。(発見後)六ヵ月たって
も誰も淹のものだと手を挙げないときは、中身の金もだいたい推量で中西のものだと言える。
────────────────改頁──────46
そこまで波風立てないように待ちたい。ここだけの話だが、学会筋から〝金は学会のもの。も
し中西が自分のものだというと業務上横領の疑いがある。(告訴するから)業務上横領での捜査
をしろ〟と警察に強く言ってきていて警察が困っている。それが裏にある事情だ。マスコミの
話題になってしまう(と困る)ので持て余している」
 金丸氏は、金の保管状況などについて中西氏しか知らないような情報があれば事情が変わっ
てくるとして「ちよっとでも材料があれば言ってほしい」などと親身になって相談に乗ってく
れた。
 私と金丸氏は一九八四年から八五年にかけての二階堂擁立劇で敵味方にわかれて激しく衝突
したが、それを機に、逆にお瓦いの気心が知れて急速に親しくなっていった。
 二階堂擁立劇とは、竹入委員長と私が音頭を取って脱角栄を目指し、公明党と民社党が自民
党の鈴木派や福田派などと連携して、連合政権を視野に田中派の二階堂進自民党副総裁を自民
党総裁に担ぎ出そうとした事件で、実現まであと一歩のところまで肉薄し、政界に衝撃を与え
た。
 ロッキード事件で実刑判決が下った田中角栄元首相による田中支配の強まりと、田中派の支
持に乗る中曽根康弘政権への反発が二階堂擁立劇の背景にあった。田中角栄氏の中曽根支持の
姿勢は極めて固く、他派から首相を選ぶことで角栄氏のキングメーカーの力を維持する目的
と、自派から総裁候補を出すことによって田中派の世代交替が進行することを妨げる意図が、
角栄氏の発言からうかがえた。二階堂擁立劇は、このような政治構図の中で失畋するが、この
────────────────改頁──────47
ことは逆に田中派の中で「おやじはこれからも他派閥から総理総裁を選ぶ腹だ。それでは自分
らの出番はない」との反発が生まれてきて、それが角栄氏への造反といえる創政会の発足につ
ながった。このあたりの事情は拙著『闇の流れ矢野絢也メモJ (講談社)に詳しい。
 二階堂擁立劇により田中角栄氏の威光は急速に衰え、一九八五年一月に竹下登氏を中心に金
丸氏らが創政会を発足。二月に田中角栄氏が脳梗塞で倒れ、鉄の結束を誇った田中派は事実上
分裂。これが一九八七年一一月の竹下政権誕生に結びついていき、この間に私と竹下氏も急速
に親交を深め無二の親友になった。この竹下氏との信頼関係が、後の創価学会に対する国税調
査に際し、大きな影響を与えることになるのである。
 私は金丸氏に謝意を述べ、金丸氏の話を八尋氏に電話で伝えた。八尋氏は、業務上横領での
捜査について「それは藤原行正の横槍だ」と語り、学会と池田批判を強めている藤原前都議が
警察庁に働きかけているとの見方を示した。
◆住職誘拐事件
 捨て金庫事件への学会員の反発の大きさは深刻だった。九月二五日、学会の関西文化会館の
幹部が私に嘆いた。
「聖教新聞が四八○万部から四一○万部に減部した。取次店は経営が困難になった。捨て金庫
事件以来、皆、嫌気がさして聖教新聞の購読を断っている。取次店が可哀想だ」
 だが九月二八日に朗報がもたらされた。読売新聞の取締役論説委員長だった渡邊恒雄氏が
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「明日の読売を読め」と電話をくれたのだ。翌日の読売は、川崎市の竹やぶで見つかった二億
三五〇○万円の札束について、神奈川県警が通販会社社長の所有と認め返還したことを報じる
とともに、捨て金庫事件についても一○月中に中西氏に返還する予定だと伝えたのだ。
 私たちは「これでやれやれだ」と喜んだものだ。
この報道後の 一○月二一日、池田名誉会長の本部幹部会でのスピーチが全国の学会施設で衛
星中継された。私は関西文化会館で中継を見たが、相変わらずの強気で、杉晋作の奇兵隊と
自分を重ねながらいささか常軌を逸した揚感を発露させた。事件がようやく解決に近づき溜
まりに溜まった鬱憤を晴らしたといったところなのだろう。
 中西氏に金庫の金が返されたのは一○月一六日。中西氏は記者会見で世間を騒がせたことを
陳謝。拾得者の廃棄物会社に報労金として二六〇〇万円を支払うとともに一億一○○○万円を
日本赤十字社に寄付することを明らかにしたが、現金の性格についてはそれまでどおり「学会
に無断で儲けた利益」などと曖昧な説明に終始した。
 これに先立ち創価学会は一○月一四日付で中西氏の退会届を受理。聖教新聞社も青木亨代表
理事名で「不正な利益追求であり、断じて許しがたい」との談話を発するとともに同社嘱託
だった中西氏を懲戒免職にしたことを明らかにした。ちなみに、この事件から二○年以上経過
した二〇一一年七月、中西氏は池田と対立する日蓮正宗に入講したという。
 事件は曖昧なまま幕を閉じたが、この事件にょって、創価学会の金満ぶりが世間に強く印象
付けられたことは間違いない。
────────────────改頁──────49
 実際、この年の一一月には創価学会を標的にした身代金目的の誘拐事件が発生。しかも、こ
ともあろうに犯人の一人は学会員だった。
 誘拐されたのは大分県内の日蓮正宗の寺の住職。地鎮祭依頼で迎えにきた男に誘拐され、本
山の日蓮正宗大石寺に「創価学会が六億円出せ」と身代金を要求する電話がかかってきた。犯
人の男二人は警察による電話の逆探知によって逮捕された。犯人の一人は地域の学会員をまと
めるブロック長をしていた男で、犯行の動機を「借金を抱えていた。創価学会を狙ったのは、
金が余っている、と思ったからだ」と供述した。犯人は大石寺への電話で「学会なら六億円く
らい用意できんことはないだろう」と何度も脅迫していたが、実際に身代金はすぐに準備され
たという。
 結果的に身代金の六億円は無事だったが、金を運んだ竹入央迪副会長は「現金は本山が用意
したものと聞いている」と学会は無関係だったことを強調した。
 私は犯人逮捕の日の早朝に首相官邸筋から事件のことを初めて聞き、驚いて学会幹部に電話
をした覚えがある。犯人逮捕後、あるマスコミ幹部は「学会は真っ黒どころか激黒だ。世間で
は金余りボケかと言っている」と呆れていたが、返す言葉もなかった。六億円について学会内
部では学会側が用意したと伝えられていた。
 こうしてトラブル続きの一年がようやく終わりに近づいたクリスマスに、私は竹入義勝元委
員長と会った。竹入氏は翌年の衆院選には出馬せず、議員を引退することが決まっていた。竹
入氏は心底ホッとした様子で「やっと辞められる。やれやれだ。矢野も長くないぞ」と私を見
────────────────改頁──────50
た。
 私も翌年の衆院選を最後に議員を引退するつもりでいたので、「長い間ご苦労様でした。私
のこともよくわかっている」と応じた。
 心配していた国税庁の中西氏に対する税務調査もなく、私は〝このまま国税庁には諦めてほ
しいものだ。そろそろお役ご免にしてほしいものだ〟と心の中でつぶやいた。
 まさか、この捨て金庫事件が呼び水になって翌年、創価学会に国税庁の税務調査が入り、私
が国税対策の最前線に立たされることになろうとは、このころは夢想だにしていなかったので
ある。
────────────────◇────────────(引用ここまで、つづく)
今回のコメントは、『そこまで‥‥』の常連〝金美齢〟さんです。
金美齢…「池田大作??‥世界平和、地球家族の??‥アホクサ…アーらゴメンナサイ、聖人・偉人のフリをした、戦後最大、最悪の偽善者ネ…宗教を利用、しかも日蓮をネ…」「たかじんさんね、本音トークで〝池田大作〟は一番受ける筈でしたけど…放送局や政治からストップばっかしでしたネ…怖がっていたと思いますネ…」「もっとも、たかじんさんの番組〝本音トーク〟のフリをした〝右・保守のガス抜き番組〟ですヨ…民主の議員や田島さんに倍の出演料でネ…控え室では、津川さんと一緒に〝もみて〟でお詫びです」「世の中、社会も歴史も人生も、家庭も、みんな〝フリをした〟住み分けね…」「たかじんさん…ありがとう…切ないね…ホロリ…」

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乱脈経理-4

2014-01-09 05:34:49 | Weblog
○〝乱脈経理…創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント、矢野絢也…講談社…2011/10刊〟より
◆金は誰のものか
 捨て金庫事件の報道は日しに拡大していき、七月一日の新聞は神奈川県警と旭署が金庫の
出所を日本図書輸送と特定したと報じた。
 事件が学会に飛び火したのを受け、私のところには学会や公明党幹部などから電話が殺到し
た。ある学会幹部は「学会職員みんながあんなことをやっていると思われます。迷惑千万だ。
みんな怒り狂っています」と電話越しに憤りをぶちまけた。
 七月二日、秋谷氏から「捨てた金の帯封の明細がわかる方法はないか」と電話で問い合わせ
があった。私が「藤井富雄都議会幹事長に相談するのが良い」と言うと秋谷氏は「了解」と言
って電話を切った。注目すべきは、ここで早くも秋谷氏が捨て金庫の中のお金の帯封を意識し
ていることだ。中西氏がチマチマと商売で稼いだお金なら帯封の問題は発生しない。この金の
素性について、学会中枢も疑惑を持っていた証左と言えよう。
 混乱の中、秋谷氏は七月三日、学会員向けに「事件は中西氏個人の問題。学会は無関係」と
いう趣旨の会長通達を出し、予告していたとおり中西氏一人に事件を押し付けた。
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 これに呼応するように中西氏は三日夜、日本図書輸送の大川社長らとともに横浜市内で緊急
記者会見を行い、「金は私のもの。昭和四六年(一九七一年)ころから三年間、総本山大石寺で
個人的に開いた土産物店で金杯などを売って儲けて脱税した金だ。聖教新聞地下倉庫に置い
たまま忘れていた」などとこわばった顔で話した。
 中西氏は、池田氏や字会の金ではないかとの質問を明確に否定したが、中西氏個人の金だと
証明するものについては「私の話だけだ。了解してもらいたい。帳簿、伝票は処分して、な
い」などと答えた。
 ほぼ同時刻に創価学会は、金庫が置いてあったいう聖教新聞社の地下二階倉庫を報道陣に
公開した。対応した三津木俊幸副会良は、金庫はストーブやカーペットと一緒に匱かれていた
が、新しい倉庫を作ったためにれ冲を整理した際、持ち主がわからない汚れた金庫があったた
め、四月中旬に中身を確認しないまま日本図書輸送に依頼して廃棄処分にした、などと金庫を
捨てた経緯を説明。「創価学会とも聖教新聞とも関係のない金だ」と学会とのからみを強く否
定した。
 学会側の説明を世問は訝った。大資産家ならともかく一宗教法人の職員が二億円近い大金を
金庫に入れたまま二○年間も放置し、存在自体を忘れてしまうなどということがあり得るだろ
うか。そもそも金は中西氏のものではなく、中西氏が預かるか管理を委託されていたものだか
ら、中の金に手を付けられなかったのだろう。これが人方の推測だった。矛盾だらけの中两氏
と学会の釈明に対し、あるテレビ番組では出演者が「嘘をつくならもっと上手な嘘をつけ」
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と呆れ顔でコメントしていたが、国民の多くがそう思ったのではないか。
 先に触れたとおり、最大の謎は一〇〇〇万円の札束に大蔵省印刷局の封緘印付きの帯封がさ
れていたことだ。これは市中に出回っていない未使用の官封券であることを示している。中西
氏は会見で、裏商売で儲けて、表に出せない金だから自分の手許に留めて銀行預金しなかった
と話していたのに、なぜ金庫に一〇〇〇万円もの未使用の官封券が人っていたのか。金庫には
他にも別々の銀行の官封付きの札束もあった。
 また中内氏は三年問、副業として金杯などを売り一億七○〇〇万円をためたと話した。事件
発覚当時の価傾だと五億円にも相当する金額だ。そんな大金を、わずか三年間の土産物店での
チマチマした商売で稼げるものだろうか。
「土産物を売って稼いだとしても何十万、何百万程度がせいぜいのはず。それがいつどこで大
蔵省印刷局の封緘印付きの官封券に化けたのか。あまりに不自然だ」
「官封券は学会ルートで手に入れたものだろう。中西氏個人が学会に内緒で稼いだお金なら、
学会ルルートを使ってそういう交換はできないはずだ」
 学会本部でも噂站がとめどなく拡大した。
 本山の売店関係者も私にこう断言したものだ。
「中西さんが本山で商売してあれだけの大金を稼ぐなど絶対に不可能だ」
 むしろ一億七○〇〇万円が創価学会の金だと考えたらどうだろうか。銀行にとって大口の預
金者である削価学会は大事な取引先だ。相手が大口顧客の学会だからこそ銀行は貴重な官封券
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を渡し、それが何かの手違いで金庫に眠ったまま捨てられた。そう見るのが自然なのではない
か。実際、学会内でもそういう見方が優勢だった。
 中西氏が大金の存在を忘れていたという点についても不可解な事実がある。中西氏は会見で
「金を忘れるのは、あなたにとってたいした額でないからか」と聞かれ、「そうではない。大事
な金だった」と語った。
 ところが七月六日の産経新聞が報じたところにょると、中西氏は一九八二年に東京都江戸川
区小岩の自宅を担保に極度額三五○万円の根抵当権を設定し借金していたのだ。同紙は「自分
の大金の存在を忘れて借金までするとは考えにくく、同氏の説明に対する疑問はさらに深まっ
た」と書いたが、この指摘は的を射ている。
 一つの仮説として学会の幹部職員が私に語った話がある。それは、字会にはあの数倍の裏金
があり、多くの金庫に分散して隠していたところ、故意か不注意か、あの一つを忘れてしまっ
た、あるいは隠してしまった、というものだった。あり得る話だと思った。というのも私も一
九七〇年ごろに、中西氏から預かり物を頼まれた経験があるからだ。
◆池田氏からの預かり物
 開けたら駄目だぞ。これは池田先生のものだ。じつに貴重なものだ。いいな。家族の目の届
かないところに置け。時期が来たら回収するからな」
 中西氏から預かった風呂敷包みは五○センチほどの大きさで、かなりの重みがあった。風呂
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敷包みには紙で封がしてあり中身が覘けないようになっていた。開けたらわかるように紙のコ
ヨリで封までしている念の入れようだった。興味があったので他の議員にも聞いたところ、矢
追秀彦氏や田代富士男氏ら当時の関西系の複数の国会議員も預かったと話していた。党の主だ
った者はみな頼まれていたようだ。
 その後、一、ニ年ほどして中西氏から「あれまだ、ちゃんと無事に取ってある?じゃあ持
ってきて」と言われ回収されたので中身は確認していない。
 このころ、言論出版妨害事件で池田氏を国会喚問しようという動きがあり、池田氏の個人資
産が調べられる可能性があると恐れられていた。何しろ、国税庁は悪質な事件の場合、私宅ま
で強制調査した実例があるからだ。そこで中西氏は池田氏に特に忠実な人を選んで〝貴重なも
の〟を預けたのではないか。おそらく風呂敷包みの中身は池田氏の個人資産か何かで、税務調
査などを逃れるためにあちこちに分散しておいたものではないか。もしあれが回収されずにい
たらどうなったか。預かった本人が死亡してから何年も経って、古びた風呂敷包みを遺族が見
つけたら、家族は「汚い風呂敷だな。捨ててしまえ」とゴミに出してしまったかもしれない。
捨て金庫事件も似たような経緯で起きたのではなかろうか。
 七月四日、聖教新聞は「まったく考えられない事件が起き、大勢の方々にご迷惑をおかけ
し、申し訳ない」という秋谷会長名のお詫びの談話と、金庫発見に至る経緯などを説明する記
事を掲載した。記事は金庫について「本社の管理備品台帳にもまったく記載がなく、中西氏が
知人から譲り受け、個人的に使用していた」「金庫に入っていた現金も中西氏個人の保有して
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いたもの」などと害き、学会との関わりを懸命に否定した。
 学会本部の幹部職員は「池田先生の裏金と見るのが自然だが、池田先生も分散されて隠され
ている裏金の所在のすべてを知っている訳ではない。あえて邪推すれば、分敗して保管されて
いた裏金の一部を中西氏が池田先生に内緒で隠していたのかもしれない。あるいは裏金が必要
になったときに備え、池田先生と中西氏が阿吽の呼吸で中西氏に保管させていたものが、誤っ
て金庫もろとも捨てられてしまったのかも。その点、中西氏にも弱みがあるので、開き直れな
かったのだ」と、まるで見てきたような解説をしていたが、真相がどうであれ、捨てられたの
が池田氏の裏金であり、それが管理上の理由で裏帳簿にも記載されず中西氏しか知らない金だ
という見方が学会内で強かったのは事実だ。
 その後も捜査は継続したが目立った進展はなく、捨て金庫事件に関する報道はめっきり減っ
ていく。だが、金庫の中のお金は返還されないままで、当事者としては宙吊りの気持ちだっ
た。
◆大蔵省首脳たちとの宴
 実のところ、表舞台の静けさと違って舞台裏では、学会・公明党と警察、さらには国税庁も
加わっての駆け引きが繰り広げられていた。
 七月一一日、私は警視庁の高官と話した。私は公明党の書記長をしていたころから、都議出
身の竹入義勝委員長や〝公明党のドン〟と呼ばれていた藤井富雄都議らを通じて、警視庁幹部
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との会合によく呼ばれていて、以前から懇意にしていた。
 都議会公明党は警視庁予算を含む東京都の予算成立のキャスティング•ボートを握ってい
る。このため都議会公明党と警視庁幹部は以前から良好な関係を有し、また警察庁幹部と公明
党も、警察庁と警視庁のキャリア組の人事交流を背景に結びつきを持ってきたのである。
 警視庁の高官は「〝納得できる解決をせよ。マスコミに叩かれる解決はダメだ〟というのが
警察庁会議の結論だ。辻褄の合うストーリーでなければならない。そうでないと警察が大恥を
かく」と捜査継続の事情を説明した。
 中西氏が金の持ち主である証拠が乏しく、記憶も曖昧とあっては捜査の継続は当然のことだ
った。だが、学会内部では「警察は時間をかけて中西の心変わりを待っているのではないか」
との疑心暗鬼が広がっていった。中西氏の気が変わって〝真相〟を暴露するのを警察は待って
いるのではないかと恐れたのだ。
 この日の夜、私は人蔵省の首脳たちとの少人数の内輪のパーティに参加した。公明党の書記
長を二〇年もやったことで、もともと私は各省庁の現場の官僚と接する機会が多かった。官僚
たちは国会での法案審議促進のため、私のところにもよく頼み事にきた。なかでも大蔵官僚と
は予算案などの関連で資料説明を受けたり、国会審議の日程で相談をもちかけられるなど、頻
繁に会っていた。与党の幹事長クラスなら相手も局長級が説明にくるが、野党だと説明にくる
のは若い官僚だ。
 いまも昔も、大蔵官僚には日本を背負うのは自分たちだという気概が強い。志も高い。だか
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ら彼らは、物事を頼むときも野党に対して卑屈になることはあまりなかった。大所高所から
「日本のために公明党も理解してほしい」といった感じで筋論で押してくる。我々も譲らなか
った。そうした関係が逆に友情とでも言うべき信頼関係を醸成したような気がする。
 キャリア官僚の出世は早い。二○年も経てば、現場で駆けずり回っていた若い官僚が局長級
に上ってくる。野党だったことが逆に幸いして私は大蔵省•国税庁の幹部級に旧知の人が大勢
できた。そういう人たちと意見交換をする会を私は定期的に開いていたのだ。
 会合では無粋な話はせず、冗談を言い合いながら会話を楽しんでいたが、むろんお互いに計
算がなかった訳ではない。国会情勢の分析もたまには話題になり、野党ながら国会審議のキャ
スティング•ボートを握る場面が多い公明党首脳の胸中を取材する意図もあったのかもしれな

 この日の参加者は、西垣昭前事務次官、平澤貞昭事務次官、水野勝国税庁長官や小粥正巳主
計局長、保田博官房長、尾崎護主税局長といった錚々たる顔ぶれだった。
 捨て金庫事件で中西氏の脱税問題がクローズアップされていたこともあり、私は大蔵省サイ
ドに断りなく、会合に八尋副会長と公明党の市川雄一書記長を同行させて「先程まで一緒だっ
たもので」と弁解しながら紹介した。
 市川氏の来訪は全員が歓迎したが、学会の八尋氏に対しては迷惑そうな顔だった。とはいう
もののそこは紳士の集まり、市川書記長が加わったことで、この日は政局や参院選挙、消費税
などの話題で盛り上がった。
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秋谷会長(当時)
このころの政局は大揺れだった。竹下登首相が消費税導入とリクルート事件による政治不信
の責任を取って辞任し、六月三日に宇野宗佑内閣が誕生した。ところが宇野氏の女性問題が週
刊誌に報道されて政権は大揺れ。七月二三日の参院選挙で土井たか子委員長率いる社会党が
〝おたかさんブーム〟に乗り圧勝し、宇野氏は参院選敗北と女性問題を理由に七月一四日に退
陣表明。八月一○日に海部俊樹内閣が誕生する。公明党も議席を減らした。私も、公明党議
員がリクルート事件で逮捕されるなど党内で不祥事が相次いだことを受け、五月一七日に委員
長を辞任したばかりだった。後継は石田幸四郎委員長、市川雄一書記長である。
 石田委員長は、泰然自若とした風貌の大人だった。市川書記長は、力ミソリのような切れ味
と分析力、「事態予知能力」とでも言うべき将来を見通す力を持っていた。僭越ながら、私の後輩でー目置く人材は市川氏をおいて他にいな
いと思っていた。
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 会合が開かれたときは宇野政権で、私のもとにはさまざまなルートから「首相官邸が金庫問
題のことを細かく報告するよう警察に言ってきている。マスコミの関心が首相の女性スキャン
ダルから金庫問題に移って官邸は喜んでいる。警察と国税も面子があるからうやむやな処理が
できない」といった情報が寄せられていた。
それを裏付けるように会合に同席していた国税高官は、捨て金庫事件に関する国税庁内の雰
囲気をさりげなく説明した。
「国税マンも五万人もいると、いろいろ言う人がおります。中西氏から公然と〝脱税した金だ
と言われると〝いまもやっているのではないか〟という突き上げもありまして……」
 中西氏が脱税したことを公言している以上、いずれ中西氏への税務調査は避けられそうにな
いことが同氏の言葉から察せられた。八尋氏は青ざめ、私や八辱氏らは中西氏への税務調査が
学会に波及することを予感した。
◆国税対策を頼まれる
 参院選挙後、公明党の中央執行委員会が開かれた。議題の中心はそれ以前に行われた創価学
会本部会議での池田名誉会長の発言についての対応だった。
 池田氏は捨て金庫事件の処理と参院選の敗北に激怒し、「山友(山崎正友元学会顧問弁護士)、
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原島(嵩元学会教学部長)、福島(源次郎元副会長)と同じで中西も裏切り者だ。公明党も負け
るなら負けたらいい。議員はいばっている。腐敗してきた。新しく出直す。党にも遠慮しな
い」と怒りを爆発させたという。
 山崎氏ら三氏は過去に学会の最高首脳として活躍したが、脱会後は激しい池田批判を展開し
ていた。池田氏はその三氏と同列視するかたちで、捨て金庫事件の中西氏と公明党を口をきわ
めて罵ったという。中西氏への批判を聞いた学会員たちは、「ああ、やっばり池田先生は捨て
金庫事件と無関係だったのだ」と喜んでいたが、なぜ党が巻き添えをくって叱られるのか、そ
の脈絡が私にはわからなかった。
 ある学会幹部は「ガス抜きだ」と言っていたが、叱られるほうはたまったものではない。
「中西と裏で話がついたから、池田氏は表面的に怒った格好をしている」と解説した学会幹部
もいたが、真偽はいまもってわからない。
 池田氏の言葉を聞いた古参党首脳は「もう辞めたくなる」と嘆き、市川氏も「議員パッジの
返上運動をやろうか。池田名誉会長が言うことで、これまでは学会内のガス抜きができてい
た。いまはそうではない。見え見えのガス抜きは、むしろ事態を深刻にさせるだけ。党は学会
の現場の人たちからメ夕メタにやられる」とうめいていた。
 現に、後日、私のところにも「学会側が〝矢野は反省して家を売って学会に寄付すべきだ〟
と言っている」という話が伝わった。教えてくれたのは浅井美幸副委員長だった。当時の新宿
区二十騎町の家は、妻や母が病を患っていたので、池田氏から勧められたこともあって建てた
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もので、手持ちの資産を処分しその資金に当てた。その後、税務署からの原資などの「お尋
ね」に対しても資料を添えて回答した。私は啞然として「そこまで言うのか。議員でいること
に〝もう嫌〟という気持ちになる」と答えた。
 捨て金庫事件はもともと学会の不祥事だ。しかも公明党と学会の幹部も本音では、金は池田
氏の裏金だと疑っていた。リクルート事件や田代富士男参院議員の砂利船汚職事件、私の不注
意が原因の明電工疑惑など、公明党の支持者に迷惑をかけたことは委員長として党を預かって
いた私の不徳の致すところ。大いに反省もしていたし、だからこそ私は委員長を辞任したの
だ。
 だが、捨て金庫事件の責任まで公明党に押し付けられ、こき下ろされたのではたまったもの
ではない。私は心底うんざりして「とてもついていけん」と思った。
 七月三一日、しばらくぶりに読売新聞が捨て金庫事件について報じた。『中西氏が創価学会
の池田名誉会長の側近だったことから「金庫は創価学会のものでは」との見方もあり、この面
からも(編注・県警は)調べたが、関係者の口が堅く、壁に突き当たっている』という内容だ
った。
 その日、八尋副会長は「神奈川新聞に(捨て金庫事件は)九月決着とあるが、だいたい、そ
の線。これでは九月の財務に悲鳴が出て、支障がある。できればお盆前決着がよい。秋谷さん
と相談してまた依頼する」と言い、最後に付け加えた。
「中西は最後に(神奈川県警に上申書を)一度だけ出す。最後に国税が残る。矢野さんにぜひ
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よろしく頼みたい」
 私に国税対策をやれという依頼だ。私は丁重にお断りした。
「財務」は学会員からの寄付集めのこと。学会では每年、九月から暮れにかけて財務を実施し
ている。この年は九月が実施時期だったが、捨て金庫事件に対する学会員の反発は大きく、事
件の処理が遅れると財務に深刻な影響が出ることが予想された。
 そのころ、私は手帖に次のように記した。
《純粋理性を保持しつつ信仰心をもつ(これはややもすれば矛盾するが、それを乗り切るため
には)強い精神力が必要である。(難しいことだが)しかしやらねばならぬと改めて決意する》
 私に汚れ役を一方的に押し付け、自分たちは厄介な問題から逃げるという学会首脳たちのや
り方には憤りが募ったが、他方では、学会への不信感を打ち消して己を奮い立たせようとする
自分もいた。こんな記入もあった。
《蟻地獄見て光陰をすごしけり(茅舎)》
 蟻地獄に落ちた虫がまるで自分のことのように思えた。逃げようともがいても、どうにもな
らない。捨て金庫事件で国税の動きを抑えようとしたことがきっかけで、それから三年間、私
は国税対策という蟻地獄にはまり込み、七転八倒の日々を送ることになった。この句は皮肉に
もそれからの三年間を暗示していた。
────────────────◇────────────(引用ここまで、つづく)
今回は、元バリ活ばっちゃんのコメントです。
「この中西(治雄)という男、かっこ良かったでんなぁ、イケメンで、黒いメガネして、池田の演説では、後方で両手を前にして‥インテリヤクザ‥、一度抱かれてみたかったでんなぁ‥もし‥エッ、冗談でんがな‥もし‥‥」「池田の裏の仕事??‥池田にとっては、表の仕事でんな、〝裏金づくり〟のキーマン」「ニセ本尊八体製作の首謀者らしいでんなぁ‥素人療法怪我の元、これが第一次宗門戦争(昭和52年)の敗北となりましたんや‥もし‥」「この金庫事件から、中西さんの名は‥長いこと聞いたことおまへんでしたなぁ‥もし‥そしたら、池田雲隠れの翌年、2011年の秋ごろでしたね、日蓮正宗に改宗(学会退会)したと、日蓮正宗の知人からききましたね‥怖くもあったから‥もし‥エライでんな‥もし‥沈黙は金‥言いますやろ‥‥」
一度は抱かれてみたかった??‥
「あんさんいけずやなぁ‥ばっちゃん、おちょくって!!‥ただ、創価のトップは最初から誰も〝信仰〟は無かったでんな‥もし‥エッ、信仰ある人が信仰ある人から金もらえます??‥」

(誤字・脱字、文法無視、パクリ・援用・重複・勝手編集も‥笑って♪♪‥許して♪♪‥)
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乱脈経理-3

2014-01-07 07:59:26 | Weblog
〝乱脈経理…創価学会VS国税庁の暗闘ドキュメント、矢野絢也…講談社…2011/10刊〟より

第一章 押し付けられた交渉役………17
◆発端……18
 一九八九年六月三○日午前九時過ぎ、神奈川県横浜市旭区のゴミ処分場に捨てられていた古
金庫から現金一億七○〇○万円が見つかった。ゴミの山にあった古金庫の解体作業中に産業廃
棄物処理会社の従業員二人がパワーショべルで金庫を一メートルほど吊り上げたところ、金庫
の扉が開いて、二つの紙袋とともに大量の「聖徳太子」がハラハラと舞い落ちてきたのだ。
 同じ神奈川県内では四月一一日にも川崎市の竹やぶで現金二億円が見つかったばかりだっ
た。相次ぐ大金ミステリーに日本中が騒然となった。
 処分場で発見された札束は、すべて聖徳太子が印刷された旧一万円札だった。半分は手が切
れそうな真新しい状態で、残りの半分は黒ずんでいたものの腐敗した様子はなく、すぐに使え
そうな状態だった。また、白抜きで「一○○○万円」と印字された紫色の太い帯封で束ねられ
た一〇〇○万円束も三つあった。
 札束の一部には一九七一年前後の帯封と、「大蔵省印刷局封緘」の印のあるものがあった。
後者は「官封券」という一度も市中に出回っていない新札。需要が高いことから各銀行から特
別の顧客にまとめて渡される特殊な紙幣ということだつた。
 捨て金庫事件のニュースを間いたとき、私は「あんな大金をいったいどこの誰が捨てたんだ
ろう。あるところにはあるもんだな」と思ったが、特に気に留めることもなかった。
 だが一夜明けた七月一日になると、私の周辺がにわかに騒がしくなってきた。金庫が、創価
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学会関連企業の「日本図書輸送」から回収されたものであることが捜査で明らかになったため
だ。同日(七月一日)付の学会機関紙の聖教新聞は一面の「寸鉄」というコラムで「今度は廃
品金庫から一億七〇〇○万円。ゴミの中から。欲ボケ社会の戯画か縮図か」とバッサリ切り捨
て、後で大恥を曝すことになる。
 東京都文京区に本社(現在は東京都江東区に移転)がある運送•梱包業「日本図書輸送」は
創価学会関連の有力企業である。当時、本社は目白台の田中角栄元首相邸のはす向かいにあ
り、創価学会と公明党の印刷物の輸送を中心に総売り上げの四分の三が創価字会関連で占めら
れていた。また同社は、池出大作名誉会長の地方出張などに際し、身の回りの荷物(と言って
も、相当な量になる)の輪送をしていた他、学会関係の不用品の廃棄処分も行っていた。当時
の社長の大川清幸氏は公明党の元参院議員であり、私の手帖を持ち去った公明党OB国会議員
三人のうちの一人でもある。
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 捜査当局は発見翌日には金庫の持ち主をほぼ特定していたようだった。創価学会内部から警
察に夕レコミがあったらしい。というのも、この日、かねてより懇意にしていた警察庁幹部
が、私に電話で「拾て金庫は学会関連だから気をっけたほうがいい。ところで学会に中西とい
う幹部がいるか」とさりげなく聞いてきたのである。
 中西という名前を聞いて私に緊張が走った。もしかして警察がマークする中西とは、池田名
誉会長の側近で〝創価学会の金庫番〟と言われていた中西治雄元聖教新聞社専務理事(当時創
価学会総務)のことではないかと考えたからだ。
◆警察庁幹部が挙げた池田最側近の名
 中西氏は陸軍幼年学校の出身で、池田氏が学会青年部の参謀室長をしていたころからの腹心
中の腹心の部下だった。池田氏に忠誠を誓う執事役とも言える存在で、性格はいたって生真面
目。池田氏から強い信頼を得て、かねてより学会内部で「池田氏がらみの裏金の管理も一任さ
れている」と囁かれていた人物だ。
 こういう経歴なので、本来、中西氏は学会の要職についていてもおかしくなかったし、現に
学会の副会長に推挙されたことがあるが、中西氏はこれを辞退した。その理由を中西氏は「池
田氏の指示があってやむを得ずとはいえ、本尊模刻事件に深く閲わり、大きな罪を負っている
私が、副会長の椅子をお受けする訳にはいかない」と話していたという。
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 本尊模刻事件とは、一九七四年、池田氏が、六四世・日昇猊下から下付された本尊を聖教新
聞のカメラマンに撮影させ、それを元に八体の板本尊を勝手に彫らせたとされる事件で、信徒
として最大の罪に値する暴挙として日蓮正宗から糾弾されることとなった。当時、純真な学会
員は声をひそめて「身の毛のよだっような恐ろしいこと」と囁き合っていたものだ。これが大
きな原因となって削価学会は宗門•日蓮正宗総本山大石寺と紛争を起こし、やがて一九九一年
一一月に宗門から破門されることになる。
 日蓮正宗では「本門の本尊」である「弘安二年一〇月一二日の出世の本懐のご本尊」が唯一
正統な本尊と尊崇され、本尊は日蓮正宗にとって唯一最高の信仰対象である。池田氏の本尊模
刻が明らかになったのは一九七八年だが、当時、池田氏の側近中の側近だった中西氏はこの事
件に何らかの関わりがあったと言われている。そしてそれを悔いたがためにか、それとも他の
事情があったのか、池田名誉会長の秘書グループである学会本部の第ー庶務室から聖教新聞に
左遷された。
 中西氏は、いつもポーカーフヱィスで寡黙ながら頭脳は明晰。山のような重要案件を次々と
処理する手際のよさは、周辺からほとんど畏敬の眼差しで見られていた。
 私も中西氏からの電話で、よく学会本部へ呼び出されたものだが、こちらは緊張のしっばな
しだった。秋谷栄之助会長といえども中西氏の前では戦々恐々の態という印象だった。一時期
は池田氏に次ぐ実力者という存在だったのである。
 その中西氏が捨て金庫事件にからんでいるというのが事実とすれば、池田名誉会長に累が及
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ぶ危険性もある。中西氏が造反する可能性もゼロではなかった。
 私は、半信半疑ながら、警察庁サイドから中西氏の名前が出ていることを第一庶務室と秋谷
氏に電話で伝えたが、驚いたことに、既に秋谷氏は事情をすべて承知している様子だった。
 秋谷氏は「中西の線は(学会内部から警察への)完全な夕レコミだ。(中西氏を隠して)第三者
を使ったらばれる。ストレートに行くしかない」と話した。これが本心なら秋谷氏は正論を述
ベたわけだが、とかく判断を保留することが多かった慎重な秋谷氏が、このょうに歯切れ良く
決断したのに私は驚いた。
 電話の後、私は「すぐ来てくれ」と言われ、字会本部六階の会議室で秋谷氏、八尋副会長と
対応を協議した。
「今日、中西に会ったが〝記憶にない〟の一点張りだ。だがニュアンスとしては認めた」
 秋谷氏が険しい表情で状況を説明すると、八尋氏は、どこで調べたのか「中西が昭和四○年
代に着服して個人的に蓄えたもの。横領にはならないが背任になる」と言った。
 八尋氏がいきなり背任という言葉を使ったことに私は心中、反発を覚えた。中西氏は確かに
やり手ではあったが、反面、自己に厳しく、廉直な人柄だと思っていたからだ。金庫の管理者
は中西氏であるとしても、金庫の中の金が中西氏の所有であるとは、にわかに信じられなかっ
た。ちなみにその後、字会が中西氏を背任罪で告発した事実はない。
 八尋氏は学会の顧問弁護士で、元顧問弁護士の山崎正友氏が造反して以来、山崎氏に代わっ
て学会のトラブル処理を担当していた。その八尋氏が「横領」「背任」という言葉を使ったの
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だ。八尋氏の話しぶりからは、もともと学会資金だった金を中四氏が私的に蓄財していたとい
うニュアンスが感じられた。
 秋谷氏が強い口調で言った。
「真実で勝負して、あと中西を処分、除名する。これしか学会と(池田)先生を守る方法はな
い」
 秋谷氏の話では、金庫は聖教新聞社の本社倉庫の隅に置いてあったのを学会関連企業の日本
図書輸送が間違って廃棄した。金庫は戸田城聖二代会長が設立した学会系の金融会社「大蔵商
事」(現•日章)時代から使用されていたというが、池田名誉会長は大蔵商事のやり手営業マ
ンとして戸田氏に手腕を認められ出世の足場を築いたとされている。
「真実で勝負する」という秋谷氏に対し、私が「真実ならそうするしかないが、内部事情を知
る本部職員はそれで納得するのか。それに世間はそう思うか。第一、中西がそう発言するか。
仮に、無実なのに罪を押し付けてしまうと、後で中西が造反しないか。『池田名誉会長がから
んでいる金だ』と中西が言えば重大なことになる」と疑問を呈した。秋谷氏は「まったくそこ
が問題だ」とうなずいた。
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 私たちの協議中にも池田側近の長谷川重夫副会長(第ー庶務室長)から会議室に何度も電話
がかかり、激しいやり取りがあったようで、八尋氏が懸命に事情を説明していた。
 数日後に長谷川氏から私が直接聞いた話では、長谷川氏は最初、秋谷氏に「第三者を立て
る。中西の名前は出すな」と言ったという。長谷川氏の判断は妥当なものと思えた。何しろ、
かって中西氏は池田氏の影のような存在で、中西氏と池田氏を切り離して考える者は学会本部
の中にはいなかった。池田氏を守るためには中西氏を表に出すべきでないと、私も考えていた。
 長谷川氏は学会の絶対権カ者である池田名誉会長の代弁者である。したがって長谷川氏の発
言は池田氏の意向であると考えてよい。それにもかかわらず秋谷氏は山崎氏の名前を出すこと
を選択した。
 「中西が張本人であることは歴然としているので中西の名前を隠すことは不可能」—、秋谷
氏らは独自の情報からそう判断したらしい。学会内部では「驚天動地の出来事に学会首脳部が
大混乱に陥った」「池田名誉会長と秋谷会長の間に何らかの軋櫟があったのではないか」とい
う憶測が流れたが、私にはいずれも誤った情報だと思えた。
 秋谷氏は協議を締めくくるように「どちらにしても明日までは閲係者をマスコミから隠す。
だが月曜日(七月三日)からは逃げ切れない。嘘を言ってしまうと必ずばれると見なければな
らない」と話した後、「こちらは知らんことだから、中西に全部かぶってもらう」と言い放っ
た。
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私は「これが中西氏のしたことなら、先生が邪推される。後が大変だ。中西氏の処分はリア
クションが大きい。慎重にされたほうがよい」と述べるに留めた。
 内心では「仮に金庫が中西氏のものと特定できても、その中の一億七〇〇〇万円はいったい
誰のものだろうか」と疑念を持ったが、それは黙っていた。
────────────────◇────────────(引用ここまで、つづく)
昨晩、私の夢に〝マルクス〟が出てきまして、〝俺のコメント書け〟との要求です。ハイ、どうぞ‥
マルクス…「宗教はアヘンなり‥‥」
??‥ありがとうございました。
コメント
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