創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

サヨナラ 私の池田大作-№Ⅱ-25

2017-06-21 09:02:17 | Weblog

サヨナラ 私の池田大作-パートⅡ 創価学会・公明党を糾すOB有志の会・編者
                 <2016/5・人間の科学新社、1,512->
 ------(143P)---(以下本文)-------

“言論出版妨害事件”の当事者として  岩崎文彦
                          元聖教新聞社出版総局職員
                          妙光寺信徒
                          神奈川県川崎市宮前区在住
大学卒業時、幹部の指導で本部職員を受験
 私は1943年(昭和18年3月)中国大陸の内モンゴル包頭(現中華人民共和国モンゴル自治区包頭市)というところで生まれました。当時父がこの地区の商工会議所の責任者をしており、2階建て洋館に住み二人のメイドさんを雇う比較的裕福な生活を送っていたようです。しかし1945年(昭和20年)の終戦により暮らしは一変。中国から引き揚げることになり、地獄のような辛酸をなめ命からがら日本へ帰還しました。多くの犠牲者をだし、引揚者の中には子どもを中国人に預ける人、やむを得ず置き去りにせざるを得なかった人もいたそうです。
 帰国の過程で死亡や行方不明となった人も多く、数万人に上る孤児が生じたといわれています。
 いわゆる中国残留孤児と言われる人たちです。1972年(昭和47年)の日中国交正常化の後、数千人の人は日本への永住帰国が実現していますが戦後27年のことです。中国残留孤児と言われる人は私と同年配の方が多く、決して他人事とは思えませんでした。戦争の悲惨さは今更言うまでもありません。
 ところで創価学会との出会いは私が中学生のころ母が入会していましたが、私は宗教には批判的でしたので、創価学会に関する母の話に耳を傾けることはありませんでした。しかし大学受験に失敗し、浪人をしていた時に隣家に住む中年の夫婦から折伏を受け、罰と功徳の話に反発していましたが、あまりの熱心さに負けて散々悩んだ末昭和38年2月、19歳の時に品川の妙光寺にて御授戒を受けました。入会後は第一志望の大学ではなかったものの滑り込み受験した大学へ入り、入学後は学生部員として真面目に学会活動に励むようになりました。その後グループ長を経て大学4年の時には多くの部員を預かる部長となり、使命感を持って学生部を中心に学会活動に没頭していました。
 就職活動も早い段階である会社から内定を受けており、その会社へ入るつもりでいました。ところが組織の上層部より創価学会本部職員の試験を受けるようにとの指導があり、気が進まなかったのですが学生部の部長職という立場から断ることもできず、しぶしぶながら受験しました。内心不合格を望んでいたのですが意に反して本部職員に採用が決まり、配属されたのは聖教新聞社出版総局でした。

聖教新聞社に配属され、一般書店回リ
 新聞社での仕事は決められた地域の書店回りで、主に小説「人間革命」など池田大作会長の著作を書棚に置いてもらい、書店内にコーナーを確保することが日常の業務でした。入社間もないある日、聖教新聞社出版総局で残業をしていたところ、池田会長が三人ほどの大幹部を帯同して現れ、橫松総局長が私を池田会長に紹介しました。池田会長は私の顔をじろっと見て「ううん、なかなかいい男だね。君とは300年ぶりに会ったね」などと意味不明なことを言い、何か激励でもあるのかと思いましたが、それはありませんでした。冷蔵庫からオレンジジュースを持ってこさせ、自分で口をつけてから、私へと回し飲みをすすめられ逆らわずに飲みました。そして他愛無い話をして立ち去っていきました。日頃本部幹部会などで遠くから見ていたのとは違い、背が低くて小太りなおじさんという感じで決して品性や知性を感じさせるものはなく、宗教指導者という雰囲気もまったくありませんでした。
 聖教新聞社へ入社してから一年を過ぎた昭和44年頃、創価学会は「言論出版妨害事件」を起こしました。昭和35年、池田大作は32歳の若さで創価学会第三代会長に就任。昭和40年頃、池田氏は評論家の高瀬広居氏のインタビューに応え「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想文化一切の指導者・最高権力者である」などと発言しており、人格や精神状態を疑わせるような極めつけの慢心伏態にあったと言えます。
 その5年後、会長就任から約10年目、“天下を取る”ことを公然と言っていた時期にこの「言論出版妨害事件」が起きました。公明党を手駒にし、総体革命路線の進展とともに、池田氏は本気で総理大臣になるつもりだったようです。
 ある時、竹入公明党委員長が池田会長を国会に案内した折に、「この次先生が国会へ来られるときは、総理大臣としてお迎えします」ということを話したと聞いたことがありますが、このことからも池田大作の本気度ぶりがうかがえます。
 しかし、日本を支配するというシナリオを根本的に狂わせたのが、この「言論出版妨害事件」であったと私は思っています。

昭和45年総局長の指示で書店に圧力をかける
 先にも述べましたが当時私は、聖教新聞社の出版総局で仕事をしており、入社以来私の日常的な業務は書店回りです。書棚に聖教新聞社出版の刊行物や単行本、池田会長の著作本をコーナーに置かせてもらったり、啓発していくことが仕事でした。
 ある時、業務局に各部局から内々で19名ほどの職員が緊急に集められました。各部局というのは、聖教新聞社はじめ、潮出版社等外郭企業の職員も含まれています。いわゆる、一般書店に出入りしている職員たちでした。
 橫松昭出版総局長(当時)と青柳清出版局次長(当時)がこの「言論出版妨害事件」の現場実行班の責任者として私たちを招集したのです。横松氏の上には北条浩氏(第四代会長)がいて、それは当然池田大作の命令があってのことです。昭和45年のことでした。横松氏は「実は藤原弘達が『創価学会を斬る』という批判本を出した。ついてはそれぞれ担当地区の書店を回り、本屋の店頭からその本を引っこめさせてくれ」という指令が出たのです。
 招集された19名は、マニュアル通りに都内の書店を一軒一軒回り、『創価学会を斬る』という本を並べるようだったら、今後は『人間革命-(当時学会員は書店で買うように指示されており、ベストセラーになっていたので書店では大きな利益を得ている)を扱わせませんよといって書店に圧力をかけていきました。
 私も担当地区である新宿の書店を訪ねると、その本は一番目立つ場所に並んでいました。店長に挨拶し、「聖教新聞社の者ですが、ここにある本を売らないように、なんとか協力してもらえないでしようか」と言ったんです。すると店長が突然豹変して「いや、なんですか、あなたは。この本は売るためにあるので、売る権利は私にあるでしょう」と至極当然のことを声を荒げて言われたんです。返す言葉もなく、私はすごすごと書店から引き揚げざるを得ませんでした。
 こうした一連の出版妨害により、各所で問題が噴出しはじめました。たとえば、当時民社党の塚本書記長や、日本共産党の松本善明議員等が国会で“言論出版妨害事件”の追及をしたのです。さらにマスコミが一斉に動き出し創価学会の独善的な体質を追求し始めました。
 私たちが実際に書店に圧力をかけている実行犯なので、聖教新聞社職員の名前も証拠として提出されていますから、逃れようがありませんでした。書店まわりをしているある日、喫茶店で“創価学会を斬る”を読んでみたんです。すると読み進むほどに引き込まれ、「公明党と創価学会は政教一致している」など、藤原弘達氏の言っていることは全くその通りで頷けることばかり…感銘もしました。自分自身が目覚めた思いです。
       ---------(147P)-------つづく--

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