創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会に未来はあるか?-29

2019-03-18 09:14:22 | Weblog

 〈「興」から「亡」へ動き出した巨大集団の実相 〉  1979/昭和54
創価学会に未来はあるか     藤原弘達/内藤国夫    曰新報道出版
    ------(P.152)---(以下、本文)-------

自民党のつっかい棒としての公明党
藤原 公明党のキャッチフレーズは、既成政党にない清新さであったわけだが、その清新さがだんだん汚れてきて、メッキがはげてしまい、既成政党化してしまったんじゃ、公明党の魅力はいよいよなくなってしまうわけだ。外面ばかりきれいごとを言って、塗り変えてみても、中身で駆け引きばかり使って、汚ないことをやっていたんでは、自然と腐朽してくる。創価学会の力に守られて、タブー化していたころならいいだろうが、今日のように、創価学会の力が弱くなり、その庇護もあまり当てにはならなくなってくると、いろいろと汚ない手口も表面化してくる。もともとしっかりした理念や理想というバックボーンを持った人間の集団でないだけに、外部からその恥部や弱点を批判されるとモロイところがある。

内藤 ここ数年来、創価学会・公明党も、完全に頭打ちの状態にあるのは動かしがたい事実だ。そういう力べに直面している公明党にとって唯一のというか、これから脱皮し、さらに伸びていく、息を吹き返すチャンスがあるかといえば、それは、自民党が国会で過半数を割ることです。つまり、東京都議会など大都市の地方議会で生じている現象が国会でもいずれ到来するかどうかにかかっている、とぼくは見ているんです。公明党自身も、そうなるためにかなり、なりふりかまわずと思われるくらい、昨日は自民党に媚を売り、今日は民社や新自由クラブ、社民連と中道革新ということで手を握り、明日になれば野党共闘だといって社会党や共産党と肩を組む、といったようにゆさぶりをかけるでしよう。
 一般国民の常識の目で見た場合、公明党というのは糸の切れた風船のように、その場その場の風向き加減で、勝ち目のありそうな方へなびいたりして、主体性のない政党だなァ、といった感じが強いでしょうが、公明党にとってはこれも生き伸びていくための、試行錯誤しながらの模索じゃないのかな、と同情的に見てるのですが。

藤原 それだけがむしろ念願なんだよ。彼らにとっては日蓮の、それ国難きたる、蒙古襲来だ、と同じような調子で、それ伸びるチャンスだ、ガンバレ、ガンバレと言っている。もっとも、それが日蓮以来の日蓮正宗の伝統なんだよ。平時だと誰も見向いてくれない、だから平地に乱を起こすようにする。大変だ! 大変だ! と騒ぎ続けて、民心を不安に駆り立てる。そして自分たちがあたかも救世主のようにして乗り出していく。
 現在の国会がそうじゃないか。民主主義の基本というものは、少なくとも二大政党によって、いつでも政権の交替ができるようになることが一番なんだ。だとすれば、与野党伯仲というのなら、小異を捨てて大同につくくらいの広い心で、社会党を中心にして自民党と対決し、政権交替をうながす、これが一般的な筋道なんだ。それをチョコマ力と策をろうして、オレたちがキャスティングボートを握つているんだぞと、チラチラさせて権力のおこぼれをもらっては、これだけの成果があったといって、喜んでいるだけじやないか。
内藤 まあ、社会党を中心にといっても、その社会党自身が、いまや自信を喪失し、現状維持に汲々という状態ですからねえ。どうも日本の政界の場合は、ちょっと適切な言い換えではないかも知れませんが、自民党ひとりが一人前の大人で、社会に出て働いて稼いできては、家庭を維持している。そのためいつも現実に妥協ばかり繰り返して、あっちコッちにペコペコ頭を下げているので、なんとなく頼りなげに見えるけど、好き嫌いは別にしてとにかく一家の大黒柱であることには変わりない。
 これに比べると大学生の兄貴である社会党は、オヤジはダメだ、ダメだといっているばかりで、それじゃ自分がオヤジに代って一家の大黒柱になれるか、というと訓練不足もあり、どうも実行力はなさそうで、せいぜいバイトで稼ぐくらいしか期待できそうにない。高校生の公明党や民社党は、口先ではオヤジは古いだのフィーリングが合わないだのといっていながら、オヤジとソリのあわない兄貴と一緒にいては小使銭が貰えないので、オヤジに媚を売っては、適当に小使いを貰っている。その下の新自由クラブや社民連は小学生で、高校生の兄貴の後にくっついていた方が、小使いのおこぼれにありつくから、そっちについていく、とこんな状況だとでもいおうか。
 そうそう、共産党は、ハラ違いの別格の兄弟とでもいっておきますか。

藤原 先日大平総理と会った時、彼が言ったのは、今の自民党が考えていることは、中道といわれている連中との連立なんて全然考えていない。 むしろ、国会運営上、東京都知事選挙で中道主導型といった形で知事選挙を勝ったように、あくまでも中間政党というのは、利用できる間だけ利用するんだ、といった態度だった。
 公明党もこの辺については、最近かなり厳しく感じていると思うんだ。自民党としては、連立だの何だのといわずに、公明党にしろ、民社党にしろ、そんなに大臣の椅子が欲しいんだったら、それぞれ党を解散して自民党に入党すればいいじやないか、といった腹なんだな。ただ、政党同士が陰でコソコン取り引きをするからいかん。正々堂々と公明党を解散して中間政党をつくって、民社と合併して社会党の右派までを引っばりこむ。これなら立派に一つの政党になれる。そのときは、創価学会は支援団体にしとけばいい。そうなった時に、はじめて公明党は脱皮したことになるんだ。
 いつまでも乳離れのできない社会人一年生みたいに、創価学会という支持団体の保護でノウノウとしていたんでは、とても一人前の一人歩きのできる政党とはいえない。
 自民党が本命として考えるべきことは、新自由クラブを呼び戻すべきことなんだ。西岡武夫や山ロ敏夫なんてのは、ちょっとカッコウをつけたがるドラ息子なんだから、カッコウつけて家を飛び出したのはいいが、自分たちだけではうまくいきそうにない、もう帰りたくてしょうがないんだ。大義名分さえたてば、今すぐにでも帰りたいんだから。
 新自由クラブの分裂騒動も根本の原因は、ここらで手を打って帰ろうという西岡武夫と、一度家を出た以上は、オヤジが頭を下げて迎えにくるまでは意地でも帰れるもんか、という河野洋平の意見の対立にしかすぎないんだ。どっちも帰りたいという気持ちは同じでも、その方法が違っている。西岡はガマンできないから手ぶらで帰ろうとしているし、河野は公明、民社、社民連というミヤゲを持って帰りたい、といった違いだけなんだ。
 だからぼくは、今自民党のすることは、まず新自由クラプを抱き込みなさい、そして次には民社と公明の分断策をやる。佐々木良作に大臣の椅子の一つもくれてやれば、公明なんかほったらかしにしても、やがてホイホイ尻尾をふってやってくるだろうと。

内藤 しかし過半数を失わんとする自民党のつっかい棒としては、新自由クラブや民社党よりも、やっぱり公明党の方が頼りがいがあるんじやないですか。たんに議員の数が多いということだけではなく、強固な組織、安定している組織ということを考えた場合、新自由クラブは論外としても、同盟一本槍の民社党に比べて、公明党の方が社会の底辺層にどっしりパイプをおろしているだけに、幅が広いし、創価学会というパイプを通じて、それなりの安定性も高い。
 少なくとも、公明党にはそれだけの自負がありますョ。
藤原 そりや選挙の時だけだ。公明党議員一人一人を見ても下士官的役割以上のことができそうなのがいますか。
 民社党にしても同じようなもんだ。彼らを大臣にして、現在の優秀な官僚を相手に、使いこなせるだけの才能、器量を持ったものは殆ど見あたらんじゃないですか。要するに違挙用プロパンガスにしかすぎない。使ってしまえば、ハイそれまでよ(笑い)。彼ら自身も、うすうすながら自分たちの役割については気づいていると思うよ。
 だからこそ、東京都知事選や大阪府知事選といった時には、お先棒かついで精一杯威勢よくやって自民党の機嫌をとりむすんでいるんだ。

内藤 相変わらずの悪口雑言、いいたい放題ですね。それはともかく、自民党が過半数を割る日は、遅かれ早かれいずれくるだろうし、そうなってほしいとも思っているのですが、ただその時に、藤原さんのいうように、自民党のつっかい棒になるのが、新自由クラブや民社党ではなくて、やはり公明党がキャスチングボートを握るのではないか、とぼくは考えます。そうなった時には、今当面している力べを乗りこえて、公明党が勢いをつけるでしようし、創価学会もそれにつれて勢いづくような、そんな時代がいつかはくるのではないかと、これはあくまでもぼくのカンというか、主観的な見方なのですが、日本の危機到来の日でもあると、ぼくにはそう思えるんです。

藤原 公明党にはね、学歴コンプレックスのようなものがある。彼らには、高級官僚とかエリートコースで役人になったものとかが、一番偉いとどこかで思っている、抜きがたいコンプレックスがある。その一番良い例が、東京にしても大阪にしても、知事選挙になると高級官僚をかつぎ出していることだ。
 だから彼らは、自分たちがリーダーになることよりも、むしろ比較的ニュートラルな官僚勢力を頭上にいただいて、自分たちは下士官的立場のなかに安全弁を求めている。支柱になりさえすればよいと思っている。
 しかし、こういう勢力を受け入れるかどうかは、権力政党としての自民党の側の問題であるから、しきりに媚を売ることしかできない。自民党としては、安易にこれを容認すべきじゃないだろうし、また今の自民党は、いかに門戸を広く開けているといっても、一兵卒ならいざ知らず、そこまで彼等とは安易には妥協しないだろうとぼくは思っている。
内藤 しかし、地方自治体の首長選挙の候補者選びなんかを見ると、いまや、完全に公明党に先行してもらって自民党が後から合い乗りする、といった形が主流になろうとしている。もちろん、事前の根回し、舞台うらでの話しあいは自・公両党で十分に重ねたうえでの、形だけの公明先行でしかないのですけれども……。それが東京にしろ、大阪にしろ、神奈川にしろ一応の成功をおさめている。前の東京都知事、美濃部さんだって、その回顧綠では公明党が一番頼りになったと書いている始末です。太田薫さんなど社会党の一部の人たちが今頃になって“美濃部なんて少しも革新じやない、ただ革新のポ—ズを取っていただけの“貴族趣味的ブルジョァ知事じやないか”とイヤミをいってみたところでもう遅い。
 そう批判する太田氏自身、都知事選立候補に当たっては、公明党の支持をとりつけようと、ムダなユメを追っていたのだし、美濃部都政十二年間も公明党のご機嫌とりに終始したといってよい。地方自治体ではすでにして“公明党の天下”が始まっているのですよ。公明党の動向次第で議案が可決も否決もされるのですから。

 そして、この地方政治にみられる公明党優位の現象が、いずれ、国政レベルでも生じるようになる、とぼくは半ば確信しているんです。いくら藤原さんが自民党に対して、公明党と手を握るのはファシズムの危険性があると警告しても、自民党にとっては現実に過半数を割った場合、助っ人となるのは公明党であると地方政治の体験からも知っていますから、つっかい棒として公明党を必要とせざるをえなくなる。反自民を唱える公明党とよしみを通じる。そこに自民党の悩み、パラドックスがある。

藤原 自民党としては今度の選挙(昭和五十四年秋の衆議院通挙)で、反自民戦線をなんとか分解したい、といった必然的な欲求を持っている。このままの傾向が続けば、たしかにジリ貧になりかねないんだが、その前に相手の戦線を分裂させて、相対的に自分たちの比重を高めたい。そのためには公明党を利用するのが一番いいかも知れない。自由主義政党としては、公明党は最も異質で、異端だからね。しかし、利用することはあっても、自民党の陣営に引っぱり込むというのは、個々の自治体選挙の場合にはありえても、国政選挙となるとやはり不可能だろう、というのがぼくの考えなんだ。国政レべルと地方政治レべルの差みたいなものが厳然としてあるからね。
 もっとも、そのうちに自民党も分解する段階がこないとはいえない。そのとき、公明党をかかえる勢力と公明党を排除する勢力といった色分けが、官僚をいただくか、官僚をいただくことを排するかといった選択とともに大きな政治的意味をもつ段階は、けっこうくるかも知れない。いずれにしても、内藤君のいう地方政治での公明党主導型が、国政での官僚主導型をみちびく呼び水になりながら、日本型のファシズムは進行していくという判断を私はしている。そうさせないように、警鐘はこれからも一貫してならしつづけるつもりさ。
     ----------(次回に、つづく)---------160

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 創価学会に未来はあるか?-28 | トップ | 創価学会に未来はあるか?-30 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事