村上春樹の小説『1Q84』の第二巻を読み終えた。一巻とおなじく五百頁越えの大作だが、遅読みの自分にしては二日で読めた。不思議なほどにスラスラ読めてしまうのは、文体がやわらかで物語の構造がわかりやすいからだ。おもしろいかと言えば大手を振って断言できはしないが、続きが気になってしかたないマジックはある。
この物語の主人公は三十路間近のふたりの男女、青豆と天吾だ。
とうしょ、交互に語られるこのふたりの時間軸はまじまることなく、しかもいっぽうが作家の卵であることから、語られる者と語られたものという関係ではと疑ったのではそうではなかった。この二巻で、明瞭にこのふたりが幼年時代にこころを結びあったことが明らかになる。となれば、話の中心にあるのは、二十年(!)もたがいの姿を知らずに、しかし、互いの魂を求めあってしまう男女の純愛ということになるのだが。
現代版必殺仕置き人というべき青豆は、慈善家である老婦人の依頼をうけて、あるカルト宗教のリーダーの抹殺におもむくことになる。第一巻からすでに明らかになっているが、彼女は冷酷そうにみえて血も涙もない連続殺人鬼ではない。気丈に見えながら、女として弱さが露呈される面もある。
いっぽう、女子高生の文章をリライトしてベストセラー作家にしたてるという計画に荷担してしまった天吾。罪悪感にかられ、自分の表現を探ろうとするのだが、その矢先、当の女子高生が失踪し、また彼の周辺を不審人物がうろつきはじめる。
青豆と天吾とのそれぞれの世界は、そのカルト宗教への間接的関与を通じて接近していくことになり、ついにはニアミスというところまでたどりつく。しかし、接触することはできない。女は鋭いが、男がとかく鈍い。女は一途に男を想って身を捨てる覚悟をしてしまうのだが、男はそれと知らず、またゆきずりの不埒な行為にいたってしまう。ファンタジーでごまかされてはいるが、現実にあったとしたら、あきらかに犯罪に違いない。もちろん正義の鉄槌だとはいっても、女の暗躍も許されるものではなかろうが。悪く言えば、エロゲーのような男性主人公がむやみやたらとモテてしまう状況。男性が凌駕し、克服すべき大きな敵方は存在せず、ただ流されていくだけだ。天吾は平均的以上にいい男で誰かを傷つけるタイプではないが、いささかものたりない。十歳のときの温かみにすがって互いに思慕の念をつのらせている男女もどこか不自然で、ひょっとしたら、懐旧心や空想の存在に恋する同年代を揶揄しているのではないかしらとも勘繰ってしまう。
この二巻がいささか消化不良に感じたのは、青豆と天吾の周囲にいる傍役たちがつぎつぎに理由もなくすがたを消していて、その後が描かれてはいないことだ。むろん、それは次なる三巻を待てということなのだろうが。分かりやすいと言えば分かりやすい物語だが、その明瞭さは、本文中に引用されているように、どこかの映画(もしくは往年の名作アニメや漫画)のなかで見かけたシーンを思い起こすからなのだろう。たとえば、認知症になった老父と息子の和解シーンしかり。また「リトルピープル」なるものについても杳としてつかめない。空也上人の木像の口からでてくる仏陀のようなものを思わせる描写があったのだが、なにかのメタファーなのだろうか。
また登場人物たちはなぜかほとんどが読書好きらしく、古今東西の名著のワンシーンを引き合いに出して人生を語る。それはビブリオマニアとしてはおもしろいのだろうが、たとえば老婦人のいかついボディガードのように、とうしょ無口で強面だった人物が、いきなりチェーホフについて語るというのもなんだか奇妙なものだ。そのようなことが続くと、どのキャラもみな、作者の分身像、あるいは蘊蓄を傾けさせるツールのようなものでしか思えなくなって、人物としての重みがなくなり、人間ドラマとしての緊迫感が失せる。作家としての苦悩を語らせ同業者の関心を買うにはよいが、小説に人生の意義を見出そうとする人間にとってはいまいち熱くこみあげてくるものがなく、ぬるま湯に浸かっているようなものたりなさ。
また、後半では天吾がひそかにリライトしたベストセラー小説の中身が、青豆の視点ではじめて読書に紹介される。その小説をベタ褒めに褒めちぎっているのだが、いざその紹介の部分は中学生が書いたような概要で、その良さがまったくもって伝わってこないのだ。ならば、いっそのことその中身を直接引用するという形式にすればよかったのにと思うだが。物語にべつの物語を内包させるという劇中劇の構造はしばしば作家がよく用いるのだが、そのあつかいが不完全なような気がする。しかも、この二巻の書きぶりからすれば、その劇中劇の中身もじつはあってもなくてもいいようなものにすら思える。
また執拗に描写しその存在を煽りながら、けっきょくは話の中心力にはならないようなものが多く(青豆の手にした銃など)、頁を無駄にさせられているような気がしないでもない。それでもやたらめったら改行をして頁数を稼いでいるようなライトノベルよりは数段、熟達した味わいがあるのは事実だが。
とはいえ、先は気になるので、第三巻まではしっかり読むつもりだ。
総合的な評価はそれからでも遅くはない。しかし、一度読んだら、二度と読みかえす必要はない。さらさらと読めるうまさはあるが、なにか考えさせてくれるものではない。すくなくとも自分にとっては。それとこれはぜったいに高校や大学の図書館には置いてはいけない類の本だろう。
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1Q84 BOOK 2 | |
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この物語の主人公は三十路間近のふたりの男女、青豆と天吾だ。
とうしょ、交互に語られるこのふたりの時間軸はまじまることなく、しかもいっぽうが作家の卵であることから、語られる者と語られたものという関係ではと疑ったのではそうではなかった。この二巻で、明瞭にこのふたりが幼年時代にこころを結びあったことが明らかになる。となれば、話の中心にあるのは、二十年(!)もたがいの姿を知らずに、しかし、互いの魂を求めあってしまう男女の純愛ということになるのだが。
現代版必殺仕置き人というべき青豆は、慈善家である老婦人の依頼をうけて、あるカルト宗教のリーダーの抹殺におもむくことになる。第一巻からすでに明らかになっているが、彼女は冷酷そうにみえて血も涙もない連続殺人鬼ではない。気丈に見えながら、女として弱さが露呈される面もある。
いっぽう、女子高生の文章をリライトしてベストセラー作家にしたてるという計画に荷担してしまった天吾。罪悪感にかられ、自分の表現を探ろうとするのだが、その矢先、当の女子高生が失踪し、また彼の周辺を不審人物がうろつきはじめる。
青豆と天吾とのそれぞれの世界は、そのカルト宗教への間接的関与を通じて接近していくことになり、ついにはニアミスというところまでたどりつく。しかし、接触することはできない。女は鋭いが、男がとかく鈍い。女は一途に男を想って身を捨てる覚悟をしてしまうのだが、男はそれと知らず、またゆきずりの不埒な行為にいたってしまう。ファンタジーでごまかされてはいるが、現実にあったとしたら、あきらかに犯罪に違いない。もちろん正義の鉄槌だとはいっても、女の暗躍も許されるものではなかろうが。悪く言えば、エロゲーのような男性主人公がむやみやたらとモテてしまう状況。男性が凌駕し、克服すべき大きな敵方は存在せず、ただ流されていくだけだ。天吾は平均的以上にいい男で誰かを傷つけるタイプではないが、いささかものたりない。十歳のときの温かみにすがって互いに思慕の念をつのらせている男女もどこか不自然で、ひょっとしたら、懐旧心や空想の存在に恋する同年代を揶揄しているのではないかしらとも勘繰ってしまう。
この二巻がいささか消化不良に感じたのは、青豆と天吾の周囲にいる傍役たちがつぎつぎに理由もなくすがたを消していて、その後が描かれてはいないことだ。むろん、それは次なる三巻を待てということなのだろうが。分かりやすいと言えば分かりやすい物語だが、その明瞭さは、本文中に引用されているように、どこかの映画(もしくは往年の名作アニメや漫画)のなかで見かけたシーンを思い起こすからなのだろう。たとえば、認知症になった老父と息子の和解シーンしかり。また「リトルピープル」なるものについても杳としてつかめない。空也上人の木像の口からでてくる仏陀のようなものを思わせる描写があったのだが、なにかのメタファーなのだろうか。
また登場人物たちはなぜかほとんどが読書好きらしく、古今東西の名著のワンシーンを引き合いに出して人生を語る。それはビブリオマニアとしてはおもしろいのだろうが、たとえば老婦人のいかついボディガードのように、とうしょ無口で強面だった人物が、いきなりチェーホフについて語るというのもなんだか奇妙なものだ。そのようなことが続くと、どのキャラもみな、作者の分身像、あるいは蘊蓄を傾けさせるツールのようなものでしか思えなくなって、人物としての重みがなくなり、人間ドラマとしての緊迫感が失せる。作家としての苦悩を語らせ同業者の関心を買うにはよいが、小説に人生の意義を見出そうとする人間にとってはいまいち熱くこみあげてくるものがなく、ぬるま湯に浸かっているようなものたりなさ。
また、後半では天吾がひそかにリライトしたベストセラー小説の中身が、青豆の視点ではじめて読書に紹介される。その小説をベタ褒めに褒めちぎっているのだが、いざその紹介の部分は中学生が書いたような概要で、その良さがまったくもって伝わってこないのだ。ならば、いっそのことその中身を直接引用するという形式にすればよかったのにと思うだが。物語にべつの物語を内包させるという劇中劇の構造はしばしば作家がよく用いるのだが、そのあつかいが不完全なような気がする。しかも、この二巻の書きぶりからすれば、その劇中劇の中身もじつはあってもなくてもいいようなものにすら思える。
また執拗に描写しその存在を煽りながら、けっきょくは話の中心力にはならないようなものが多く(青豆の手にした銃など)、頁を無駄にさせられているような気がしないでもない。それでもやたらめったら改行をして頁数を稼いでいるようなライトノベルよりは数段、熟達した味わいがあるのは事実だが。
とはいえ、先は気になるので、第三巻まではしっかり読むつもりだ。
総合的な評価はそれからでも遅くはない。しかし、一度読んだら、二度と読みかえす必要はない。さらさらと読めるうまさはあるが、なにか考えさせてくれるものではない。すくなくとも自分にとっては。それとこれはぜったいに高校や大学の図書館には置いてはいけない類の本だろう。
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小説『1Q84』 BOOK1
村上春樹のベストセラー小説。女は夜な夜な罪に問われない罪人を罰し、男は行きずりで文学界のスキャンダルに荷担してしまう。
そして、何度も読んでも飽きられないことか。
最近の新作に登場した曲が小説を読めれば読むほど聞きたくなった、ついCDを購入しました。曲を聞きながら、小説を読んで、なんとか、村上春樹さんと同感したような感じをします。おすすめです。
ちなみに、ブログにも感想を書いていた。是非、ご覧ください。
http://classiccat.seesaa.net/article/360915229.html?1368436377
ストーリーは納得できないけれど、その絵柄が好みで積年のファンになっている漫画作品のように、氏の物語よりも、その陶酔すべき文体に魅せられてしまう人が多いのかな、とも思います。読みやすいことは読みやすいですしね。作家として、コンスタントに作品を創出できる力量はすばらしく、翻訳家でもあり、海外のメディアに意見できる影響力は素晴らしいですね。
貴重なコメント有難うございました。
ブログも拝読させていただきました。