陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

ユートピア頼りにしないために、ユートピア便り

2009-04-26 | 教育・資格・学問・子ども

どんな理想の未来像を描きますか、と問われたら困ってしまう。
たぶん、いまの日本、とくにある年代以下の無気力層はそうでないかと思う。
青写真というものが、そこに現像された世界が実現不可能だったにせよ、写真自体の存在が前提とされるように、未来を描くには希望という感光材が必要だ。しかし、私にはそれがない。

そこで私はある未来小説を手がかりとしよう。
十九世紀の英国の工芸家であり、社会運動家であり、そして詩人でもあるウィリアム・モリスのよく知られた著作に『ユートピアだより』がある。

この著は一八九〇年に発表され当時一世を風靡した話題作だった。五十六歳のゲスト(主人公だが名前がなく、客人と呼ばれている)氏が、数十年後の未来の英国を体験した夢物語として語られる。未来をみるといっても、SFではないのは、その未来に一種のアナクロニスムが巣くっているからだ。
ゲストが旅した世界は、一九六二年のロンドンで、私たちからみればすでに過去の時代だ。
そこは、工場の煙で薄汚れた空もなく、川は澄み、翠はあふれ美しい自然がひろがっている。労働は喜びで、機械を補助的に使用するので人間の労働量は少なくてすむ。労働の報酬は創造の喜びなのであって、資本の搾取などはない。強いられた思想の教育はなく、議会や裁判所、そして国家すらもない。ようするに、政治が幅をきかせない。人びとは、若々しく健康な心身をもち、その姿はとても美しい。恋愛によって結びついた男女は、すこやかな子どもを産み、家庭をもっている。

このユートピア像は、モリスのおかれた当時の英国の社会状況と照らして考えるべきだろう。
エリザベス一世治世下のヴィクトリア王朝時代に、世界の覇権を握り植民地を拡大した英国は、十九世紀中葉までに産業革命を達成し豊かな経済をきずきあげた。しかし、それはすくないミドルクラス、アッパークラスの企業家が多くの労働者を支配するという資本主義、それに与する者と挑む者との対立がうみだした階級闘争社会だった。効率のよい分業制によって、労働者はつくる喜びを奪われ、自由も奪われ、公害にからだを蝕まれた。すぐれた熟練工や優秀な工匠は機械によって仕事をうしない、増えたのは奴隷のように働かせられる白人の低所得者層である。政府は一八四六年の貿易自由化(その最たる例が清国にアヘンを売りつけて銀をまきあげたことだろう)によって、植民地からまきあげた利益のおこぼれを労働者階級にもばらまくことで、敵対の牙を抜いた。
こうして世界のトップにたつ英国の繁栄はゆるぎないものとなるも、一八七三年から九七年までの未曾有の大不況が、英国の自由主義経済の停滞をもたらし、米国やドイツの後塵を拝していくこととなる。人びとは不況のために、精神不安となり、共産主義への傾倒が高まった。アイルランドの独立運動を語る際に外せない「血の日曜日」事件は八七年に発生し、トラファルガー広場で多くの死傷者を出した。

この著は、社会主義者同盟に加盟していたが、急進的な無政府主義者によって機関誌主筆の座を追われたモリスが、その社会の理想像を書き起こした作だった。つまりみずからの手では実現できなかったので、小説として夢の王国を建設した。はたして、それは理想の未来だったのか?
ゲスト氏がトリップした世界には、貨幣がないので、資本階級がうまれない。女性は品のよさを失わないが、石彫りの仕事など創造的な大仕事にも従事して、活き活きとしている。男性は銃や刀など武力にうったえる乱暴なところがない。この部分は、現代にもいちぶ体現されているようにも思われる。

しかし、これは言うなれば、絶望と挫折の時代に生きたある芸術家の倒錯的な理想像といえなくもない。
モリスの描く女性は、彼の結婚生活の破綻からくるものであろうし、この世界の人びとの衣装は中世ゴシックふうをまねたものだ。つまり、未来を講じていながらも、その実、これは彼のセンチメンタルな懐古主義なのである。

『ユートピアだより』の最後は、つぎのような一節でくくられる。
いわく、ゲスト氏がみた夢を多くの人がみるのならば、それはひとつのヴィジョンとなるだろう、と。理想のロンドンに住まう人びとは、この異邦者が過去の不幸な時代からの旅人であるがゆえに、自分たちの新しい幸福にはうんざりしてしまう、と語りかける。なぜなら、それは彼の現実ではないからだ。この幸福な時代をかちとるために、過去に戻って努力なさいと告げるのである。

さて、この著が書かれた背景、経済不安による精神の荒廃、階級格差というのは現在の日本にもあてはまるかと思われる。
しかし、二〇世紀までと異なるのは、すでに世界市場が飽和状態で、かつモリスが夢見たような共産主義の破綻を歴史が経験してきたことだ。東西ドイツの統合やソビエト連邦の解体がそれである。アメリカ経済の後退によって、資本主義が否定されているが、かといって資本の原理がなくなることはないだろう。景気の回復が投資だという確固たる信念が支配している限り。

そしてまた、労働の対価が創造の喜びであるという主張はたいへん好ましいが、よしんば、報酬が金銭でなくとも、人びとは物づくりに精神的対価をもとめたがる。それは、社会からの賞賛ということであり、美学的価値ということである。したがって、手仕事が中心ならば、商品のよしあしに差はでようし、そこに階級は生まれる。
芸術こそが社会のヒエラルキーに抗するとさんざん言われてきたが、しかし悲しいことに、革命的な芸術ほど差異とたえまない闘争とを、それ自体のなかに求めてしまうのである。

また、創造的ととらえようがない仕事の場合、そこにまったくの金銭報酬がなければ、労働意欲をうしなってしまうだろう。
また、貨幣経済でなく、物々交換経済におちいったとすれば、ひじょうに効率の悪い経済が成立してしまう。貧富が存在しなければ、他人から奪おうとする犯罪者はいなくなるかもしれないが、そのかわり、努力もしなくなるだろう。
仕事をしてお金をもらっているというプロフェッショナルとしての自覚が薄れるので、人びとは職業に人格を投影しなくなり、海千山千のアマチュア職人と大差なくなってしまう。
この現象は、公式にオーソリティのある機関の審査をへて著作を発表したわけでもなく、ネットや同人誌など自費出版というあくまで趣味の範囲で書いているに過ぎないのに、自分を本職の作家だいわんばかりに自称している人の多い現代では、まったく実現されている。
私は意味のない平等主義的な、しかしあいまいな評価で判断されるぐらいなら、いっそのこと、売れる売れない、で判断されるほうが健全だと思う。

そして、いちばんモリスの時代と異なることは、現代日本はもはや右肩あがりの成長を期待できないということ。終身雇用がくずれたので、若者はつねに不安定な労働形態におかれ、実力主義とは名ばかりで、老人世代が自分の安寧を図るために若者を故意にこきつかい、無能者よばわりしているにすぎない。海外に市場をひらこうにも、新進国が経済力をつけてきているので、国際的な価格競争として、けっきょく国内の労働力を削るしかない。ゆとり教育で学力を落とし、稚拙なネットの風俗にふけり、ビジネスマナーも身に着けられなかった世代は、生涯、恵まれた過去世代に虐げられて暮すことになるだろう。
物が安いからと喜んだり、無料でアニメが観れるのをあたりまえと喜んでいる連中は、文化の担い手に投資せずに衰退させている。

さて、話がいささかずれたが。
やはり理想の未来像をいまのところ描けない、というのが実情だろうか。
おそろしく悲観的なことこのうえないの、戦後と違って、努力しても這い上がれないガラスの壁がみえていることが、私たちの世代の絶望感をひどくあおっている。

モリスのいうユートピアとはNowhere(どこにもない場所)だ。だとすれば幻想などはゆめゆめ夢見ずに、そこそこ現実に妥協して生きるのが寛容なのかもしれない。
理想が高すぎてそこからずれたときに、たちなおれないから、そういうのである。無責任な楽観主義は必要ない。
あまりに理想化しすぎた未来を夢見ないというのが、いまの私の未来像である。



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