陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「螺旋の裏側」(十六)

2011-07-01 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女



わたくしは照れ隠しのために、軽く咳払いをいたしまして、申し上げました。
その言葉を口にすることによって、この春の憂いめいた切なさ、心ぐるしいまでの迷いに区切りがつくように。

「…お嬢様、美しい嘘は最後まで貫きとおすからこそ、美しいのでございますよ」
「あら、そうだったかしら?」
「さようでございます」
「そうね」

わたくしたちは、ゆくりなく柔らかな微笑みを交わしあっておりました。
そのとき、わたくしの迷いは煙のほどけるようにして、すでにして消え去っていたのでございます。ふたりのあいだにするりと吹き抜けた風が、わたくしの迷妄を持ち去ってしまったのでしょう。いみじくも、あれほどいたずらだった風は、今やすっかりたおやかな調子に変わっておりました。

「ひとつだけ、ほんとうを言わせてね。これは、姫子のほんとう。姫子は、乙羽さんからお仕事を奪おうとしたのではないの。姫子はね、こう思っていたの──”わたしが一着、自分できれいにできるようになったら、乙羽さんの苦労が一着分減るよね”──と」
「承知しております。くる…姫子様らしいお気づかいですね」

まったく、そのときの情景が目に浮かぶようでございます。
おそらく、不器用なあかぎれだらけの手をとられて、わたくしの祖母秘伝の薬用クリームを塗りこめられた千歌音お嬢様は、その手の持ち主にこう告げられたのでございましょう──”ねぇ、千歌音ちゃん。乙羽さんの手もきっとこんなふうに痛がってるんじゃないかな?”──と。あの度を越したお人好しで、いえ、裏表のない優しさのある甘えん坊のあの方が、お嬢様と重ねた手をさすりながら、まあなんとも甘ったるいあの声でそう言われたであろうことは、想像に難くはございません。
わたくしは手のひらのなかにある、二人分の好意のつまったあたたかなものを、いっそう大切に握りしめておりました。

わたくしのその様子を確認し、頷かれるように微笑まれて、お嬢様は踵を返そうとなさいました。
その去り際に残された最高の微笑みを、わたくしはいまだに忘れることができません。わたくしがぎこちなく様付けいたしましたその呼び方が、お嬢様のこの上なく可憐きまわりない天使の笑みを誘ったのだということも。
お嬢様のその振り返り方ひとつをとっても華があり、相手に失礼のないような心遣いの感じられる几帳面なものなのでございます。その動きの流れをとどめてしまうことが憚られるとは思いながらも、しかし、わたくしはこう聞き返さずにはおられませんでした。その笑顔をいまひとたび、わたくしに振り向けてほしいと望みながら。

「あの、お嬢様はどちらに…?」
「午後から遠乗りに出ようと思ってね」

お嬢様は横髪をさかんに撫でつける風に微笑むかのように、周囲にゆったりと視線を巡らせておいででした。
白いシーツはいっせいに視界の左側へとはためていきます。まるで、お嬢様のお知りになりたいことを告げるかのように。

「風が北西から吹いているから、南門から抜けて東の森へ走るのにはちょうどいいわね。サンジュストは追い風になるととても喜ぶの」
「では、ただちに乗馬服のご用意を」

すっかり軽くなってしまった大きな洗濯かごを、胸に抱えて従おうとしたわたくしを、千歌音お嬢様は笑顔ひとつでお止めになることができるのです。

「だいじょうぶよ。そんな本格的なものではないの。今日はお散歩程度になるかもしれないわ」

またしも片目をお伏せになって可憐に微笑えまれたお嬢様に、それ以上、わたくしが押しかけてできることがあろうはずがありません。

美しきお方はウインクひとつで、あっさりと真実をひっくり返してしまわれるものなのです。
わたくしがたったその数秒間の言葉にある違いを、すぐさま見抜けないはずがございません。それに気づいたとしても、このわたくしめにできることといえば、お気をつけていってらっしゃいませ、と丁重な一礼をして、去っていくそのお背中をまぶしげに見送ることだけなのです。

わたくしはつねにお嬢様の影。
後ろに付き従うことはありましても、その前に回ることも、横に並ぶことも許されません。後ろと言いましても、けっして千歌音お嬢様と同じ馬上の人となることもないでしょう。重々承知しているのです。お嬢様の愛馬サンジュストが乗せる人間はお一人様だけではないのだということを。いいえ、むしろ馬の背に揺られるのはお一人だけなのでしょうが、その手綱を引かれるのがお嬢様なのです。

お嬢様が普段着で、愛馬にお乗りになられるときは、いつもそうなのでございました。
雪解けの水を含んでぬかるんだ春先の大地は、お嬢様のお衣装に少なからぬ斑紋をつけてしまうことでございましょう。数年前にその馬子役をひうけたわたくしだからこそ、足のどこに泥が跳ねるのかなど判りきったことでございますから。






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