WITH白蛇

憂生’s/白蛇 セカンドハウス

御託である。

2015年10月21日 | 作品に寄せて・・2

ふと、思い出した。

空に架かる橋の、最初・・・どのあたりまでだったか、

忘れたけど・・・・。

クレームというのとは、違うのだけど

「ぱっとせん、でだしじゃのう」

とか

「憂生らしくない。抑えとるんか?」

とか・・・。

この作品は、今までと違い、ダイレクトにブログに書き上げたものだった。

それまでは、ワードにかいていた。

すでに60作品ほどもっていた状態だったので、

それをホームページなどに掲載していた。

そして、初のブログで初連載という状態になり

非常に難しいと想った。

当初のライブドアなどのブログがそうだったけど、

1スレッド文字数無制限、カテゴリ数無制限だった。

そこに、平気で10万文字とかの作品をぽんぽん上げていたのだけど、

この感覚に近いのが、ワードだと想う。

今もこうやって、ちぎっては、なげwwという投稿の仕方をすると、

きわどい描写だけというページができあがってしまうことがある。

1冊の本という、川のながれの中で裸のおねいちゃんが泳いでいても

あるいは、点景であったり、必然という景色のなかで理解される。

暑いし、水はきれいだし、水着はもってきてないし、他にだれもいないしwww

裸のおねいちゃんがでてきても、なんの矛盾もかんじないのだが

ちぎっては投げになると、

場合によっては、裸のおねいちゃんが突如現れてしまうこともありえる。

バックグラウンドがしきつめられず、裸だよ~~~~。え~~~???

と、いうこともありえる。

連載の難しさがそこだったとおもう。

はてには、

「悪童丸のときのような迫力がありません」

とか・・・。

これも、憂生の文章の欠点なのだが、

じつに、写実がへぼい。

おまけに、読む側になると、懇切丁寧な風景描写などがうっとうしくていけない。

玄関にはいってから、廊下のしきものやら、ロココ調の壁の装飾やらドアのノブやら

シャンデリアやら、じつに見事に描写される方がいらっしゃるが、

いったい主人公はいつになったら、目的の部屋にたどり着けるのだろう?

いや、それどころか主人公はどこにいるんだろう?

と、思えて、しまう。

そういうのが、嫌で、書く側になると、

主人公の心理追従のほうになる。

ー貴族というのは、廊下まで飾り立てなければ気がすまないらしいー

と、主人公の存在(思い)のほうにはいっていく。

そして、最低必要限度の描写?で風景をおさえてしまう。

そして、その一番の手法としてあるのが、

最初のほうにインパクトを置く。

たとえば、悪童丸で

ーかのとさまと百日、まぐわいをなされるなー

と、陰陽師が政勝にいう。

無論、その言葉の種明かしが本編ででてくるのだが、

ちょっときつい表現と謎にひっかかって、どういうことだろう?と

読む気にさせてしまう。

と、いうような手法が割りに多くあったと思う。

それが、連載になると、ない。

おまけに、普通は?心理爆弾がそちこちにしかけてある。

まさに爆弾がはじけるような文章といわれたとおり。

情景描写や風景描写が下手なところをなんとかカバーした技法?の末でしかなかったのだが

このインパクトや爆弾になれてしまった読者さまからは、苦情の嵐??になった。

表現を抑えていたというのが正解かもしれないが

モノローグ形式であったところが、なお、インパクトを入れることが出来なかったとも思う。

あくまでも、感情的にならずに、たんたんとんながめていく。

これを今までの物語風にすればあるいは、爆発的な表現をおりこめたかもしれない。

こんな調子ではじまっていったのだけど、

結果的にモノローグ形式がいろんなところで、功を奏し

最後のモノローグのために、この手法をえらんだのかとおもわせるかもしれない。

過激?な表現もあり、書く側としては、その底にあるものがつたえきれるかどうか非常に不安だった。

結果的に性表現で涙がこぼれるなんて、はじめてだ。

と、いってもらえた事もあり、ほっとしたのだが、

後に招待された作品登録場所では、アダルト・ポルノ系統に登録されてしまい

激高に耐えなかった。

このときに、読者様から

「そんな目でしか読めないのは、悲しいけど、でも、明日に架かる橋を読んでもらえるきっかけになるほうがいい」

と、流れているテーマをくみとってもらえて、

それが、必ず読み手に届くと信じてくださるほど、読者様の「本」になっていることを知らされたことがある。

読み手のいる位置によって、作品に対する受け止め方はそれぞれで、

現実で、性的な交渉がなかった女性は、「私もこんな目にあいたい」といわれたこともあったし

憂生のよく掲げていた「見た目の悲惨さに踊らされない」という言葉の意味を見つけようとしてくれていた人もいたし

「赦す」ということを模索している人もいた。

どう読め。こう読め。と、いえるものでないのは、当然なことでありながら

憂生自身を逆に読者としたとき、憂生なりにいろいろ想う。

が、それをいってしまうと、

あるいは、作品の受け止め方を限定するようなところもあり

「あくまでも、1読者」、になりえない「感想」になってしまうということも、

多少成り、理解し始めたところはある。

とは、いうものの、

いろいろ、想うことがあるのは、事実でしかない。

 

たまにぽつぽつ、しゃべりながら、明日に架かる橋を揚げていこうと思います。

 

 



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