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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

小川芋銭

2010-07-13 | 日本人作家

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 小川 芋銭 (おがわ うせん)

本名:小川茂吉、幼名:不動太郎。
1868311日(慶応4218日) - 1938年(昭和13年)1217
日本の画家。
19世紀から20世紀前半にかけて活躍した日本の日本画家。

 

 

小川家は武家で、親は常陸国牛久藩の大目付であったが、廃藩置県により新治県城中村(現在の茨城県牛久市城中町)に移り農家となる。最初は洋画を学び、尾崎行雄の推挙を受け朝野新聞社に入社、挿絵や漫画を描いていたが、後に本格的な日本画を目指し、川端龍子らと珊瑚会を結成。 横山大観 に認められ、日本美術院同人となる。

 

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生涯のほとんどを現在の茨城県龍ケ崎市にある牛久沼の畔 (現在の牛久市城中町) で農業を営みながら暮らした。画業を続けられたのは、妻こうの理解と助力によるといわれている。画号の 「芋銭」 は、「自分の絵が芋を買うくらいの銭(金)になれば」という思いによるという。

 

 

身近な働く農民の姿等を描き新聞等に発表したが、これには社会主義者の幸徳秋水の影響もあったと言われている。また、水辺の生き物や魑魅魍魎への関心も高く、特に河童の絵を多く残したことから 「河童の芋銭」 として知られている。

 

 

芋銭はまた、絵筆を執る傍ら、「牛里」の号で俳人としても活発に活動した。長塚節や山村暮鳥、野口雨情などとも交流があり、特に雨情は、当初俳人としての芋銭しか知らず、新聞記者に「あの人は画家だ」と教えられ驚いたという逸話を残している。

 

芋銭の墓は1943年(昭和18年)、自宅近くの曹洞宗の寺院、稲荷山得月院(牛久市城中町258)に建てられた。

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贋作が多く作られた作家でもある。そのため、公的機関が「小川芋銭の作品」を公費で購入する際、仮に贋作であるとすると無意味かつ税金の無駄であるため、購入の正当性や鑑定依頼先を巡ってしばしば議論になる。

 

 


年 表

1868年 - 江戸の牛久藩邸で生まれる。幼名、不動太郎。
1871年 - 廃藩置県により新治県城中村に移住する。
1879年 - 牛久小学校下等小学校第三級を卒業し上京、小間物屋に奉公する。
1880年 - 桜田小学校尋常科第三級後期を卒業。 
1881年 - 本多錦吉郎の画塾、彰技堂に入り洋画を学ぶ。
1887年 - 尾崎行雄の推挙を得て、『朝野新聞』に客員として入社する。
1888年 - 磐梯山噴火の惨状をスケッチし新聞に掲載。
1893年 - 父親の命により牛久に戻り農業に従事する。
1896年 - 渡辺鼓堂の推奨により『茨城日報』(後の茨城新聞)に漫画が採用される。
1900年 - 句会『水月会』に入会。
1904年 - 幸徳秋水らが主催する『平民新聞』に漫画を描き始める。文芸運動の『木星会』の結成に参加。
1908年 - 初の画集『草汁漫画』を刊行。
1911年 - 俳誌「ホトトギス」の表紙画・挿絵を描く。
1911年 - 東京・大阪の三越で漫画展を開く。
1915年 - 川端龍子らと『珊瑚会』設立。
1917年 - 珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められ日本美術院同人に推挙される。
1923年 - 茨城美術展の顧問になる。
1935年 - 帝国美術院参与となる。
1938年 - 牛久の自宅で死去。

 

 

主な作品

肉案(1917年珊瑚会展)
樹下石人談(1919年院展)
水虎と其眷族(1921年クリーブランド美術館主催日本美術院展) 愛知県美術館蔵

 若葉に蒸さるる木精

1921年クリーブランド美術館主催 日本美術院展

 愛知県美術館蔵

 

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水魅戯 (すいみたわむる)
1923年院展) 茨城県近代美術館蔵


狐隊行(1930年) 茨城県近代美術館蔵
海島秋來(1932年院展) 茨城県近代美術館蔵 県指定文化財
聴秋(1936年院展、外務省買上)
羅漢龍虎 桑山美術館蔵

画集等[編集]
草汁漫画(1908年)
三愚集(1920年):小林一茶の句を夏目漱石が書き芋銭が画を付けたもの。
芋銭子開七画冊(1928年)
俳画の書き方(1934年)
河童百図(1938年)

( wikipedia )

 

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 『畑のお化け』 昭和4年作 

 

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 河童の オモチャ

 

 

 

 

 

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