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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

藤島 武二

2010-02-18 | 日本人作家

 information

 

 


藤島 武二  (ふじしま たけじ)

18671015日(慶応3年9月18日) - 1943年(昭和18年)3月19日)
明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家。
明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた。
ロマン主義的な作風の作品が多く残されている。

 

鹿児島市の薩摩藩士の三男として生まれた。
1867年は元号が「明治」へと変わる前年であった。

はじめ四条派の画家や川端玉章に日本画を学ぶが、のち24歳の時洋画に転向(日本画の作品は殆ど現存しない)。1896年(明治29年)、1歳年上の 黒田清輝 の推薦で東京美術学校(現・東京藝術大学)助教授に推され以後、没するまでの半世紀近くに渡り同校で後進の指導にあたった。1905年(明治38年)、文部省から4年間の留学を命じられ渡欧、フランス、イタリアで学ぶ。帰国後、教授に就任。

 

1905(明治38)年38歳のとき文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられ、年末に渡欧した。パリに住みついた彼は、私立アカデミー・グランド・ショーミエールと国立美術学校の専科に学びんだ。

1900年代に入ったパリでは、印象派に次ぐ新しい画風が展開されていた。そうした状況を眼前にした藤島は、わが国に印象派風の表現をもたらした黒田清輝の師 ラファエル・コラン  に敢えて就かず、逆に国立美術学校のフェルナン・コルモンのもとでアカデミックな勉強をした。

 

黒田が主宰する白馬会にも参加。白馬会展には1896年(明治29年)の第1回展から出品を続け、1911年(明治44年)の白馬会解散後も文展や帝展の重鎮として活躍した。

1901年(明治34年)2月ごろから6年間担当した与謝野鉄幹・晶子が刊行した雑誌「明星」や、晶子の歌集『みだれ髪』の表紙では流行のアール・ヌーヴォーを取り入れている。ほかにも装丁本がある。

晩年は宮内庁からの2つの依嘱、昭和天皇即位を祝い学問所を飾る油彩画制作と、宮中花蔭亭を飾る壁面添付作品の制作が切っ掛けで風景画の連作に挑んだ。1937年(昭和12年)、最初の文化勲章受章者の一人となる。1943年脳溢血のため永眠。享年75。

 


池畔納涼

1897年(明治30年)
東京芸術大学大学美術館所蔵

 

 


 

天平の面影
1902年(明治35年)
 石橋美術館所蔵(重要文化財)

 

「蝶」(1904年(明治37年)) 個人蔵 [1]

 

「黒扇(1908-09年(明治41-42年)) ブリヂストン美術館所蔵(重要文化財)
藤島の女性像の代表作とされ、最もよく知られた作品の一つであるが、作品の評価や名声ほどには制作の状況やモデルなどの資料は残っていない。弟子の小堀四郎の述懐では、晩年病床の藤島の代わりに小堀がアトリエを片付けていると、階段の裏に他の物が被さった下でピンで止められていたのを見つけ出したという。藤島もこの再発見を喜び、早速枠張りしてニスを塗り直し、枕元に置いて楽しんだ。一度は石橋正二郎に散逸するのを恐れて「黒扇」などをまとめて買い取ってもらったが、三日ほどであの絵がないと寂しくて寝られないから返してもらった、という逸話が残っている(その一年後再び石橋の手に戻る)。

 

「婦人半裸像」(1926年(大正15年))

「大王岬に打ち寄せる怒濤」(1932年(昭和7年)。同名を2枚作成し、三重県立美術館・ひろしま美術館所蔵)
「旭日照六合」(1937年(昭和12年)) 三の丸尚蔵館所蔵
( wikipedia など参照 )


 

 

裸婦
1902
ひろしま美術館所蔵 

 

 

ロマン主義【流派】 ロマン主義

 

 

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