わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

黄金時代

2008-12-07 | 作品

 

 画面をクリックすれば、大画面になります。

ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル

1862年
46.3 × 61.9 cm
oil on panel 
Fogg Art Museum, Harvard University, Cambridge, Massachussetts, USA

 

 

グレーの文字で示した記事は、【テオポリス――ギリシア神話データベース&西洋絵画紹介さんからの御紹介です。 

テオポリス――ギリシア神話データベース&西洋絵画紹介

 この絵はダンピエール城の「ミネルウァの間」に描かれている壁画《黄金時代》の小型ヴァリアントです。
  黄金時代――それは穏やかな温もりに満ちた常春の世界。一切の悪とは無縁の秩序ある理想郷。はるか昔に失われ、もう二度と還ることもできない、見果てぬ夢のようなユートピア。
  この至福の時代を支配した神々の王サトゥルヌスとその妃神オプスの祭壇が画面中央に描かれています。その周囲では、少年の吹き鳴らす笛の音に合わせて美しい6人の乙女が輪舞を踊り、豊饒をもたらす二神の力を讃えています(花冠を戴いた着衣の3人を季節の女神ホーラたち、裸体の3人を三美神と見なす説もあります)。
  画面右側には、それぞれ思い思いの姿でくつろぎながら談笑する人間たちの群れが描かれ、蝶の羽をつけた西風の神ゼフュロスが彼らの頭上に祝福の花をまき散らしています。かたや、画面左側では白衣に身を包んだ正義の女神アストライアが熱心に教えを説き、彼女を崇め敬う人々が敬虔な態度でその言葉に聴き入っています。黄金時代にしか見られなかった美しい光景です。
  よくもこれだけの群像を縦46cm・横61cmという小さな画面に詰め込んだものだと感心しますが、実はオリジナルの壁画は縦480cm・横660cmという超大作です。この壁画は対画となる《鉄の時代》とともに1842年から49年にかけて制作されましたが、注文主との意見の食い違いや妻の死に対する画家の深い悲嘆などのために、1850年に制作が打ち切られてしまい、未完のまま放置されました。もし完璧に仕上げられていたらそのサイズからしてもさぞ見応えのあるものになっただろうと思われるだけに、何とも残念でなりません。
http://www.h6.dion.ne.jp/~em-em/page267.html

 

 

黄金時代【その2】

 

 

 

   黄金時代と核の時代   【わが郷

「黄金時代」(Golden Age)とは西欧の絵画などに取り上げられるテーマで、ギリシャ神話の「理想郷」のこと。クロノスが神々を支配して、人間も神々と一緒に住んでいた。果物は何時でも豊かに実り、川にはミルクが流れていて、人々は働くことは無い。

その後時代を経るに従って、白銀の時代、青銅時代そして、現在が鉄の時代であると謂う。
ギリシャ詩人のヘシオドスが、教訓敍事詩『仕事と日々』の中で書いていることには、四つの内の最期の鉄の時代が尤も過酷な時代である。

プロメテウスが神の火を盗んだので、最高神ゼウスは怒り罰を与えた。パンドラと謂う美しい女を作り偽計を用いて、開けてはならない『パンドラの箱』をプロメテウスの弟エピメテウスに開けさせてしまった。

この箱の中にはありとあらゆる災厄が詰まっていたが、其れが溢れ出てきた。それで鉄の時代には、人々は欺き合い憎しみ合いそして戦いに明け暮れ、苦役の労働もしなければならなくなった。

 

ギリシャ精神の幸福は安逸であり、労働は苦役で災いと見なしている。

日本人の一般的な幸福感とはかなり違うようだ。

( 参考 人間の5つの時代 )

 

 

  

An Early Utopia in Brueghel's The Fall of Man - Jan Brueghel the Elder

 

 

 

黄金時代        "Utopia" of the Greek myth


1862年のフランスは

皇帝に即位したナポレオン3世は、クリミア戦争・アロー戦争などあいつぐ外征の成功を通じて自らの威光を高めた。その一方で、ジョルジュ・オスマンに大規模なパリ市の改造計画を推進させたり、フランス各地を結ぶ鉄道網を整備するなど、大規模なインフラ整備を通じて工業化を推進した。この際に創出された雇用は失業者の救済にもつながった。その統治の前半は、言論・出版の自由が制限されるなど権威主義的な統治体制であったが、労働立法を通じて労働者の支持も勝ち取りつつ、工業化を推進させることで新興のブルジョワジーの期待にも応えた。こうして、フランス国民各層からの直接的な支持を基盤に、議会を牽制しつつ政治運営を行った。こうした統治方法には、のちの大衆民主主義にも通じる要素が見いだされる。

 
オスマンの都市改造計画しかし、こうした彼の権力基盤は、華々しい成功を維持し続けることでしか支えることはできなかった。1860年代になると、アメリカ大陸への影響力強化を図ったメキシコ出兵の失敗でその威光を低下させた。1862年にはサイゴン条約でコーチシナ東部を獲得しベトナム進出を進めていくが、このことも彼の威光回復にまではつながらなかった。また、自由貿易体制をとったことで、イギリスからの工業製品流入にさらされ、国内産業が打撃を受けていた。こうした失政が続くと、議会をおさえて権威主義的な統治を行うことも難しくなり、議会との妥協を迫られることが多くなった。さらに、世論を自らの権力正当化の基盤としていたため、ビスマルクによるエムス電報事件で反独世論が高揚すると、対ドイツ開戦やむなしという状況に追い込まれた。この点で、かつて自らを支えた世論がみずからの首をしめる結果になったといえる。こうして1870年より普仏戦争が勃発したが、セダンで捕らえられ第二帝政は終わりを告げた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2#.E7.AC.AC.E4.B8.89.E5.85.B1.E5.92.8C.E6.94.BF

  ドラクロア 

メディア 1862年制作

 

 

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