外猫シンが怪我をした

2017年03月22日 | Weblog
 わが家の飼い猫は女の子二匹である。三年前に「動物愛護センター」で譲り受けた。
来た当時の体重は500gをすこし超え手のひらに載るほどの大きさだった。玄関の靴の中が好きで、夜になるとその中に入り丸くなって寝入っていたものだ。
わが家に出入りしていたネズミは、猫があまりに小さいものだからバカにして、台所のジャガイモをかじったりして悪さのし放題でもあった。
階段を登れなかった子猫は、一ヶ月も経つと家じゅうを縦横無尽に駆け回り、階段もパンパカ登り、追いかけっこに明け暮れるようになったら、ネズミは姿を見せなくなった。

 かわって姿を見せたのがまだ若い雄のトラ猫である。わが家の縁側に座り網戸越しに家の中を覗きこむ。年頃の女の子がいるものだから見惚れてやって来たのだろう。毎日やってくるから、情が移ってついつい食事を供するようになった。
人懐こい猫で「にゃあ」と挨拶をするのだがかすれ声なのだ。それでわたしたちは、かすれ声の歌手の名前を拝借して「進一」=シンと名づけた。
このシンが小さな子猫を連れてくるようになった。まだまだ幼いキジトラであった。
「このうちは大丈夫だよ」と云わんばかりにして、自分は縁側の下で見張り番、この子猫を縁側に上げて食事をさせ、子猫が食べ終わると自分が残りをいただく。
シンは面倒見のよい頼りがいのある太っ腹な男の子なのだ。

 その内、シンが連れてきた子猫は女の子だと分かった。目元がパッチリと美形で、妻は「映画『男はつらいよ』で寅さんの相役、浅丘ルリコさんに似ている。役の名前をもらってリリーにしよう」と名づけた。
シンはすでに手術を受けているが、リリーを避妊手術に連れて行きたいと焦るが身体を触らせない。
リリーがとうとう四匹の子猫を産んだ。
内二匹はヨチヨチ歩きのとき捕まえて里親に渡した。一匹は行方不明で残る一匹はすばやく逃げ回るので捕えられず、後になってリリーとともにようやく保護し動物病院につれていった。この子猫も男の子と分かり前の二匹も男の子だったから、三男坊の「サン」と名づけた。

 わが家では飼い猫を二匹、外猫四匹の世話をしている。外猫はシン、リリー、サンの他に、お向かいの飼い猫が参加するので四匹なのだ。お向かいの猫の名はボスとした。
朝は5時半に全員が集合して朝食を待つ。
六匹の猫はそれぞれに個性があって面白い。猫を飼う前は猫の性格がこんなに多様であるなんて思いもよらなかった。
シンは外猫たちの頼もしい大黒柱で、見知らぬ猫が来ると対決して追い払う。
3月になって程なく、シンが左手をかばいながらやってきた。地面につけると痛いのか、その手を持ち上げヒョコヒョコ不自由そうに歩く。
食事をするときもその手は下ろさない。
「骨折したのかしら」妻が心配そうに前足を見守る。「骨折だったら早く治療しなければ」と云うので、翌日キャリーを用意してシンを抱き上げる。
シンはわたしがバイクで帰って来ると、どこで聞きつけるのか跳んでやって来て、「ブラッシングをせい」と目を細め縁側で待つ。
だが抱き上げたことはないので「暴れるのではないか」と心配したが、おとなしくキャリーに入れることができた。これで病院へいけるぞ。
わたしはキャリーの番を妻に頼んで車を取りに行った。帰って来ると妻がキャリーの前で呆然としている。
「シンが頭突きで蓋を開け逃げた」……。

 二日ほど経ったら、不自由にしていた手を地べたについて歩くシンをみた。
「骨折じゃなかったみたいね」と妻は安心の吐息をもらす。それじゃなんの怪我だったのだろう。
シンが遠くから駈けよって来る。庭の柿の木にも登れる。これで一安心だ。
面白いことには、一時期リリーが左手を上げて座るようになった。シンが痛さに耐えかね上げていたのを見て、なんとなく真似をしている様子であるのがおかしい。




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小野越郎さんの弾き語り

2017年02月27日 | Weblog
 年明けに開催する「蔵のギャラリー・結花(ゆい)ライブ」(松戸市下矢切)は今回で11回目となる、
140年前の「見世蔵」を所沢から移築した古民家で、入口をはいると800年を経た「けやき(だったと思う)」が木目も鮮やかに、厚さも厚く幅ひろくどっしりと頭上に構え、訪れたひとを迎えてくれる。
1階は喫茶店、階段を上がって2階がギャラリーとなる。
2階の天井は剥き出しで、ゴロゴロ太い材木が縦横に交じり合っている。
ステージ部分とお客さんの間は、座布団1枚置いたくらいの距離で、まさに「指呼の間」といえるのだ。
「和力のホール公演もいいが、まじかで観られるここの楽しみは格別だ」という常連さんも多い。

 和力も新趣向を持ちこんでくる。
2月18日、今年の新趣向はなんだったであろうか。
リハーサルのとき、なにやら耳慣れた三味線・笛・太鼓の合奏が始まった。「あ、なんか聞いたことがある」と聞き耳をたてる。
しばらくすると「キタサノサ― コラサノサ― ドッコイショ」の掛け声で、「吹けや生保内東風(おぼねだし) 七日も八日も 吹けば宝風 稲みのる」と唄い出したのは、小野越郎さんではないだろうか。リハーサルのときは、余人立ち入り禁止だからわたしは階下で聞いている。
三味線をつま弾きながらしっとりと渋くうたいあげていくのに気持ちが吸い寄せられる。

 余談であるが「生保内」は、朗・越郎さんが生まれた秋田県仙北郡神代の隣町で、今では秋田新幹線が止まる「田沢湖駅」、昔は「生保内駅」であったのだが名称がかわった。
盛岡駅を始発にして大曲駅までの鉄路を「生保内線」と云っていた。
この「生保内」はなかなか読みにくくて、わらび座を訪問する人たちが乗車券を購入するのに難儀したとこぼしていたのをよく聞いた。
「いきほない線の神代駅までの切符をください」、駅員はいろいろ調べてくれるが「生きほない線はありません」、「では、なまほない線かな」、乗客・駅員ともに苦労したそうである。
この「内」というのは、先住アイヌ民族が呼称していたのを引き継いだものであるようだ。
おぼろげな記憶でいうと、「内」は「くぼ地」を意味していて方々にある。この沿線にも「鑓見内駅」があったし、北海道には「稚内」がある。

「なんぼ隠しても 生保内衆は知れる わらで髪結うて 編み笠で」とも唄われているから、この地方はかなり山深い里であったのだろう。
豊作を祈念する唄を越郎さんが弾き語る。
ギターやピアノの弾き語りは馴染みがあったが、三味線の弾き語りはわたしにとって初めてだ。
新鮮なうえに、三味線の音色にのっての唄は、野山を身近に引き寄せるもので、お客さんも喜んでくださった。

 
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志の輔らくごinNIPPONへのゲスト出演

2017年01月31日 | Weblog


 和力がゲスト出演した「志の輔らくごin森ノ宮」(2016年10月)へ行った際、入口でパンフレットをもらった。
「志の輔らくごinNIPPON」の案内であった。
「毎年お正月に『志の輔らくごinPARCO1ケ月公演』を11年間続けてきたが、劇場が3年間のお化粧直しにはいる。このタイミングにお礼に出かけようと、12都市に伺うことにした」と、志の輔師匠が「ご挨拶のようなもの」で述べられ、1月4日を初日に1月31日までの日程が紹介されていた。
北は北海道から南は沖縄までの日本縦断となるスケジュールであった。
わたしがこの「志の輔らくごinNIPPON」に、和力がゲスト出演すると知ったのは、わたしが窓口となっていたN市での和力公演の「公演日程を変更できないだろうか」との朗からの連絡であった。
「全国12か所の内、6か所でゲスト出演の依頼を受けたが、N市の和力公演とは日程がかぶってしまうので日程の移動を相談して欲しい」。このときゲスト出演する6都市を聞いた。
N市の主催者さんと連絡をとったら、「わたしたちも和力が大好きで、志の輔師匠との共演を応援します」と日程を変えてくださった。
Wariki松戸事務所映像担当のわたしの弟・雅義にN市での録画日程の変更を伝えその理由も説明した。
そしてわたしたちは1月13日の松本会場へ行こう。志の輔師匠のチケットは、発売されると瞬時に売り切れてしまうので、必ず入手できるよう怠りなく準備しようと、誓いあって無事松本会場に行けた。
その模様を弟の雅義が記したので、このブログに紹介する。



 以下の文は雅義の記録である。

 HPで公表しませんでしたが、17年1月の「志の輔らくごin NIPPON」全国巡演に、和力は6カ所の会場へお招きいただきました。
これまで和力は、「横浜にぎわい座」、「京都春秋座」、「大阪森ノ宮」などの「志の輔独演会」にゲストとして招かれ出演させていただきましたが、そのたびにHPで告知してまいりました。

 ところが、今回の「志の輔らくごin NIPPON」においては、少々、事情が異なったのです。

 ご存知かもしれませんが、落語は演ずる前に演題をお客さまにお知らせすることはほぼありません。
舞台袖のまくりに出演者の名前が示され、お客さまは噺を聞き終わってからその日の演題を知ることが通例となっています。
特に独演会では、帰りのロビーに演目が貼り出されるのが常です。
いわば「サプライズ」の演出なのでしょう。噺の内容はもちろんゲストも後で知ることになります。

 1月の「志の輔らくごinNIPPONN」は、全国12カ所で開催されました。
ゲスト出演したのは以下の6ケ所となります。

富山 1月 4日(水)
札幌 1月 7日(土)
松本 1月13日(金)
青森 1月19日(木)
仙台 1月20日(金)
岡山 1月29日(日)

行けなくて残念とお思いになっているみなさまのために、独演会の様子を以下に再現しますのでご堪能いただければ幸いです。

~チケット取得に戦々恐々~

 わたしが選んだのは松本会場でした。
松本で家を建てた友人がいて、いつかその家を見にいきたいと思っていました。
松本は盆地で平地の中心に松本城がそびえ立ち、その周囲を丘陵地帯が囲んでいます。その丘陵地に友人は家を建てました。
設計士さんの説明ですと「松本城の見える家」というネームがつけられたそうです。家の窓から遠くお城が見える風景。なんと素晴らしいコンセプトなのでしょう。いつか見にいきたい、とわたしの心は募るのですが、家を見にいくだけで東京から列車に乗るには、わたしにとって松本はあまりに遠かったのです。
はからずもその思いを実現できる機会がやってきました。
「松本で志の輔師匠の独演会がある」と、わたしは兄から連絡をうけたのです。本当は伝えてはいけないことだったのでしょうが、近親者だけに教えてくれたのでしょう。そうだ、この独演会と絡めれば、「松本城の見える家」を見学できる。
1月13日(金)、松本市民芸術館。これが時と場所でした。家の主とも連絡が取れました。

 チケットの予約販売は、2ヶ月前の文化の日、午前10時に受付開始。1月の12会場が一斉にこの時間に発売されます。
松本会場は平日開催ですし、収容は1,000人です。東京や大阪の人口にくらべて、松本はちょっと小さな都市です。ですから横浜にぎわい座(400人)のように瞬時に売り切れということはまさか、ないだろうとわたしは志の輔師匠の人気を甘く見積もりすぎていたのかもしれません。
当日、休日出勤だったわたしは10時の時報とともに休憩にはいります。着替えに手間取って食堂でタブレットを開いた時は発売5分すぎの10時05分でした。「チケットぴあ」のサイトを開くと、「松本会場は売れ切れ」との表示。たった5分が過ぎただけですよ。わたしは信じられなくて他の11会場をつぎつぎに検索しました。札幌、岡山以外はすでに「売れ切れ」。まだ席が残っていた札幌、岡山も数分後に「売り切れ」になりました。
わたしは独演会チケットの別チャンネルを持つ友人に連絡をして、チケットをようやく確保することができたのです。

 独演会のあるのは「大寒」に近い日です。
白鷺城といわれる姫路城に対し、カラス城と称されるのは松本城です。季節は大寒。漆黒のお城に雪化粧がされたらどんなに美しいのだろうと、わくわくしながら独演会の日を待ちました。
さて当日の1月13日です。
雪を期待していましたが全国的な暖冬で、春のような日差しがつづいています。
ところが、わたしたちが東京を出た13日を境に日本列島が寒波に包まれました。高速バスで長野県に入るころ、行く手に雪が舞い落ちてきます。
午後3時にホテルに着いたわれわれはすぐさま松本城見学。雪はちらちらとしか降っていませんが底冷えのする寒さです。道々、コンビニよりお蕎麦屋さんの店舗が多く見受けられます。さすが信州です。



 〜和力の持ち味が生かされた15分〜

 われわれはお城から10分ほど離れた独演会場に移動しました。
開場時間の6時、客席はすぐに満員になります。
幕が開き、独演会がはじまる。
師匠が一席、噺を終え会場の笑い声を背にして高座を後にします。

 どこからともなくお囃子が聞こえて、客席後方の出入り口から朗が獅子頭をもって登場、小野さんと木村さんが後方を固めて笛と太鼓ではやします。おなじみの江戸囃子。その出方が場内のサプライズとして演出されるのです。
「無病息災」と言いながら獅子がお客さまの頭をかみながら、朗が舞台前に到着します。そこでお正月の口上をのべて舞台に上がり獅子舞がはじまりました。
獅子が猫のように毛繕いをしたり、ときどき耳をぴくぴくする仕草に客席がわきます。意表を突く登場であっという間の退場。その間、5分の演技でした。
衣装を替えた師匠が高座に登場して第2席目がはじまるので、和力の演技は着替えの時間稼ぎの役目があったのかもしれません。
師匠からは噺の枕で和力の紹介にちょっと時間を費やしていただきました。これはわたしの見た「横浜にぎわい座」にも「京都春秋座」でもなかったことです。

 そして新作落語の「ももりん」がはじまります。
横で落語好きの兄が大喜びをしています。

 〜音が鳴り、幕が上がる〜

 ももりんがおわると幕が降り、しばしの休憩にはいります。

 やがてベルが鳴り場内の照明が落とされて、第2幕です。津軽三味線の音色が「じゃじゃじゃーん」と鳴る。まだ幕は閉じられたままです。
幕があがって音の主の小野さんが姿を現します。こういうタイミングにプロによる構成の冴えを感じさせます。小野さんが演奏する津軽じょんから節の独奏が、木村さんとの合奏曲「忍者」へと移る。拍手を受けておわると、「東天紅~(とうてんこ~)」と声を発して派手な衣装を身にまとった朗が舞台中央に登場します。
青森県の田子町に伝わる「鶏舞(とりまい)」が舞われ、「酉年の鶏舞です」と最後に朗が口上を述べて退場。鶏舞の華やかな舞と衣装がお客さまのお正月気分を浮き立たせたにちがいありません。

 そして、最後に師匠が大ネタの噺をして独演会はおわりました。




 終演後のロビーでは大混雑の中、演目紹介の告知がされる。いつもは紙に書かれているだけなのですが、今回は1ヶ月の巡演とあってキチンと板書されていたのが目を惹きました。ゲストの和力も同じ板に出て常連あつかいになっているように見えたのは嬉しい出来事でした。
3時間の独演会の中で和力の出演は15分でした。和力ファンとしてはちょっと物足りない思いもありましたが、独演会に彩りを添える役割は果たせたのではないかと、ロビーで胸をなでおろした兄とわたしでした。そして和力の持ち味が充分に生かされた演出だったことに感謝しました。



 さて、翌朝に予定された「松本城の見える家」のご報告です。
とても良かったですよ。わたしの期待に応えるだけの家でした。翌朝から雪が降りました。家の窓から眼下に広がる松本市内。とおく雪に包まれたカラス城がわたしの目の前に現れたのでした。
(写真を指でクリックすると大きくなります)
(了)


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14回目の「暮の打ち逃げ」公演

2016年12月27日 | Weblog
 12月17日(土)、「和力・暮の打ち逃げ」公演を観に、名古屋へ行ってきた。
2003年に「暮れの打ち逃げ公演」が始まり、以来今回まで年末恒例の行事として定着している。
「暮れの打ち逃げ公演」が始まって4年間は、開催日が世間一般の「御用納め」12月28日であった。
5年目以降は開催日がバラケてきたが、それでも12月25、26、27日など年の瀬の押し迫った日で、JRの「繁忙期」にあたるものだから、「割引制度」が使えず遠隔地から参加する者には懐が痛かった。今回が初めて12月20日以前の開催日となり、午後5時開演であったので日帰りすることができた。。

 わたしは「わらび座」で営業を長年やってきている。昨今の事情は分からないが、わたしたちが実行委員会を立ち上げわらび座公演を展開していた当時、「ゴールデンウィーク」、「お盆」、「年末年始」の公演開催は、集客が見込めない…と開催を避けていた。
それを敢えて「暮れの打ち逃げ」と銘打って、御用納めの日に開催したものだから、興業営業の経験者としては「大丈夫か」と心配した覚えがある。
行くと寒空の下、開場を待つお客さんが列をなしていたので、これも驚きであった。第二回目以降は「整理券」が配られ、寒空の下で待つことがなくなり、会場ロビーで寒さをしのぎ、開場時間になると整理券番号順に、客席にはいるように改善された。
この「整理券方式」は、わたしたちもたいへん参考になって、練馬や松戸公演の際には使わせてもらったものだ。

 年によってばらつきはあるものの、名古屋市における「暮れの打ち逃げ」公演は、盛況裏に開催され連続して14年に及ぶ。
噺家の「古今亭志ん生」の著作を読むと、「名古屋は、日本の東西の芸がぶつかりあう地だから、名古屋の人たちは芸を見る見識が高く、生半可なものは受け入れられない」と記されている。
その地域において、年末に行われる「暮れの打ち逃げ」のみか、毎年ではないが夏や秋に開催される「和力」関連の公演にもたくさんの方が訪れてくださり「ありがたいことだ」と行く度に感謝している次第だ。

 今回の公演には、弟の雅義が参加できなかった。雅義は「和力」の映像担当として撮影機材を担いで参加するのであるが、仕事の都合で行けないことがままある。
その際はわたしが撮影担当として機材を借りて出かける。
しかしわたしは名うての機械音痴である。
もう何年にもわたって数多く撮影する機会があったのだが、何本もあるコードの接続に苦労し、ビデオカメラを三脚に固定するのに戸惑い、カメラの電源が分からず余計なところを押しまくり、設定をパーにすることをくり返してきた。
機材に日本語で「電源」とか「入・切」などは書いてない。なにやら目玉っぽいマークだのへんてこな記号があるだけなのだ。
だから今回も、カメラを三脚に固定するのに20分ほどかかったし、電源が分からず開演直前、雅義へ電話して事なきを得た。

「名古屋市北文化小劇場」は、花道がありその一郭に桟敷席が設けられている。
客席の灯りが落ちると、花道にスポットライトがあてられ、鉦・笛・太鼓を演奏しながら加藤木朗・木村俊介・小野越郎が舞台に登場。
笛・三味線・鉦の音にのり加藤木朗が一差し番楽を舞う。
「師走の忙しい中、たくさんの方にお出でいただきありがとうございます」と、加藤木朗がご挨拶。
「今回の舞台の前半は、木村俊介、小野越郎、加藤木朗がそれぞれにどんな演奏活動をしているかに焦点を当てた趣向になっています」。
プログラムをみると1、加藤木朗「日月の祓」(番楽・先舞をモチーフに)、2、木村俊介「母恋歌」(鬼来迎より)、3、小野越郎「舞い散る」など、新たに構成・作曲した作品がならぶ。
加藤木朗の口上がつづく。「長野と愛知の間をへだてる恵那山をわたしは年に何回も行き来しています。この恵那は、胞(えな……胎児と母体をむすぶ器官)と同義語になっていて……」と恵那山縁起を語り客席を沸かせる。(このえなは、第二部の音舞語り「はなの木」の重要なモチーフだったと後で気づく)。
さらに「陰陽」に話が転じ、「この1年の間、身に積もった穢れや苦労を祓うものとしての芸能」に話がおよび、直接ふれてはいないが「暮れの打ち逃げ」が師走の末に執り行われてきたことの意味がわたしは理解したのだ。

 演目は進んで、4、「野分」(鹿踊をモチーフに)、5、合奏曲「北風に踊る」、6、獅子舞で第一部がおわる。
第二部は音舞語り「はなの木」で、昨年のつづきであった。

 最後のあいさつで加藤木朗が「みなさまのご支援で、『暮の打ち逃げ』公演が継続されています。この舞台でわたしたちはさまざまな試みをさせてもらい、成長の糧をいただいております。これからもお力添えをよろしくお願いいたします」と深々と感謝していた。
そういえば「音舞語り」の様式を生み出したのも「暮れの打ち逃げ」公演であった。
「暮れの打ち逃げ」に向けては、出演者が朗の本拠とする阿智村の稽古場に集まり、「合宿」と称して作品づくりを行っている。
いつもは分れ別れの場所で演奏活動をしている3者が集い、共同で作品をつくりあげる。
観て支援していただく方々がいてこそ、芸の練磨が高まり作品の創出が昇華していくものだと、舞台を見終わった清々しさの中で思ったことである。




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渡部玲子リサイタルなどでの出会い

2016年11月30日 | Weblog
 もうすでに1ケ月以上も過ぎてしまっているが、書きかけて未投稿のブログを整理した。(だから投稿日は11月とした)
10月は、前進座「切られお富」(松戸)・「志の輔らくご」(大阪)・「狂言の会」(松戸)・和力「凸拍子」(金沢)・そして「渡部玲子ヴァイオリンコンサート」(東京)に参加した。
この中で思いがけず出会えた人たちがいる。

 金沢での和力公演では、なんとわらび座の俳優・千葉真琴さんに出会えた。
わたしがわらび座在籍当時、演技者としてすごした期間がある。
同じ公演班に岩手出身の千葉清(チバちゃん)さんがいた。
「じゃんがら念仏踊り」(福島・相馬地方)は、ちばちゃん、K君そしてわたしの3人で舞った。
デンコンコン デンデコデンコン デコデコデンコン……初盆の家々を訪れ供養するこの踊りは、太鼓を叩きながら身を屈めそして伸びあがる、薄暗い照明の元、高張提灯が掲げられ、女性陣が手に鉦を持ち、カンカンカン、カッカカカンカンと静やかに踊る。
先人を敬い供養するこの踊りは、わたしが好きな演目だった。
共に踊っていたチバちゃんの息子が真琴さんなのである。
真琴さんは、白山市でのわらび座公演の営業を応援するために、金沢にはいり「wariki金沢事務所」の森田歩未さんと出会ったそうだ。
わたしたちがわらび座にいた当時幼児さんだった真琴さんが、舞台そして営業で活躍する場に出会え、チバちゃんの息災である話も聞け懐かしかった。

 10月18日(火)に「渡部玲子リサイタル」(すみだトリフォニ―ホール)に妻とともに行った。
渡部玲子さんは、わたしたちがわらび座に在籍していた当時「合奏団」で活躍していた同期の仲間である。
午後6時半の開演、わたしのアルバイトは5時半に終わり「もしかしたら遅れるかもしれない」と、気もそぞろに日暮里駅から錦糸町駅に向かう。
錦糸町駅に着いたら20分ほどの余裕があり1ベル前に会場に到着、先に来ていた妻の座席のとなりにすべりこんだ。
その隣には横浜から元わらび座員のM夫妻、後座席には京都から駈けつけたU君、その隣には元わらび座合奏団員だったMちゃん、粂川さんがいた。
わらび座合奏団でヴァイオリンを弾いていた粂川さんにはほんとうに久方ぶりに会った。
休憩時間に粂川さんとちょっと立ち話したが、宇都宮においてご夫妻でヴァイオリンを携えて活躍していると承った。

「渡部玲子ヴァイオリンリサイタル」は20回目となる。
モーツアルト、清瀬保二、ドボルザーク、おき はるお(元わらび座員・作曲家・「飴売りコ」)、ドビュッシー、ブラームスの作品を奏でた。
来年も秋口に第21回目のリサイタルを開催するという。

 今度はさらにどんな出会いがあることか楽しみである。


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