床屋さんに行く

2007年11月19日 | Weblog
 久しぶりに床屋さんに行った。わたしは床屋さんの鏡とお風呂屋さんの鏡には、いつも閉口する。自分の姿や顔が大きなアップで写し出される。見たくもない自分の顔が目の前に浮かぶと、どこに視線をやってよいか分からなくなる。狼狽えてしまうのだ。恥ずかしくなる。まともには目を合わせられない。
 毎朝、洗面所で顔を洗うことは習慣として68年間、くりかえしてやってきたが、鏡に写る自分の顔をつくづくと見ることはない。そそくさと髪の毛を横に撫で付けてチラッと全体を眺めて、鏡を後にする。
 
  若い頃には、髪が伸びるとお風呂屋さんに行ったついでに、落ちている安全カミソリを拾って、前髪をすいたり、手探りで襟足を剃ったりしていた。それで床屋さんに行くことが倹約された。
 眉毛も太く濃いものだから、すこし優しげにそり落としたりしたこともある。

 孫の磊也(中3)にこの春逢ったら、眉毛が細く剃られたうえに外側が半分、そり落とされてしまっている。よほど床屋さんの手元が狂ってのことであろう。
 振り返ってみると磊也の父、朗が中学生の頃にも眉毛が細くなって、半分になってしまっていたことがあった。
 ふかく訊ねなかったけれど、中学生頃の活発な男性の皮膚は滑りやすく「理髪師泣かせ」の代物であったのであろう。親子そろってその時期、眉毛を剃られてしまっている。

 わたしは、この年になり髪が伸びると耳元の白髪が気にかかるようになった。なんとなくそそげ立つ白髪を目の縁で捉えてしまうのだ。
 それが嫌で二月に1回は床屋さんにいくようにしている。

 磊也たちはどの位の間隔で床屋にいっているのか分からないけれども、滑って眉をそってしまうようなところではなく、頭だけを刈ってくれる床屋を紹介できたらよいなぁと思っている。
 
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わたしの「トラウマ」は…

2007年11月13日 | Weblog
「和力」がアメリカ公演に行くことが決まってよく尋ねられる。「あなたも事務所スタッフとして同行するのですか」。「いいえ、わたしは行きません」。「どうしてですか。せっかくの機会だから一緒に行けばよいのに」。
 わたしは笑って答える。「どうも外国に行く気はしないのです」。「えっ」とたいがいの人は驚く。
 やせ我慢かよっぽどの出不精者と思えるのかも知れない。

 わたしは心底、海外はもとより国内であってもあまり他所に出る気にはならない。
 一つには、国内は仕事でずいぶん回ったから「もう、いいや」という思いがある。
 劇団に入って20代後半から15年ほど全国を営業で行脚した。県庁所在地をふくめて町や村などもずいぶんと駆けめぐった。
 鹿児島・宮崎では街路樹のハイビスカスが綺麗だった、神戸や札幌は、垢抜けしたしゃれたところが何故だか共通している、謎は解けないが多くの思い出がある。

 担当する地域に4ヶ月ほど住みついて、地域のなかを動き回ったから、大体どこにどういうものがあるのかをある程度は知っているつもりだ。
 気になりながら訪れなかった所もたくさんある。小諸市で仕事をしたときには島崎藤村の詩で知られる「懐古園」が駅前にある。駅で乗り降りするたびに「いつかは入ってみよう」と思いながら果たせなかった。
 岡山市を担当したときには、「後楽園」の傍をいつも行き来して「どんな名園なのだろう」と興味を持ちながらも、とうとう機会を逸して今日に至っている。
 静岡の三島市を担当したときには、駅から降っていくと「三島公会堂」があった。隣には「楽寿園」がありそこには象がいた。実行委員の人が「楽寿園の象は人の油断を見すまして、鼻から水を浴びせる」と愉快そうに話している。
 わたしはその象に逢いたくて入ってみたことがある。はるか向こうで件の象は暇そうにブラブラしている。見物人は木の陰から首を出しては象をうかがっている。 象は知らんぷり。と子どもが出ていく。象は鼻を持ち上げて水をねらい定めてぶつかけてきた。みんなは大喜びだ。
 このように時間をとって公園などに行くのは、本当に希なことだった。
 
仕事で行っているので、旅行とはちがうのだから仕方がなかったが、身近にある名勝・旧跡地に行く気持ちの余裕がなかった。
 客席をガラガラにして、公演班を迎えるわけにはいかない。客席を埋めなくてはならないと、毎日のスケジュールは手帳にあふれて、真っ黒に書き込まれていた。
 手帳を真っ黒に埋め尽くすほどのスケジュールでないと、安心できない。多くの団体・個人、あらゆる会合に出かけて宣伝とチケットの依頼にまわっていた。
 公演がおわれば、あいさつ回りとチケット代の集金があり、早く本部に帰って精算・資料づくりをしなければならないし、次に行くべき所もすでに決められている。
 全国をずいぶん回ったけれど、いつも慌ただしく次のスケジュールへと追い回されていたのだ。名勝を訪れるどころか、貧乏だったから名物といわれるものも食べることがなかったと今更ながら思う。

 わたしも若かったし、当時は忙しさに充足感があった。「忙中閑あり」で担当地を移動するのには、汽車だったから、読書の時間を相当にとれ、本をたくさん読むことができた。これが救いといえば救いであった。

 これがわたしの「トラウマ」となったのだろう、スケジュールに追われる旅行に、気持ちが動かないのだろう。



愛知万博にて  花翁(はなおきな)


 わたしはこの「トラウマ」の意味が、最近まで分からなかった。よく耳にしてはいたが「なんのことだろう」と思っていたのだ。
「竜虎相打つ」といえば、強いもの同士の対決だろうと分かる。馬と鹿を続ければ、人を貶める言葉になる。
「虎馬」とはなにを意味するのか、強い虎と足の速い馬が重なるのだから、俊敏な強さを誇る言葉だろうかとも思っていた。

 知らない土地に行って苦労したくないというわたしの「トラウマ」は、海外に強く向けられる。
 語学の事がある。英語が全然できない。中学生から英語を始めたのだから、ある程度の理解はできる。
 分不相応にパソコンをやっているが、パソコンの世界は横文字だらけである。その中で「アップロード」とか「ダウンロード」という指示がよくでてくる。
 わたしは中学以来の英語力で、理解しようと努める。「アップ」は「上に」という意味だろうし、「ロード」は「道」だろう。「アップロード」で「上り坂」だと理解する。「ダウンロード」は「下り坂」だと思う。「シルクロード」が「絹の道」だから正解に違いないと自信をもつのだが、上り坂、下り坂を頻繁に指示されてもどうやってよいか分からずに、パソコンの前で時間ばかりが空回りしてしまう。

 だから他所の国へ行っても話せない、聞き取れないに違いないと神経が病む。そんな苦労をするくらいなら、行かない方が増しだと思うのだ。

 でも、インドネシアのバリ島あたりに出かけて、蒼い海原を眺めてのんびりとした時間を過ごしたい、悠久の刻(とき)に身を委ねて、本をいっぱい読みたいなぁと思ってはいるのだから、あながち外国に行きたくないというのは、「トラウマ」でないのかも知れない。
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文化勲章…

2007年11月07日 | Weblog
 10月末に今年度の文化勲章・文化功労者の発表があった。今までは、余り関心はなく「年をとった人が受けるものだ」と思うにすぎなかったが、今年はとても身近なものに感じた。

 4月わたしたち夫婦が、朗一家の住む阿智村を訪れ、折良く阿智村の園原地域で催されている「早座(さくら)祭り」に参加できた。
 申楽エリア「園原能楽堂」では、「茂山千三郎長野県社中」に弟子入りしている、孫三人が舞台衣装もあでやかに狂言を披露している。
 晟弥(小2)は狂言「しびり」、磊也(中3)と慧(中1)は「蟹山伏」を演じ、人だかりの後ろから覗き込んで見ることができた。

 神楽・田楽エリアでは、人間国宝の茂山千作師が狂言「福の神」を演じておられた。80才をこえるご高齢ながら、笑い声は腹の底から朗々と発せられ、咲き初めた桜の木を通って響きわたる。

 茂山千作師が狂言界で初めての文化勲章受賞者となった。

 孫三人が狂言の衣装のまま、茂山千作師を囲んで記念撮影をした写真を後日、送ってもらった。未だ弟子入りをしていない野詠(保育園年長組)も、千作師の横に立っている。彼女も学校に行くようになれば、弟子入りするのに違いない。
 
 日本の伝統を奥深く継承・体現してこられた方々の息吹に触れ、薫陶を受けられる孫たちの行く末に思いをこらす。
 身近には伝統芸能を現代に甦らせている父親・朗がいる。その仲間である「和力」メンバーからも、芸の財産を思う存分受け継ぐことが出来る。

 伝統芸の刺激を多方面から摂取し、どのように統合・融合させていくのだろうか。


 どのような人生をそれぞれが切り開いていくのかは分からないけれど、切磋琢磨するよい師を身の回りに持つ、孫たちの将来の姿が楽しみになる。



阿智村・母屋から稽古場を望む。



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松戸での学校公演…

2007年11月05日 | Weblog
 先週の金曜日、朝10時に校門前で待ち合わせる約束で小学校を訪問した。学校は松戸市常盤平団地の一角にある。
 今にも雨が降りそうな空模様であったけれど、250CCホンダレブルに跨り常磐平のけやき通りをとばす。いつ見ても思うのだが、常盤平駅前からつづくけやきは太く高く逞しい。むだな枝払いなどはやられていないのだろう。車道をはさんだ歩道の両側に亭々と聳え立って、いつの季節であっても伸び伸びと勇壮な心になる景色だ。
 けやき通りに交叉するかたちでさくら通りもあり、年を経た桜の木がトンネルをかたちづくっている。この通りは「日本百選」にも入っていて、地元の方々の誇りになっている。

 常磐平団地は、東京オリンピック当時に建設され時代の先端を行く住居として注目されたという。これらの並木道も最新鋭の団地を彩るものとして切り開かれたのにちがいない。
 世は高度経済成長期の最中、多くの人々が若木の下を通って駅に向かい、休日には家族が木の下で寛いだことだろう。

 木は大きく成長し空に向かって腕を広げ、片側一車線の道路は広々と秋の暮色の中で、葉っぱは淡く黄ばみ始めている。
 団地はひっそりと静まりかえり、道行く人影は少ない。かってあっただろう人々の活気は見受けることはない。



山の神楽

 この一角は若さでわきかえるようだった。小学生を子にもつ若いお母さんたちが20人ほど集まって、「和力」のDVDを「あら凄い」、「う~ん」とためいきを交えながら、パソコン画面に見入ってくれる。
「こどもたちに本物の芸術を見せたい」と、毎年、PTA「児童育成…部」が鑑賞行事を取り組んでいるという。PTAが地域に呼びかけて「資源ゴミ」を団地自治会や近辺の町会に出してもらい、その資金をプールしての企画だそうだ。
 最盛期には1,600人をこえる児童数だったのが、団地住民の高齢化によって生徒数は年ごとに減って、今では400人をきっている。「ここは日本の縮図みたいな所で、少子・高齢化が極端にすすんでいるのです」、「団地には一人住まいのお年寄りが多い。わたしたちの鑑賞行事には地域へのお礼をかねて、これらの方々にもきていただいている」。

「和力」をご覧になった方は一人もいない。いないけれども「来年の11月には和力を取り上げることにしている」と言って下さっている。
 まだお会いしていないのだが、地域で絵画アトリエを開いているTさんが、「こどもたちにぜひ見せてあげるといい」と推薦してくださったということだ。
「いつもだと、たくさんのパンフレットを並べて、みんなで頭をしぼって選考していたが、和力さんのチラシやパンフを見てこれだと…もう決めているのです」とありがたい言葉を承った。

 05年に和力の公演を初めて松戸で開催した。以後、3年間、実行委員のみなさんの力で連続して開催することができた。
 そしてわたしの手の届かない所で、和力は広がり共感され、未知の方々が推薦してくださるようになったのだ。松戸で初めての学校公演が実現できることに、わたしは人の縁の広がりの不思議さを思う。そして和力をそのまま受け入れてくれることをありがたく思うのだ。

 来年、11月20日(木)には、この地で育つ若木のような子どもたちと、活気あふれる父母や教職員、子どもを温かく見守る地域住民の方々が一同に会して「和力」の舞台を共有する。

 この日、大きく育つ木々に囲まれた学校は、木の盛んな生命力に負けない、世代をこえる人間の活気にあふれるだろうと、わたしは想像力をふくらませるのだ。
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