前夜の気象情報は「寒気が強まり日本海側は雪、太平洋側でも名古屋あたりまで雪雲が広がるでしょう」といっていた。
翌12月25日(日)、朝9時半に家を出て松戸駅に向かう。冬の空は高く澄みわたり風もないから寒さはあまり感じない。名古屋はここから南にあるはずなのに「本当に雪が降るのだろうか」とふと思う。
午後5時開演で「和力」名古屋公演がある。
年末だがそんなに混み合ってなく、新幹線の指定席がスムーズにとれた。
車窓に富士山が見えた。富士山のふもとに、紙パルプ工場が林立している「新富士駅」あたりだ。
わたしがわらび座に在籍し、営業ではじめて降り立ったのは静岡県だった。営業生活でさまざまな地方へ出向いたが静岡での仕事が多かった。東海道沿線でいえば、熱海・沼津・三島・富士・静岡・掛川などである。
当時の移動は東海道線でだった。列車の窓は、暑い時には窓を開け放ち、寒くなれば窓を閉め、今のように窓が閉ざされていなかった。
東海道線が「吉原駅」、「富士駅」にさしかかると、夏場は乗客みんながあわてて窓を閉めたものだ。
紙工場から立ち上がる湯気や煙に混じっているのだろう、異様な臭いが車内に立ち込めてくる。硫黄のごく薄い感じというか、食物の腐敗し始めたような臭いだ。
当時の窓は、隙間風が遠慮会釈なしにはいってきたから、窓をしめても臭いは忍び込んできた。
だから居眠りしていても、「あ、富士駅に近づいたな」と目覚めたものである。
30年以上前のことを思い出しているうちに、静岡を通り過ぎた。静岡は快晴で富士山の頂上までよく見えた。
岡崎あたりから前方をみると空は灰色に覆われてきた。
やはり気象情報は当たったのだ。名古屋駅を降り地下鉄「黒川駅」の長い階段を登りきると、風が冷たく吹いている。
「名古屋市北文化小劇場」では、実行委員・太鼓グループの方々がロビーの飾り付け、受付や売店の準備で大忙しだ。
和力の「暮の打ち逃げ」公演は、「当日券」なしの「前売券」だけの催しである。毎回、公演日を待たずに「満員御礼・札止め」になるが、今回は1ヶ月も前に「札止め」になった。
本ベルが鳴り客席灯が落ち始める。
「幕開けに、東日本大震災でお亡くなりになった方々への鎮魂の思いをこめ、福島県いわき地方の『ぢゃんがら念仏』を舞わせていただきます」とナレーションがはいる。
ぢゃんがら念仏踊りは、新盆をむかえる家々を巡って舞う踊りだ。腰から下げた太鼓、バチはウサギの白いやわらかい毛が巻きつけてある。屈み伸び上がり、低く高く太鼓の音がひびき、鉦の音が合わさり荘厳な空気につつまれる。
次は「ぎおん太鼓」である。この演目は「八戸市えんぶりより」、「京都府六斉念仏」、「福岡小倉祇園太鼓より」が盛り込まれている。滑稽味があり明るく楽しい演目であった。
筝独奏「さくらさくら」(作曲・沢井忠夫)は、思わず口ずさみたくなる「さくらさくら」が、太くあるいはか細くまた激しくそしてゆったりと、さまざまな技法で奏され聞く者の心をしっかりととらえた。
横笛独奏「想郷歌」(編曲・木村俊介)は、日本各地の子守唄のメドレーであった。あの細い竹の筒なのに、野山を渡る風のように、あるときは太くそして高く鳴りひびき、いつしか自分のふる里に抱かれる心地よさがあった。
調音の時から観客を魅了するのが、「津軽じょんから節即興曲」であり、三味線が吼えそしてか細く囁くのに酔いしれる。
三味線の合奏曲「北風に踊る」(作曲・小野越郎)は、二挺の三味線に合わさって、足首にまいた鈴が「シャンシャン」と鳴る。春を待ちわびながらいろり端で語り合う楽しさが湧き出てくる。
落語「権助魚」は特別ゲスト、柳家さん若である。加藤木朗と共演ユニット「噺咲騒子(はなさかざうし)」は、「子ども劇場」やライブでずいぶん実施した。和力の舞台では初めての登場であった。
登場する旦那、おかみさん、権助の人物形象が鮮やかで、和力の伝統芸能に話芸が一花添えていた。
わたくしごとであるが、わが家に5月から寄宿し芸の修行をしている加藤木磊也(らいや)が、出囃子の三味線を奏でた。三味線を習い始めて7ヶ月だが、安定したしっかりした音であると感心して聞いた。
「鶏舞」(青森県田子神楽より)は、和力の定番演目である。どこでもいつでも演じているが、飽きることはない。雌鳥(朗)と雄鶏(磊也)との掛け合いは、狂言の所作、発声が地についていて、違和感なく落ち着いてみることができる。磊也は中学生のときから修行してきた甲斐がある。
休憩時間10分が過ぎる。カッチカッチと拍子木を叩きながら、「間もなく開演でーす」と触れ歩くのは磊也である。ロビーを回った後、客席の通路を歩く。客席は大喜びである。小さい頃からの磊也をご存知なのだ。
舞台横の時計をみながら「あと3分ではじまりまーす」、「あと1分でーす」と、云うことがなくなったものだから、開幕までの時間をお知らせしている。拍手で迎えてくれる通路があり、「何才になったの」と問いかける方もいる。「19才です」と答えてカッチカッチ…。
第二部の幕が上がる。
音舞語り「鯰(なまず)退治」(脚本・加藤木朗、構成・和力)がはじまった。
この物語は、「なまずが地中にいて地震を起す」という俗説に題をとったものである。岩手の「鹿踊り」から始まり、「権現舞」で終わる、鯰を封じ込めて地震の元を当面の間、断ったとの祝い芸になっている。
終演のあいさつで加藤木朗は、「ことしは良いことも悪いこともたくさんありました。前を向いて、行けるところまでちょっとづつでも進んで行けたらよいなと思いまして、悲しい物語ではなく、楽しい物語をおおくりいたしました…」と述べていた。
あわせて「年末の忙しい季節に、実行委員、太鼓サークルの方々がチケットを進めて回ってくださり、連続9年間、公演を開催していただいている」ことを感謝していた。
わたしはあいさつを聞きながら、「暮の打ち逃げ」が毎年恒例で開催していただくお陰で、和力は毎回あたらしい作品を産み出し、演目を更新でき、みなさんへの鑑賞に具することによって、和力メンバーが精進できたことは、大きな財産だとつよく思うのだ。
創り手と受け手が真剣に渡り合うことによって、和力の芸が深化してきた源がここにある。
また、実行委員の何人かは、舞台を支えるスタッフ、あるいは受付などステージを直接みることができないにも関わらず、黒子役として常に支えてくださっている。
名古屋は、東からと西から文化の合流点として、古来から芸人の鬼門として知られる地域である。その地で長年ささえていただける幸せを思う。
「ぢゃんがら念仏踊り」で鎮魂の幕開け、第二部では、「悲しみ・苦しみを乗り越え前に進もう」と締めくくった。
忘れることのできない、3月11日「東日本大震災」へ手向けることができるステージになったのではなかろうか。
「だんじり囃子」(大阪府)、アンコール「東風」(作曲・木村俊介)で、第9回目となる「暮れの打ち逃げ」公演、2時間45分の演目は終了したのである。