舞の講習会

2012年01月28日 | Weblog
 廃校になった小学校体育館が、きょうの「講習会」会場である。講師の加藤木朗は、長野を発ち、午後1時前に到着する予定だ。
わたしは、講習会のようすを記録したくて、デジカメを持ってでかけた。
空は青く澄みわたり、日差しはつよく風もないから陽だまりは暖かい。校庭ではサッカーの球を追いかけ、小学生が歓声を上げて走り回っている。

 体育館の分厚い鉄ドアを開け中に入る。床面はつやつやと差しこむ陽ざしに光っているが、広い空間の空気は冷えこんでいる。
「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の部員がつぎつぎに集まってくる。
暖房設備がない体育館だからみなさん厚着をしている。ウォーミングアップが終わったところへ朗が到着した。



「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」は、2年ごとに開催する「コンサート」にいつも新しい演目を披露する。
一昨年は、和力の持ちレパ「東風(こち)」(木村俊介作曲)を演奏した。2年先になるコンサートでは「三本柳さんさ踊り」をやりたいと取りかかり1年を経過した。

 物の本によると「さんさ踊り」は250年以上の歴史があるそうだ。岩手県盛岡市三本柳に「三ツ石神社」がある。
この地域に荒ぶれた鬼が現れ人々を苦しめた。人々は「三ツ石神社」の神に鬼退治を祈願し、神と住民の力でみごとに鬼を退治したという。
人びとは喜び「さんさ さんさ」と囃しながら、再び鬼が舞い戻ってこないように、太鼓を打ち鳴らし踊りあかしたのが起源だと伝えられている。

かけごえの「さんさ」は、33の踊りの手があるからだと云う説もある。



 勇壮でありながら優美な「三本柳さんさ踊り」が、コンサートで見られることを期待した1月28日(土)の講習会であった。
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「は~いビスカス」の新年会

2012年01月25日 | Weblog
「福祉・文化サロン は~いビスカス」が活動をはじめて今年で8年目になる。
知的障害者の余暇支援を中心に、「うたごえ喫茶」、「シネマ上映」、「絵手紙の会」、「フリーマーケット」など、JR常磐線「北松戸駅」から徒歩3分、地の利を生かしいろんな人が集まり楽しむ場となっている。


うたごえ喫茶 

 ボランティアスタッフは5名だが、賛助会員が折にふれ手助けしてくれる。賛助会員のみなさんにはお世話になりながら、感謝の意を尽くせないまま過ぎ去っているので、毎年1月に「新年会」を催しみなさまに集まってもらう。
おでんや赤飯など手づくりの料理を囲んで一献かたむけるのだ。抜け目なく会費もいただく。


ご馳走の数々

 スタッフ会議で「磊也(らいや)君がここでレッスンをしている。ぜひお祝いの席でやってもらおうよ」と話された。
磊也に計画を話すと「いいよ」と引き受けたので、ゴザを敷いての特設スペースをつくった。



 加藤木磊也は、高校を卒業し昨年5月から修行生活にはいった。わたしたちの家に住み、狂言・三味線・筝・胡弓・江戸囃子・篠笛の師匠の元へ通う。
磊也が教わったことを予習・復習する場をどうするかが難題だった。
工務店に部屋の改造を相談し、ピアノ教室を訪ね「防音シェルター」の説明を受けたりしたが、費用の工面がつかない。
妻と「どうしたらいいだろう」と思案していたら、「ここを使ったら……」と、「は~いビスカス」スタッフ会議で勧めてくれたのだ。
「部屋代も学割でいいからさ」と、伸び伸びと使わせてもらっている。

 1月21日(土)、午後4時から新年会は始まった。磊也はこの日、午後2時から胡弓のお稽古だったので、遅れて4時半ごろに会場に現れた。
「演目は磊也が組み立て、持ち時間は20分…」と打ち合わせただけなので、なにをやるかわたしは分からない。
年末に「和力名古屋公演」で、狂言の「小舞」を悠然と舞っていたので、みなさんに披露したらいいなぁとは思っていた。


胡弓





三味線

 磊也の演奏は、胡弓と筝が「さくらさくら」、「かぞえうた」の2曲であった。9ヶ月の修行であるから、自由自在にとはいかないようだが、胡弓、筝の音色にお正月を感じた。
「津軽のりんご節をやります」と、三味線を調音しながら説明をし、「りんご節」ひきつづいて「あどはだり」を演奏した。
胡弓と筝は、月替わりで2ヶ月に1回のお稽古だが、三味線は月2回のお稽古がつづいている。音の強弱、そして津軽三味線の「うなり」もあるようで、身びいきながら聞き応えがある。
 三味線が終わると拍手と共に「投げ銭」が飛ぶ。割り箸に紙幣をはさんだ「ご祝儀」もいただいた。
投げ銭をていねいに集めて「ありがとうございます」とお礼をする磊也に、「は~いビスカス」代表から、「今日の出演料だからね」と大入り袋が手渡された。



 磊也が選んだ演目は、修行生活で初めて身に付けたものだけに絞っていた。お囃子は幼い頃から身に付け、狂言は中学時代から、獅子舞や鶏舞などと共にステージで演じているもの以外を披露したのである。

「うたごえ喫茶」で伴奏をしてくれるピアノ演奏家Yさんも参加していた。磊也の出番がおわると、Tさん演奏のショパン「……幻想曲」が室内をながれる。
「東葛合唱団はるかぜ」団員、TさんOさんの澄みきった独唱などがつづいた。後はしばらくみんなで思う存分、歌い交わす新年会となった。
磊也は、うたごえの輪に初めて加わったと思う。歌集を繰る姿を見ながら、貴重な体験をさせていただいているなぁと、ありがたくも忘れがたい新年のつどいとなったのだ。

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中学生高校生交流会

2012年01月17日 | Weblog

上越セミナーハウスの周り

 1月7日(土)から9日(祝)にかけて、新潟県上越市で「こども劇場・おやこ劇場 新潟県センター」主催による、「新潟県内中学生高校生交流会」が開かれた。
和力は昨年11月、「噺咲騒子(はなさかざうし)」を新潟県内の三劇場例会でとりあげていただいた。
例会の最終日には「和太鼓ワークショップ」が企画され、楽しい交流の場がもてた。
そのご縁で「中・高生交流会の三講座のひとつに太鼓教室をいれたい。スケジュールは確保できるか」と問い合わせがあった。
朗は名古屋で定例の「教室」を終えてから、駆けつけることで日程の調整がついた。

 新潟県センターの柳弘紀さんに「朗は参加できます。ありがとうございます」と連絡したら「磊也(らいや)君もお願いしたいのですが…」との事である。
わたしはびっくりした。主催者から磊也を個別指名していただくのは初めてのことである。
磊也は、「噺咲騒子」新潟例会に同行し、新潟のみなさまとお馴染みになっていたのだ。

 磊也は修行中の身であるが、太鼓は物心ついた時期から、中学生になって狂言を、鶏舞(青森県田子町神楽)、「獅子舞」なども身に付け、幼い頃よりステージ経験がたくさんある。
マネージャー役でわたしが同行するより、「磊也の方が役立つのではないか」と、新潟に送り出した。
「噺咲騒子」は、加藤木朗と柳家さん若(じゃく)の二人舞台だが、磊也が加わって厚みある舞台になったようだ。
磊也は、落語の出囃子で三味線を奏で、だんじり囃子で太鼓の下打ち、「和太鼓ワークショップ」では朗の補佐をつとめ、同世代の青年たちが楽しんだという。


 青年たちの買出し


 食べる



 今回の「ワークショップ」は、中・高生が主人公であるので、青年たちが運営面を担い、裏方として中高生を支えた。
講師陣やサポーターを含めればかなりの人数が、「上越セミナーハウス」に泊り込んだ。
食事は、出前や弁当でなく、毎食手づくりだったから、青年たちが2泊3日の生活を支えるのはおおごとであったにちがいない。
食材の買出し、下ごしらえ、調理、盛りつけ、片付け……目まぐるしく時間が過ぎていく。
青年たちの舞台裏の奮闘に支えられて、講座はたのしく進んでいく。朗と磊也の太鼓教室は、狂言をとり入れ、和やかな受講風景であったと、おやこ劇場事務局の方から聞いた。



 文化を、受身にではなく主導的にとらえ自ら行動する、中・高生と青年たち、それをさらに支える地域の大人たち。
その輪の中で、孫の磊也が芸を磨けるのは、たとえようもなく幸せなことだとつくづく思う新年の幕開けであった。




 写真提供 柳弘紀さん  柿崎恭子さん
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名古屋公演「暮の打ち逃げ・第9弾」を観る

2012年01月06日 | Weblog


 前夜の気象情報は「寒気が強まり日本海側は雪、太平洋側でも名古屋あたりまで雪雲が広がるでしょう」といっていた。
翌12月25日(日)、朝9時半に家を出て松戸駅に向かう。冬の空は高く澄みわたり風もないから寒さはあまり感じない。名古屋はここから南にあるはずなのに「本当に雪が降るのだろうか」とふと思う。
午後5時開演で「和力」名古屋公演がある。
年末だがそんなに混み合ってなく、新幹線の指定席がスムーズにとれた。

 車窓に富士山が見えた。富士山のふもとに、紙パルプ工場が林立している「新富士駅」あたりだ。
わたしがわらび座に在籍し、営業ではじめて降り立ったのは静岡県だった。営業生活でさまざまな地方へ出向いたが静岡での仕事が多かった。東海道沿線でいえば、熱海・沼津・三島・富士・静岡・掛川などである。
当時の移動は東海道線でだった。列車の窓は、暑い時には窓を開け放ち、寒くなれば窓を閉め、今のように窓が閉ざされていなかった。
東海道線が「吉原駅」、「富士駅」にさしかかると、夏場は乗客みんながあわてて窓を閉めたものだ。
紙工場から立ち上がる湯気や煙に混じっているのだろう、異様な臭いが車内に立ち込めてくる。硫黄のごく薄い感じというか、食物の腐敗し始めたような臭いだ。
当時の窓は、隙間風が遠慮会釈なしにはいってきたから、窓をしめても臭いは忍び込んできた。
だから居眠りしていても、「あ、富士駅に近づいたな」と目覚めたものである。

 30年以上前のことを思い出しているうちに、静岡を通り過ぎた。静岡は快晴で富士山の頂上までよく見えた。
岡崎あたりから前方をみると空は灰色に覆われてきた。
やはり気象情報は当たったのだ。名古屋駅を降り地下鉄「黒川駅」の長い階段を登りきると、風が冷たく吹いている。





「名古屋市北文化小劇場」では、実行委員・太鼓グループの方々がロビーの飾り付け、受付や売店の準備で大忙しだ。
和力の「暮の打ち逃げ」公演は、「当日券」なしの「前売券」だけの催しである。毎回、公演日を待たずに「満員御礼・札止め」になるが、今回は1ヶ月も前に「札止め」になった。





 本ベルが鳴り客席灯が落ち始める。
「幕開けに、東日本大震災でお亡くなりになった方々への鎮魂の思いをこめ、福島県いわき地方の『ぢゃんがら念仏』を舞わせていただきます」とナレーションがはいる。
ぢゃんがら念仏踊りは、新盆をむかえる家々を巡って舞う踊りだ。腰から下げた太鼓、バチはウサギの白いやわらかい毛が巻きつけてある。屈み伸び上がり、低く高く太鼓の音がひびき、鉦の音が合わさり荘厳な空気につつまれる。

 次は「ぎおん太鼓」である。この演目は「八戸市えんぶりより」、「京都府六斉念仏」、「福岡小倉祇園太鼓より」が盛り込まれている。滑稽味があり明るく楽しい演目であった。

 筝独奏「さくらさくら」(作曲・沢井忠夫)は、思わず口ずさみたくなる「さくらさくら」が、太くあるいはか細くまた激しくそしてゆったりと、さまざまな技法で奏され聞く者の心をしっかりととらえた。

 横笛独奏「想郷歌」(編曲・木村俊介)は、日本各地の子守唄のメドレーであった。あの細い竹の筒なのに、野山を渡る風のように、あるときは太くそして高く鳴りひびき、いつしか自分のふる里に抱かれる心地よさがあった。

 調音の時から観客を魅了するのが、「津軽じょんから節即興曲」であり、三味線が吼えそしてか細く囁くのに酔いしれる。
三味線の合奏曲「北風に踊る」(作曲・小野越郎)は、二挺の三味線に合わさって、足首にまいた鈴が「シャンシャン」と鳴る。春を待ちわびながらいろり端で語り合う楽しさが湧き出てくる。

 落語「権助魚」は特別ゲスト、柳家さん若である。加藤木朗と共演ユニット「噺咲騒子(はなさかざうし)」は、「子ども劇場」やライブでずいぶん実施した。和力の舞台では初めての登場であった。
登場する旦那、おかみさん、権助の人物形象が鮮やかで、和力の伝統芸能に話芸が一花添えていた。
わたくしごとであるが、わが家に5月から寄宿し芸の修行をしている加藤木磊也(らいや)が、出囃子の三味線を奏でた。三味線を習い始めて7ヶ月だが、安定したしっかりした音であると感心して聞いた。

「鶏舞」(青森県田子神楽より)は、和力の定番演目である。どこでもいつでも演じているが、飽きることはない。雌鳥(朗)と雄鶏(磊也)との掛け合いは、狂言の所作、発声が地についていて、違和感なく落ち着いてみることができる。磊也は中学生のときから修行してきた甲斐がある。



 休憩時間10分が過ぎる。カッチカッチと拍子木を叩きながら、「間もなく開演でーす」と触れ歩くのは磊也である。ロビーを回った後、客席の通路を歩く。客席は大喜びである。小さい頃からの磊也をご存知なのだ。
舞台横の時計をみながら「あと3分ではじまりまーす」、「あと1分でーす」と、云うことがなくなったものだから、開幕までの時間をお知らせしている。拍手で迎えてくれる通路があり、「何才になったの」と問いかける方もいる。「19才です」と答えてカッチカッチ…。

 第二部の幕が上がる。

 音舞語り「鯰(なまず)退治」(脚本・加藤木朗、構成・和力)がはじまった。
この物語は、「なまずが地中にいて地震を起す」という俗説に題をとったものである。岩手の「鹿踊り」から始まり、「権現舞」で終わる、鯰を封じ込めて地震の元を当面の間、断ったとの祝い芸になっている。
 終演のあいさつで加藤木朗は、「ことしは良いことも悪いこともたくさんありました。前を向いて、行けるところまでちょっとづつでも進んで行けたらよいなと思いまして、悲しい物語ではなく、楽しい物語をおおくりいたしました…」と述べていた。
あわせて「年末の忙しい季節に、実行委員、太鼓サークルの方々がチケットを進めて回ってくださり、連続9年間、公演を開催していただいている」ことを感謝していた。

 わたしはあいさつを聞きながら、「暮の打ち逃げ」が毎年恒例で開催していただくお陰で、和力は毎回あたらしい作品を産み出し、演目を更新でき、みなさんへの鑑賞に具することによって、和力メンバーが精進できたことは、大きな財産だとつよく思うのだ。
創り手と受け手が真剣に渡り合うことによって、和力の芸が深化してきた源がここにある。
また、実行委員の何人かは、舞台を支えるスタッフ、あるいは受付などステージを直接みることができないにも関わらず、黒子役として常に支えてくださっている。
名古屋は、東からと西から文化の合流点として、古来から芸人の鬼門として知られる地域である。その地で長年ささえていただける幸せを思う。

「ぢゃんがら念仏踊り」で鎮魂の幕開け、第二部では、「悲しみ・苦しみを乗り越え前に進もう」と締めくくった。
忘れることのできない、3月11日「東日本大震災」へ手向けることができるステージになったのではなかろうか。

「だんじり囃子」(大阪府)、アンコール「東風」(作曲・木村俊介)で、第9回目となる「暮れの打ち逃げ」公演、2時間45分の演目は終了したのである。

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