わたしには5人のきょうだいがいる。一つちがいの妹は19才で嫁いだ。相手は新潟から集団就職で上京してきた母の遠縁、中條孝さん-(株)中條の現会長である。
中條孝さんは、食肉卸問屋で必要な肉を仕入れ、まな板の一部を借りて肉を解体し、余った肉は冷蔵庫に保管してもらい、作業所も店ももたないで、レストラン・ラーメン屋など自分で開拓したお得意をまわって、商売をやっていた。
バイクの荷台に大きな籠を結わえて、豚足・骨、肉などを満載して都内を走り回る。腰にはなめし革のカバンをぶら下げて、そこにはサインされた「納品伝票」が大事に入っていた。「この伝票が財産なのだ」とカバンを撫でていたのを思い出す。
何軒かのラーメン屋・そば屋・レストランを得意にもち、いくばくかの口銭を稼ぐ。
「どうやら開業できる資金が貯まった。所帯をもって店を構えたい」と、わが家にやってきて「わたしの嫁には、働き者であるお宅の娘さんを迎えたい」と、父と母に申し入れた。
妹は珠算の腕前は「2級」で、大手運送会社の事務員として働いていた。会社勤めだけではなく休みには父親の仕事を手伝い、妹・弟の面倒見がよい所をみそめられたのだろう。
結婚間もなく、荒川区日暮里の一角に古い商店を買い受け改築、念願の自分の「城」を持つにいたる。
中條孝さんの古くからの友人Kさんは、大きな肉店で「板前」として腕をふるっていた。新婚夫婦とKさん3人で店開きをした。
わたしは開店時から、わらび座に行く春までの期間、10ヶ月ほどお手伝いした。
間口一間ほどの小さな店で、冷蔵庫も、肉を捌く作業台もせまかった。お店は、「板前」さんと妹が切り盛りして、外回りの卸しは中條孝さんが一手に引き受ける。
「中條商店」は「内」と「外」の体制を打ち立て、かくして始まったのである。
わたしは慣れない手つきで、コロッケを揚げたりメンチを作ったり、小間切れなどを計り売りしたり、大きな自転車に豚骨や肉を籠に満載して、配達に出かけることもあった。
わたしは23年間の劇団での生活を終えて、45才にして母の元に戻ってきた。「中條商店」は「株式会社・中條」として、社員20名ほどに発展し、就職が難しい年令のわたしを引き取ってくれ、以後20年間わたしは社員として働かせてもらった。
中條勉社長夫妻(加藤木朗の従兄弟)
発展した会社をさらに驚異的に変えたのは、二代目の中條勉社長である。その経営眼は斬新で時代の先を読みとる「即断即決」の小気味よさがあった。
「セントラルキッチン」を設立して、「首都圏のホテル・レストランのバックヤード」を謳い、肉の加工品・スープ・ソースなど100種以上の食品を提供できる施設を立ち上げた。
バブル崩壊期には、都内にあった名だたる肉屋の老舗がずいぶん店をたたんだ。原因は余裕資金で不動産などに手を出して、火の粉をかぶったという噂が多かった。
(株)中條は投機的な動きには目もくれずに、「お客さんがなにを求めているのか」と本業のみに徹していたから、食肉卸の歴史で培った知識と実力で、仕事の巾を広げ、時代の要請にあったものとして、首都圏のホテル・レストランに不抜の根を張ることになった。
4人の体制で出発した「中條商店」は50年後、60名の社員をかかえ食肉業界では全国有数の会社に成長し、10月19日(日)「株式会社中條 創業50周年」の集いを、「ANAインターコンチネンタルホテル東京」で開催したのである。
わたしは妹の嫁ぎ先が「発展しておめでとう」というだけではなく、人生の折節にわたしたちを支えてくれた感謝の気持ちをもって、創業50周年を祝った。
中條孝会長夫妻(加藤木朗の叔父、叔母)
式典には「和力」を呼んでくれた。
朗は「定時制高校生として働かせてもらいました。会長ご夫妻には『人として生きるには』と人生の指針を与えてもらい、勉社長は従兄弟として小さい頃から面倒をみていただき憧れの人でした。わたしの生きる道をこの会社で学ばされ感謝しています」と挨拶、「だんじり」を叩き始めた。
朗の子どもである、磊也・慧も和力メンバーとして出演した。
彼らも(株)中條の発展の息吹を肌身に感じて「ここでじじも父も働いたことがあるのか」と、歴史を感じてくれたにちがいない。
中條三世代目の竜太君は、しばらく見ないうちに逞しい青年になっていて、社員と混ざって立ち働いていた。妹の瞳ちゃん、剣太君もたしかな受け継ぎ手になるだろう。爽やかに成長していた。
歴史は紡がれ引き継がれていく。
商道・芸能と異業種ながらわたしたちの三世代目がお互いに相まみえられたのも、50年の年輪を重ねた「中條」の発展があったお陰であると、巡り合わせの妙を不思議なものに感じる。
わたしたちのずうっと後世になって、これら三世たちがどのような関係を結び合うのだろうか。
発展し成長するもの同士の今後が楽しみになる、二重にも三重にもありがたい、記念祝典であった。
中條孝さんは、食肉卸問屋で必要な肉を仕入れ、まな板の一部を借りて肉を解体し、余った肉は冷蔵庫に保管してもらい、作業所も店ももたないで、レストラン・ラーメン屋など自分で開拓したお得意をまわって、商売をやっていた。
バイクの荷台に大きな籠を結わえて、豚足・骨、肉などを満載して都内を走り回る。腰にはなめし革のカバンをぶら下げて、そこにはサインされた「納品伝票」が大事に入っていた。「この伝票が財産なのだ」とカバンを撫でていたのを思い出す。
何軒かのラーメン屋・そば屋・レストランを得意にもち、いくばくかの口銭を稼ぐ。
「どうやら開業できる資金が貯まった。所帯をもって店を構えたい」と、わが家にやってきて「わたしの嫁には、働き者であるお宅の娘さんを迎えたい」と、父と母に申し入れた。
妹は珠算の腕前は「2級」で、大手運送会社の事務員として働いていた。会社勤めだけではなく休みには父親の仕事を手伝い、妹・弟の面倒見がよい所をみそめられたのだろう。
結婚間もなく、荒川区日暮里の一角に古い商店を買い受け改築、念願の自分の「城」を持つにいたる。
中條孝さんの古くからの友人Kさんは、大きな肉店で「板前」として腕をふるっていた。新婚夫婦とKさん3人で店開きをした。
わたしは開店時から、わらび座に行く春までの期間、10ヶ月ほどお手伝いした。
間口一間ほどの小さな店で、冷蔵庫も、肉を捌く作業台もせまかった。お店は、「板前」さんと妹が切り盛りして、外回りの卸しは中條孝さんが一手に引き受ける。
「中條商店」は「内」と「外」の体制を打ち立て、かくして始まったのである。
わたしは慣れない手つきで、コロッケを揚げたりメンチを作ったり、小間切れなどを計り売りしたり、大きな自転車に豚骨や肉を籠に満載して、配達に出かけることもあった。
わたしは23年間の劇団での生活を終えて、45才にして母の元に戻ってきた。「中條商店」は「株式会社・中條」として、社員20名ほどに発展し、就職が難しい年令のわたしを引き取ってくれ、以後20年間わたしは社員として働かせてもらった。
中條勉社長夫妻(加藤木朗の従兄弟)
発展した会社をさらに驚異的に変えたのは、二代目の中條勉社長である。その経営眼は斬新で時代の先を読みとる「即断即決」の小気味よさがあった。
「セントラルキッチン」を設立して、「首都圏のホテル・レストランのバックヤード」を謳い、肉の加工品・スープ・ソースなど100種以上の食品を提供できる施設を立ち上げた。
バブル崩壊期には、都内にあった名だたる肉屋の老舗がずいぶん店をたたんだ。原因は余裕資金で不動産などに手を出して、火の粉をかぶったという噂が多かった。
(株)中條は投機的な動きには目もくれずに、「お客さんがなにを求めているのか」と本業のみに徹していたから、食肉卸の歴史で培った知識と実力で、仕事の巾を広げ、時代の要請にあったものとして、首都圏のホテル・レストランに不抜の根を張ることになった。
4人の体制で出発した「中條商店」は50年後、60名の社員をかかえ食肉業界では全国有数の会社に成長し、10月19日(日)「株式会社中條 創業50周年」の集いを、「ANAインターコンチネンタルホテル東京」で開催したのである。
わたしは妹の嫁ぎ先が「発展しておめでとう」というだけではなく、人生の折節にわたしたちを支えてくれた感謝の気持ちをもって、創業50周年を祝った。
中條孝会長夫妻(加藤木朗の叔父、叔母)
式典には「和力」を呼んでくれた。
朗は「定時制高校生として働かせてもらいました。会長ご夫妻には『人として生きるには』と人生の指針を与えてもらい、勉社長は従兄弟として小さい頃から面倒をみていただき憧れの人でした。わたしの生きる道をこの会社で学ばされ感謝しています」と挨拶、「だんじり」を叩き始めた。
朗の子どもである、磊也・慧も和力メンバーとして出演した。
彼らも(株)中條の発展の息吹を肌身に感じて「ここでじじも父も働いたことがあるのか」と、歴史を感じてくれたにちがいない。
中條三世代目の竜太君は、しばらく見ないうちに逞しい青年になっていて、社員と混ざって立ち働いていた。妹の瞳ちゃん、剣太君もたしかな受け継ぎ手になるだろう。爽やかに成長していた。
歴史は紡がれ引き継がれていく。
商道・芸能と異業種ながらわたしたちの三世代目がお互いに相まみえられたのも、50年の年輪を重ねた「中條」の発展があったお陰であると、巡り合わせの妙を不思議なものに感じる。
わたしたちのずうっと後世になって、これら三世たちがどのような関係を結び合うのだろうか。
発展し成長するもの同士の今後が楽しみになる、二重にも三重にもありがたい、記念祝典であった。