(株)中條 創業50周年に…

2008年10月22日 | Weblog
 わたしには5人のきょうだいがいる。一つちがいの妹は19才で嫁いだ。相手は新潟から集団就職で上京してきた母の遠縁、中條孝さん-(株)中條の現会長である。

 中條孝さんは、食肉卸問屋で必要な肉を仕入れ、まな板の一部を借りて肉を解体し、余った肉は冷蔵庫に保管してもらい、作業所も店ももたないで、レストラン・ラーメン屋など自分で開拓したお得意をまわって、商売をやっていた。

 バイクの荷台に大きな籠を結わえて、豚足・骨、肉などを満載して都内を走り回る。腰にはなめし革のカバンをぶら下げて、そこにはサインされた「納品伝票」が大事に入っていた。「この伝票が財産なのだ」とカバンを撫でていたのを思い出す。

 何軒かのラーメン屋・そば屋・レストランを得意にもち、いくばくかの口銭を稼ぐ。
「どうやら開業できる資金が貯まった。所帯をもって店を構えたい」と、わが家にやってきて「わたしの嫁には、働き者であるお宅の娘さんを迎えたい」と、父と母に申し入れた。

 妹は珠算の腕前は「2級」で、大手運送会社の事務員として働いていた。会社勤めだけではなく休みには父親の仕事を手伝い、妹・弟の面倒見がよい所をみそめられたのだろう。

 結婚間もなく、荒川区日暮里の一角に古い商店を買い受け改築、念願の自分の「城」を持つにいたる。

 中條孝さんの古くからの友人Kさんは、大きな肉店で「板前」として腕をふるっていた。新婚夫婦とKさん3人で店開きをした。

 わたしは開店時から、わらび座に行く春までの期間、10ヶ月ほどお手伝いした。

 間口一間ほどの小さな店で、冷蔵庫も、肉を捌く作業台もせまかった。お店は、「板前」さんと妹が切り盛りして、外回りの卸しは中條孝さんが一手に引き受ける。

「中條商店」は「内」と「外」の体制を打ち立て、かくして始まったのである。

 わたしは慣れない手つきで、コロッケを揚げたりメンチを作ったり、小間切れなどを計り売りしたり、大きな自転車に豚骨や肉を籠に満載して、配達に出かけることもあった。

 わたしは23年間の劇団での生活を終えて、45才にして母の元に戻ってきた。「中條商店」は「株式会社・中條」として、社員20名ほどに発展し、就職が難しい年令のわたしを引き取ってくれ、以後20年間わたしは社員として働かせてもらった。


 中條勉社長夫妻(加藤木朗の従兄弟)
 
 発展した会社をさらに驚異的に変えたのは、二代目の中條勉社長である。その経営眼は斬新で時代の先を読みとる「即断即決」の小気味よさがあった。
「セントラルキッチン」を設立して、「首都圏のホテル・レストランのバックヤード」を謳い、肉の加工品・スープ・ソースなど100種以上の食品を提供できる施設を立ち上げた。

 バブル崩壊期には、都内にあった名だたる肉屋の老舗がずいぶん店をたたんだ。原因は余裕資金で不動産などに手を出して、火の粉をかぶったという噂が多かった。

(株)中條は投機的な動きには目もくれずに、「お客さんがなにを求めているのか」と本業のみに徹していたから、食肉卸の歴史で培った知識と実力で、仕事の巾を広げ、時代の要請にあったものとして、首都圏のホテル・レストランに不抜の根を張ることになった。
 
 4人の体制で出発した「中條商店」は50年後、60名の社員をかかえ食肉業界では全国有数の会社に成長し、10月19日(日)「株式会社中條 創業50周年」の集いを、「ANAインターコンチネンタルホテル東京」で開催したのである。

 わたしは妹の嫁ぎ先が「発展しておめでとう」というだけではなく、人生の折節にわたしたちを支えてくれた感謝の気持ちをもって、創業50周年を祝った。


 中條孝会長夫妻(加藤木朗の叔父、叔母)

 式典には「和力」を呼んでくれた。

 朗は「定時制高校生として働かせてもらいました。会長ご夫妻には『人として生きるには』と人生の指針を与えてもらい、勉社長は従兄弟として小さい頃から面倒をみていただき憧れの人でした。わたしの生きる道をこの会社で学ばされ感謝しています」と挨拶、「だんじり」を叩き始めた。

 朗の子どもである、磊也・慧も和力メンバーとして出演した。

 彼らも(株)中條の発展の息吹を肌身に感じて「ここでじじも父も働いたことがあるのか」と、歴史を感じてくれたにちがいない。

 中條三世代目の竜太君は、しばらく見ないうちに逞しい青年になっていて、社員と混ざって立ち働いていた。妹の瞳ちゃん、剣太君もたしかな受け継ぎ手になるだろう。爽やかに成長していた。

 歴史は紡がれ引き継がれていく。
 商道・芸能と異業種ながらわたしたちの三世代目がお互いに相まみえられたのも、50年の年輪を重ねた「中條」の発展があったお陰であると、巡り合わせの妙を不思議なものに感じる。

 わたしたちのずうっと後世になって、これら三世たちがどのような関係を結び合うのだろうか。

 発展し成長するもの同士の今後が楽しみになる、二重にも三重にもありがたい、記念祝典であった。
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わらび座OBのつどいと、元わらびっ子たち

2008年10月16日 | Weblog
 
 今回で18回目となる「わらび座OBのつどい」は、「伊豆高原・石ばし庵」で10月11日から12日にかけて行われた。

 北は秋田県から「わらび座保育所」開設者、松本美智枝さん(わらび座で育った子どもたちは「コンおばちゃん」と呼ぶ)、南は沖縄県から山内(旧姓・瀬長)千尋さんが来られ、初参加が7名で、合計すると42名が全国から集った。


            

「時代の文化を築いた我ら」と横断幕(紙)が大きく掲げられた大広間に、「後藤栖子遺作展」(本年1月に他界)・「下野正晃きり絵展」・「糠谷啓三人形展」・「黒木啓写真展」が展示されている。
 初秋の庭に柿が色づき、キンモクセイの香りがほのかに漂い、屋内にはやわらかな日射しがかすかに差し込む。間近に見える「大室山」には樹木が生えていない。毎年、山焼きがあるとかで、薄青い草が山容を覆って空に至る。いつになく時間がゆっくりと過ぎていく。

 わたしは「時代の文化を築いた我ら」はとてもよいスローガンだけど、「時代の文化を築く我ら」ではないのかと思う。集うメンバーの年令は83才の横山茂・小田幸子さんが最高齢である。残念ながら横山さんの認知症はかなり進んでヘルパーさん同伴で来られた。
 70才を越したメンバーも多いが、まだまだ現役で達者であるのだ。


 後藤栖子さん遺作展


 今回「つどい」で重視したのは、「この催しが次世代に引き継がれていくことを願いつつ、元わらび座二世たちに呼びかける」ことにあった。

 18時から始まったオープニングは、昨年の春「前座」から「二つ目」に出世した、柳家さん若(じゃく)の高座であった。
 さん若とは山田耕一郎君のことであり、わたしの息子・加藤木朗とは1才違いの弟分になる。
 わらび座で生まれ育って、高校を卒業後、東京に出てビデオレンタル店で働き始めたという。2003年に柳家さん喬師に弟子入り、噺家の道を歩み始める。どうして落語界へ入ったかを、枕で語る。

…「毎年、正月には、わらび座を離れて方々に散っている元わらびっ子たちが、横浜の石井総君の所に集まって過ごした」…。
 
 そう云われれば思い当たることがある。朗は高校2年で上京、働きながら定時制に通い始めた。職場の近くのアパートで生活し、休日には友人たちと過ごしわが家に寄りつくことがなかった。正月休みには「来るかな」と期待したが、毎年「横浜の総君のところに行く」と出かけていた。

 石井総君は朗の2才上の兄貴分である。やはり高校卒業後わらび座を出て、知人が横浜で開いていた本屋を任されていた。年末・年始には店を閉じるので、元わらびっ子が集まって、正月を満喫したのだろう。
 男性ばかりでなく、同じ年代の荒川歩ちゃんなど女性たちも子連れで来ていたという。

 朗たちが育った頃のわらび座は、ほとんどが「一人っ子」であった。生まれたときには「乳児室」で保母さんが面倒をみて、成長するにしたがって「幼児棟」・「学童棟」・「中学生棟」・「高校生棟」へ、子どもたちは「寮での共同生活」が基本であった。幼い頃には保母・保父さんが、成長すると教育担当者が、生活や学業の面倒まで見てくれていた。
 親が住まう「家」(アパート的な部屋)に帰るのは稀なのであった。

 劇団で運営する保育・教育施設であり、全国へ展開する「営業」・「巡演」に出かける親と過ごすよりも、子ども同士で生活する時間が圧倒的に長かった。「きょうだい」としての分け隔てのない温かい感覚をもつのは、当然のなりゆきなのだ。

…「将来もレンタル店で働くだけでいいのだろうか。そんなことを総君に話した。『俺には無理だが耕一郎だったら落語家になれるよ』と総君は云う。それを励みに柳家さん喬師匠の門を叩いて弟子入りした」…。
…「今は備前焼の陶芸作家である総君がなぜ落語を知っていたのか。正月に集まるとみんなして食べてしゃべる。疲れたら音楽を聴いたりしていた。朗ちゃんが落語のテープを持ってきて、みんなでそれを聞いて楽しんだりしたから、総君もそれで落語を知ったのだと思う」…。

 総君に肩を押されて34才にして落語界へ身を投じ、4年間「前座」として修行を積み、今は「二つ目」として、「真打ち」を目指している。

 一席目は、愚図な新米泥棒を親方泥棒が苦労して鍛える「鈴ヶ森」であった。それで満座の笑いを誘って……、「まだ高座にかけていませんが、みなさんにお聞きいただきたい」…と語り出したのは、人情噺「幾代餅」であった。

 わたしは、昨年春の「二つ目披露」を「浅草演芸場」へ出かけて聞いた。演題は「子ほめ」であった。今年になって「蔵のギャラリー結花」(松戸市・下矢切)では、「まんじゅう怖い」と「野ざらし」だった。
 これまで、「滑稽噺」を楽しく聞いてきた。「人情噺」となると長丁場になるし、本日が「ネタおろし」らしい。一抹の不安をもった。

 高嶺の花の「幾代花魁(おいらん)」に一目惚れした「つき米屋」の清蔵が、幾代と所帯をもち両国で「幾代餅」を商う噺である。
 つき米屋の親方、清蔵、医者、幾代太夫など、登場人物は多岐にわたる。清蔵の真摯な気持ちが幾代に伝わるまでを、人物の形象も鮮やかに語りきった。

 わたしは落語好きで、夕ご飯の仕込みをしながら、MDをかけていつも聞いている(MDは、朗が時間をかけて録音して贈ってくれた)。
 ずいぶん落語は知っているが、「幾代餅」は初めてだ。人情味があふれる登場人物、幾代の艶やかさが語り口から匂い立ってくる。

 わらびっ子同士の示唆と励ましによって、伝統を受け継ぐ芸人が生まれたのだ。

 
 元わらび座二世の荒川歩ちゃんが語る。
…「わたしは、『つどいに参加しよう』と20人ほどに呼びかけた。『自分たち、元わらびっ子が集まるのだったら行きたい。でも当時の大人が集まっているところには、行きたくない』という子がたくさんいた。思えばわたしたちは、地域や学校でずいぶんいじめにあった。幼稚園から高校にいたるまで『わらびっ子、わらびっ子』と囃され、石を投げられたりしていた」…。
…「わたしたちは、子ども同士で『いじめられていることを、親にも保育のおばちゃんたちにも云わないでおこう』と言い交わして、その約束を守ってきた。なぜかと云えば親は一生懸命に座の仕事をしている。余計な心配をさせてはならないと、子ども心に思ったからだ。だけれど親たちは『立派な仕事をしている』と満足していたかも知れないが、わたしたちは『普通の生活がしたい』、『親子そろった生活がなぜできないのか』との渇望もあった。その当時の辛さを思い出したくないから、大人とのつどいに来たくないのだと思う」…。

…「いじめられるだけではなかった。いじめられているのを見ると跳んできて『取っ組み合いのけんか』をして守る子もいて、わらびっ子は団結していた。だから今でも会うと、きょうだいの温かい気持ちになれるのだ」…。

…「歳を経るごとに、わたしたちも当時の親の年令に近づいてきた。働きかけをひんぱんにして、今はおっくうに思っている子でも参加できる環境を整えていきたい」…。

 満座はしんとして聞いていた。わたしたちが救われたのは、歩ちゃんはどこまでも明るく語ってくれたことにある。わたしたちへのあたたかい気遣いであった。

「元わらびっ子」の交流会(別室でやっていた)に、参加していた小野瀬孝行さん(つどい世話人)は、歩ちゃんの話の後で次のように語った。
…「みなさんへの気配りで話されなかったようだが、元わらびっ子たちの話の中心は、子どもたちの内なる気持ちを、ここに集まっているみなさんが、どれほど認識し理解できているのだろうか、と云うことにあった。そういうことを知らずに『次世代のみなさんとも一緒に』と云われても、気持ちがついていかないのは、わたしは当然だと思う」…。
 
 世代を越えてお互いに理解しあうことへの、微かな第一歩になるだろう「つどい」になったのかと思う。

 元わらびっ子たちは、「南信州・阿智村」で、数回の泊まり込みをしている。横浜の総君は備前に行ってしまったので、集まる場所は加藤木朗宅になっている。前回の集まりでは、母屋だけでは泊まりきれないので、男性陣は「稽古場」に布団を持ち込んだと聞いている。

 幸いに、「昼神温泉郷」も村内にあるから、来年の「つどい」は「南信州」となる。

 わたしたちの世代と若き世代が、混じり合い溶けあい、明日を見つめる「つどい」になるように、相談し企画をしていく責任を負うことにわたしはなった。

 心弾むような、重責が担えるかなとの心配が、今からまきおこるのだ。
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「世代交流会」のこと

2008年10月07日 | Weblog
 今回で14回目になるから、ずいぶん長いつき合いとなる。わたしの住む所からやや離れて「小金北中」がある。

「体育祭に太鼓を叩いて応援したい」と、先生に引率された女子グループに、叩き方の基本を伝授したのが「北中」との縁の始まりだ。
「体育祭で好評だったから、文化祭で太鼓の演奏をしたい」となって、文化祭まで何回か学校に出向いて「西馬音内の寄せ囃子」(秋田)、「ぶちあわせ太鼓」(神奈川)を練習した。
 演奏は「完璧でびっくりされた」と、便りがあった。

 次の年に、小金北中は「世代交流会」を企画する。生徒と父母・教職員、それに地域に暮らす「世代をこえた同士の交流」、毎年10月に実施するようになった。

 釣り、ドッチボール、クッキング、お琴、生け花、パソコン、裁判、古武術など、30項目以上にわたる講座が開かれる。
 生徒たちは、自分で興味のあるものを選んで、8時45分から11時15分までの講座に参加する。

 わたしは「和太鼓」講座を受け持って14年間、連続して参加している。
 学校に太鼓は3基しかないから、一つの太鼓で3人が入れる「ぶちあわせ太鼓」が常番だ。太鼓はそんなに増やせないから、「和太鼓教室」の定員は9名である。

 初めの頃は、ほぼ一人で教えていた。この3年ほどは「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の面々が助手として参加してくれるようになった。
 大胴太鼓と締め太鼓を持参して、実技指導を3名のメンバーが担ってくれるのだ。


 先ずはバチのかまえ方から

 わたしは「郷土部」を立ち上げた内のひとりである。わらび座でいくらか身につけたものがあったから、初歩的なものをみなさんと楽しみながら、やっていた。取りかかりの頃は、太鼓がなかったので古タイヤを叩いて、バチがすぐに真っ黒になっての練習だった。

 会社勤めをしながら10年ほど通ったであろうか。勤務態勢が変わりレッスンに通うのがきつくなった。
 遠ざかって10年以上にもなる。だから実技指導となると、思い出すのも年々たいへんで、10日も前から緊張で寝付きがわるくなってしまう。
 
 郷土部は着実に力を蓄え、新しいメンバーも定着し発展していっている。その古巣である郷土部から今回は、女性3名が駆けつけてくれて、6名の男子生徒が「ぶちあわせ太鼓」を覚えきった。

               
              背中が丸まっているよ

 わたしは実技をみなさんに任せて、生徒たちの叩く姿を真後ろから見ていて、一寸した助言をする。
「上体を真っ直ぐにして膝を割って腰を落とす。そうすれば猫背にならないから」と云うと、そのときには直るのだが、すぐまた膝が伸び前のめりの猫背になってしまう。
 毎年、気づく子どもたちの姿勢である。

 屈まなくてもスイッチひとつで生活できる便利な世の中になっている。だからわたしたちの年代でも、膝を割って腰を落とす瞬間はなくなっている。
 もしかして、子どもだけではなくわたしたちそのものも、知らず知らずに背を丸めた生活を送っているのではないかと、思い知らされた一日でもあった。

 10月4日(土)の事である。
 
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松戸「マブイ」まつり

2008年10月01日 | Weblog
 野外での催し物となると資材の量が多くなる。絞りにしぼっても、テント・椅子・机、ブルーシートなどが必要だ。

 今度の開催で2回目となる「松戸マブイまつり」を、9月28日(日曜日)にやった。
「まぶい」とは、奄美諸島や沖縄で、魂(たましい)の事と広辞苑にある。

「ひとりひとりの良心を持ちより、協力・共生できる街をつくりましょう!」「いちゃりばちょーでー(出会えば兄弟)」―まつりで会いましょうと呼びかけて、12の出演団体、20に近いバザーとフリーマーケット、模擬店、沖縄そばなどが立ち並ぶ。
 写真や展示物も植え込み沿いに掲げられ、「子どもの広場」では竹馬や缶ポックリが子どもたちに喜ばれている。餅つきも始まって、新松戸南公園はこの日、11時から15時まで祭り一色になった。

 出演は、フォークや合唱、ゴスペルなど多彩である。やはりいちばん多いのは沖縄音楽・琉球舞踊・エイサー隊であった。
 とくにエイサー隊は、子どもたちだけの隊もあったりして、それぞれに変化に富んで新鮮だった。

 わたしが手がけてきた催しは、「わらび座」や「和力」である。ホール公演でなくても屋内での開催がほとんどだ。
 だから開催当日は「お天気であるように」と望むが、雨が降っても成り立つ。

 野外での催しは、雨だと中止か順延をしなければならないし、資材の調達に多くの労力を割かなくてはならない。

 開催前日は、テントや椅子・机を借りに車を走らせる。無蓋のトラックが「軽」でもあれば一度で済むのに乗用車しかない。積んだものを会場の近くに降ろして、また別のものを積みに走る。

 開催当日も前日借りてきて降ろした資材を、積み直して公園に運ぶ。

 開催の翌日は、テントなどを返しに奔走した。

 野外開催の苦労を知った3日間であった。

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