とうとうこの日がきてしまった。
「ペイさん」と呼ばれ親しまれた、谷純平さんが5月8日朝、80才の生涯を閉じた。
寒さが厳しい2月末、「ペイさんが検査入院をし、そのまま即入院生活になった」と、関西在住の元わらび座員から電話があった。
わたしは驚きペイさんの息子・冬樹君に電話をしたところ、「病が思いのほかすすんでいて、いつ急変するか分からないと云われている」とのことだ。
わたしは新幹線で大阪に向かう車中、ベッドに横たわるペイさんをあれこれと思いえがいていた。もしかしたら話をすることもかなわないのではないか…などと。
病院に到着した。
「おーマサちゃん(わたしのわらび座時代の通称)よく来てくれたね」、思いのほか元気な声でペイさんは迎えてくれ「急な入院でまいったよ。新聞も本も読めないし、食事も止められているので、こうやって寝ているだけなのだよ」と、話す言葉ははっきりと肌も艶やかだ。
ペイさんは勉強家で、新聞は端から端まで丹念に読み、本もわたしからみれば「小難しい」と感ずる理論書を手から離さなかった。
だからそれらを手にできない日々は、ペイさんにとって苦痛な一日一日であったことだろう。
わたしがわらび座に入ったのは1963年であった。
当時は座員総数114名、わたしは「演技者」38人の中の一人、ペイさん所属の「普及部」は14名だった。(日本の歌をもとめて第二集より)。
わらび座は、その前身「ポプラ座」(ほぼ9人)時代には、出演者が手分けして大きな袋をもち、「お茶碗一杯のお米で、家族全員がみられます」と、家々を巡り歩き公演を成り立たせたこともあったそうだ。
秋田に定着し座員が増え、普及部の先駆けとして佐藤好徳さんや荒川慧さんなどが各地に出向き公演を組織していくが、無名の座公演は容易ではなかった。
ペイさんはそれら先駆者と共に、入座当日から普及活動にまい進することになる。
ペイさんはかって語っていた「座の根幹はもちろん芸術創造にあるが、それを成り立たせる経営活動をしっかりしたものにしたかった」。
そして退座するまでの20数年間を普及部一筋に歩み、普及部を組織体としてまとめあげ、集団体制での道を切り拓き安定させたのが、ペイさんの大きな功績ではないかとわたしは思っている。
集団体制での…というのは、個々の普及部員が手がけていた活動を、「普及団」としての塊をつくり、例えば「静岡団」、「埼玉団」などに数人を配属し、1ケ月ほどのコースを組むことにある。
「仕事の鬼といわれるペイさん」との出会いは、まさに鬼そのものであった。
わたしは、入座以来4年ほど演技部にいたものだから直接面とむかっての対話をしたことがなかった。
わたしが26才、正月明けの福岡労音の例会に出演した折、最後の演目「荒馬踊り」で気息えんえんとなり幕が降りたら、その場でへたりこんでしまった。
すぐさま病院に運ばれ、翌日には顔がバンバンに腫れあがり眼を開くこともできない。「腎炎」になってしまったのだ。
正月期間に風邪をひいたのが原因であった。
しばらく経ってペイさんが病室を訪れ「正月の休み期間、油断しているから風邪などを引くんだ。注意しなければいかんよ」とわたしを叱るのだ。
わたしは「エッ」、「それが見舞いの言葉かよ」とムラムラときた。よほど後になってペイさんは「自分の仕事に責任をもつように促してくれたのだ」と納得できたが、そのときはむかっ腹をたてたものだ。
(福岡の入院生活では、福岡労音副委員長をしていた、ペイさんと結婚された故川崎昌子さんにたいへんお世話になった)。
病が癒えわたしは「普及部員」となる。
当時は、ペイさんラノさん(平野樹一朗)が普及部の頭目で、わたしはこのふたりの先輩のもとで、さまざまな地域に派遣され実行委員会を組織していく仕事を数多く経験した。
公演回数を確保するための普及部員が40名を越えるような状況になり、普及部は「東北支局」、「東京支局」、「大阪支局」の三支局制になった。
東北支局長は平野氏、東京支局長は谷氏、大阪支局長に加藤木が着任した。
自らの豊富な実践経験の裏付け、各地域に点在する豊富な人脈、流動する状況を把握する的確さなど、この時期ペイさんから多くのものを学ばされた。
10日の告別式では、「誠実だったペイさん、一人ひとりを大事にしてくれたペイさん、いつも前向きに進むペイさん」に贈る言葉が満ち溢れていた。
元わらび座員もたくさん参加していたが、なによりびっくりしたのは、地元参加者の数の多さであった。
わらび座を辞め、地域に戻ってからほぼ30年、地域でも小まめに律義に誠実に活動されていたのであろう。
元同僚だった平野樹一朗さん、わらび座会長小島克昭さん、わらび座社長山川龍巳さんからのねんごろな弔電は、掉尾を飾るものであった。
集合写真、左端が谷 純平さん