友の入院

2011年10月29日 | Weblog


 高校時代の友人、Mが入院した。日ごろは元気で、障碍者作業所で所長として働く72才である。
役所での現役時代は福祉畑ひとすじに勤め上げ、退職後も社会的弱者の役に立ちたいと永年作業所で働いてきた。
声が枯れたので「風邪を引いたかなぁ」、そのうち治るサと気にもかけずにいたが、声はかすれたまま、ますます出にくくもなるので、いつも世話になる近所のお医者さんへ行った。
風邪薬を処方して飲んでいたが一向によくならない。
10日ほどしてお医者さんは「改善しませんなぁ、精密検査をした方がよい」と、新宿のT病院に紹介状を書いてくれた。

「昨日、T医科大学病院でCTスキャン検査を受けたところ、『胸部大動脈瘤』が発見されました。こぶが直径6.5センチに成長し、破裂の限界6センチを超えており、即刻入院、手術を宣告されました。これから入院します。約二週間です。M」とのメールをくれた。

 彼は昔からヘビースモーカーだった。吸っているタバコは、ニコチン度数がつよい「ハイライト」である。
夏に高校同窓会があり、終わってから同期生と居酒屋に行った。酒が入ると立てつづけにタバコを吸う彼が、タバコを口にしない。同席していた目ざとい友人が「M、タバコ止めたの」と聞くと、「うん、止めないと娘が孫を連れてこないというので、一気に止めた」と、サバサバしていた。

 せっかくタバコを止め、孫と遊ぶのを楽しみにしていたのに、何ていうことだ。でも二週間の入院で手術をして退院できるなら、よかったではないかとわたしは安心感をもっていた。
二週間が過ぎてM宅に電話した。「二週間の入院は検査であって、一時退院して手術入院をする。手術も大がかりになりそうだ。心配なのは一時退院の期間だ。血圧が上がったりなにかにつまづいてこけたりしたら、動脈瘤が破裂して取り返しがつかなくなる」と、奥さんは心配していた。

 わたしは改めて「これは大事(おおごと)だ」と、高校時代に親しかった友人たちに電話をした。
「Mは17日に手術で、術後二週間は病院にいるというから、二週間目にみんなでお見舞いに行こう」と誘い合って、28日の夕刻、7人の友人と病室を訪れた。
「今日、抜糸して点滴などの管からも解放された」と、Mは分厚い心臓の本を抱えて、待合室で病状の説明だ。声はかすれている。
「動脈瘤が声帯の神経を圧迫して声が出なくなったそうだ。声が出ないことで病状がすぐに分かった。風邪ではなかったのだよ」。
「手術は11時間かかったのですよ。血液を循環させる機器をつかって、脳や全身に血液をまわし、肋骨をすべて切り開いての大手術でした」と、奥さんが云う。

 現代医学の粋をこらしてMは生還した。

 Mはわたしの無二の親友である。病状がはやく発見できてよかった。これからも元気に働き、孫との交流を楽しんでくれと病室を後にしたのだ。
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新米が届いた

2011年10月19日 | Weblog
 

 前日まで二日間、名古屋でゲスト出演をしていた加藤木朗が、10月17日(月)の晩わが家に寄った。
明日は東北に向かい「権現舞」を習いに行く。年末恒例の「暮の打ち逃げ・名古屋公演」で披露するという。
車から今年の新米が下ろされる。一緒に同行していた磊也が車から玄関まで持ち込み、朗が受けとりリビングに積みあげる。リビングはたちまちお米に占領された。なにしろ積んできたのは、玄米・精米で450キロになる。



 朗はかなり前から「自家飯米」用の米をつくってきた。
三年ほど前から、規模を広げて四反歩の水田を借り、苗代づくりから田植え、除草・稲刈りを一貫して行う。いただいて使っていたコンバインが動かなくなり、農協に展示されていた中古のトラクターを購入し効率もよくなった。
昨年からわが家でも朗が収穫したお米を、妻の職場の友人や地域の知人に勧めはじめた。




 下記の呼びかけで購入をお願いしている。


……信州伊那谷・阿智村産のお米です

東を南アルプス、西は中央アルプスにかこまれ、天竜川に沿ってひらける伊那谷は景色もよいし、野菜・果物などおいしい食べ物をたくさん生みだしています。

みなさまに一方ならずお世話になっている、和力の加藤木朗は、伊那谷の南端・阿智村に住み、ヨーロッパやアメリカそして日本全国を駆けめぐりながら、伝統芸能の素である農作業を大事にし、芸能活動と共に田や畑を耕しています。
 
農薬を一切使わず(夏前に除草剤を一回だけ使用)、4反歩の田で「自家飯米」として収穫した「安心・安全・美味」のお米は、数量に限りがありますが、例年、たくさんの方に購入していただいております。
9月末から取入れを始め、乾燥・脱穀の作業に入りました。

今年も、伊那谷・阿智村産のお米をご賞味いただきたくご案内申しあげます。よろしくお願いいたします。……

 購入してくださった方々は「味がいいしなにより安心できる」と、「年間に亘って届けてほしい」いう方も数人おられる。
そんなこんなで、今回持参したお米400キロあまりは、この2,3日にはほとんど捌けてしまう。

 磊也とともに「権現舞」の取材に行った朗が、信州への帰路立ち寄るのは明後日21日である。
それまでに「持参したお米の清算ができるよ」、「農協への支払いができるので助かる」と朗は云っていた。

 毎月お届けする方のお米は、冷涼な信州に蓄えてもらい、折々に運んでもらう算段になっているのだ。

 

 
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磊也が「国立能楽堂」で舞う

2011年10月15日 | Weblog
「東京・茂山千三郎社中」の狂言発表会が、10月10日(祝)「国立能楽堂」で催された。
孫の磊也(らいや)は、中学校在学中から「長野社中」で茂山千三郎師の教えを受けていた。
この春、高校を卒業して修行の道を歩みはじめ、幸いなことに師匠の社中が東京にあり、月に2回、お稽古に通っている。

 磊也の出番は、幕開け10時からの狂言「柿山伏」の山伏、午後1時過ぎに小舞「三人夫」、午後4時以降の狂言「千切木」の立衆であったという。
わたしは練馬区でほかのイベントがあって行けなかったが、妻が朝早くから大騒ぎをして出かけた。
「磊也は立ち姿もいいし、声もはっきり腹の底から出ていて、狂言そのものだったよ」と帰ってから興奮気味に語る。

「小舞もよかったよ。写真を撮りたいとカメラを構えたのだが、フラッシュをたくといけないと、モソモソしている内に終わってしまった。最後の千切木では『立衆』は6人もいて磊也は、その6人と共に、せりふをいうのだが、あの大きい図体で云うからよく目立ったよ」と、やや手前味噌な感想を云っていた。

「柿山伏」は、松戸・森のホールで野村萬斎さんが演じるのを観たばかりである。それを観たとき磊也は、同じ演目をやるとは云わなかった。
しかし、抜きん出た他流の才能を目の当たりに出来たり、国立能楽堂の板(舞台)を踏めたりできるのは、今後の精進の大きな糧になったのではなかろうか。

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第22回目の「元わらび座員のつどい」

2011年10月12日 | Weblog


 諏訪大社と地つづきの高台に、この度の「つどい」会場があった。
諏訪大社の勇壮な御柱(おんばしら)祭りの模様はテレビで見たことがある。「宿の目の前に諏訪大社があるなんて、思ってもいなかったね。まだ陽があるから一巡りしようか」と、カメラを持って妻と出かけた。
境内に入ると、杉やケヤキの大木が地べたから大きくそそり立っている。
「夜泣きの杉」というのがあり、「丑三つ時になると枝がたれさがり、杉が泣きはじめる」と案内板にある。樹齢800年というから胴回りが太い。これに負けない太い木々が何本も天をおおい、境内は静まりかえる。



「御柱」は、拝殿の左右に「一の柱」、「二の柱」が建っている。ふり仰ぐと高いことは高いが胴回りはスマートである。
わたしは素人考えで、御柱は杉だと思い込んでいたが、他の山から伐りだし、山を下り村や町を経て、人手だけで曳いてくる樅(もみ)の木だそうな。
「三の柱」は、拝殿の左はるか後ろに見えたが、「四の柱」を確認することは出来なかった。
大木の生い茂る境内の散策を楽しんでいる内に、常夜灯に灯が入り薄く暮れる中を宿に戻った。 

 午後6時から会食である。風呂に入るのを後にして会食場に向かう。
今回のつどい参加者は25名であった。30名を越える参加申し込みがあったのだが、「肉親の不幸、病」、あるいは本人の「体調不良」などで、直前になっての参加見合わせがつづいたのだ。
わたしたちの年頃になると、このようなやむを得ない事柄が突出してくる。



 なごやかな会食につづいて、「偲ぶ会」に移行する。
昨年のつどいから今年にかけて、身近な4人の仲間が亡くなった。
わらび座創立者の横山茂さん、舞台写真家の黒木啓さん、民族研究所所長だった小川忠洋さん、杉原洪一君は40年間にわたりわらび座の営業をつとめた。
この4名以外にも、共にわらび座を支えた仲間がこの1年、事故あるいは病で数人、亡くなっている。
「偲ぶ会」はそれらの方々も一緒に…という意見があった。
ただそうなると限りなく広がってしまうので、消息の分かる「つどい」に参加していた人に限ろうと4名にしぼったのである。
黙祷、献杯につづいて、追悼の言葉がそれぞれ宛てに述べられた。追悼の歌と語り、そして秋田県仙北地方の民謡「秀子(ひでこ節)」の全員合唱をもって厳粛な「偲ぶ会」を終えたのである。

 30分ほどの休憩の後、懇親会が始まる。お酒、ジュース、お茶、おつまみをつまみながら「いま、こうして…」と、それぞれの現況を語り合う。
思いもかけなかったのが、「3・11東日本大震災」の影響である。
東京で会社経営をしているDちゃん、信州で設計・施工を営むAちゃんは「リーマンショック以降、持ち直していた仕事量が、震災を機に一気に落ち込んだ。今、ようやく回復基調にのってきたが……」と語っていた。
震災地から遠く隔たり、業種も影響を受けそうでないのに、やはり大震災の影響は多方面にわたるのだと思いを新たにした。

「孫の子守に手をとられ、気になっていながらようやく初めて参加できた」というHさんは、元経理部、そのあと営業部にいた。わたしの妻と同じ営業団でいっしょに何回か働いた。ほぼ30年ちかい末の再会だが、永い無沙汰を感じさせない。

「孫の面倒をみる」のもさまざまで、「孫に会いたくても会えない」と思い余った口調で、四国から参加のMさんが云う。
「子どもを授かって思うのだが、わたしが子どもの頃、父さんや母さんが、わたしが愛情を持って子育てしているような事をしてくれたかしら…」と云われ、親子の交流がうまくいかないようになってしまった。
「孫の誕生日に贈り物をしているが、なんの反応もなく戸惑っている」。
どのように親子の関係を再構築していくか、いろいろな助言・提言が真剣に活発に交わされた。



「今年はようやく参加できたが、体力的に来年からは無理だと思う」と、最年長の横山孝子さんが云う。
「『文工隊海つばめ』から『ポプラ座』そして『わらび座誕生』に立ち会った9人の内、わたしと小幸(小田幸子)ちゃんしか今は残っていない。その歴史を経過でしか語れないが少しお話したい」と、貴重な体験と見聞をしずかに語り始めた。

 みなさんの話がはずんで、思わず知らず時間が経つのも忘れて、午後11時半には終了する予定が、なんと午前2時まで話はつづいた。

 10月8日(土)から9日(日)にかけて諏訪湖畔で行われた、第22回目の「つどい」は、それぞれの話が静かによく聞けたシンプルで気持ちのよい「つどい」となった。
紅葉にはまだ早いが、ススキの穂が白く揺れる季節に行われたのである。
 
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会場確保奮戦記

2011年10月04日 | Weblog


 来年の10月に和力公演を計画し、10月1日(土)抽選会に臨んだ。
今回の会場取得合戦には、孫の磊也(らいや)が初めて挑んだ。結果としては、合戦では歴戦の勇士わたしも、若武者の磊也も、奮戦の甲斐なく二人揃って一敗地にまみれてしまった。

 抽選会の前日は、松戸・森のホール21 小ホールで「松戸狂言の夕べ」が催され、妻とわたし、そして磊也が鑑賞した。
「この会場で来年10月に和力を上演したいのだが、明日うまく取れればよいがなぁ」と、磊也に話していたら「ウン、ウン」うなずいて、会場全体を見回していた。
わたしが森のホールの抽選会に参加して、磊也は「練馬文化センター・小ホール」(練馬区)へ行くのだ。
両会場は600席を下回り、アットホームな雰囲気で公演できる、親しみ深い空間なのである。

 野村萬斎さん演じる「柿山伏」ほか「樋の酒」、「吹取」の三曲が上演された。朗々とした音声、腰を落とした小舞い、観るものの想像力をかき立てる様式化された所作、日本の芸の深さを十分に味わうことができた。
奇しくも10月10日(祝)には、磊也が教えを受けている「狂言・大蔵流」の東京教室の発表会があって、磊也が「柿山伏」を演ずる。
「流派が違うとやり方もちがうのかなぁ」と磊也に問う。「かなりちがう」というので磊也の「柿山伏」を見たいが、わたしは用件があって見られないのが残念だ。

 会場使用申し込みは、練馬は午前9時、松戸は午前10時に受付開始となる。この時間を過ぎると、受け付けてもらえないから遅れるわけにはいかない。
受付時間に間に合っても会場を確保できるとは限らない。大方の会場は、行政の公的な行事が優先され、残った枠を抽選で引き当てるシステムになっている。
土・日・祝祭日を希望するところが多いから、抽選でわかい番号を引き当てなくてはならない。

 昔、商店街の大売出しで、ガラガラ廻すとポンと球が出るマシンがあった。球の色によって1等、2等、3等、はずれが決まっていた。わたしはいつもビリの白い球を引き当て、昔はマッチ、最近ではティッシュしかもらえていない。
その同じガラガラポンを廻すのだ。

 わたしは受付番号が5番だった。1番目に引いた人も、2番目もそんなによい番号を引き当てていない。わたしは勇んで5番目にガラガラポンを廻す。「17番です」と係りの人が球を見せながら言う。
わたしの引いた後に、「2番」、「4番」など、若い番号が出る。この時点で、会場確保は絶望的になった。結局わたしが引き当てた17番は、会場使用希望者が17人だったので、ビリであったのだ。

 練馬で9時から挑戦していた磊也から、電話とメールが刻々とはいる。「小ホール、使用希望者は80人」と先ずは一報。「抽選の結果は30番目」との事だ。こちらも望み薄となってしまった。
「使用希望日の土・日は、すべて押さえられてしまった」とのこと。すぐさま帰宅するように連絡した。

 磊也は昨夜、狂言を見終わった後、日暮里に出て友人たちと会って、夜半に帰宅したのだ。友人をわが家に連れてきて、寝たのはかなり遅かったようだ。
それでも、いつもより早い時間に起き抽選会の臨んでくれた。
 わたしは、講師として参加している、松戸市立K中学の「和太鼓教室」が午前8時半からあった。お昼まで生徒たちに実技指導をするのだが、協力しに来てくれた「東葛合唱団はるかぜ・郷土部」の4人の方々に後を託して、森のホールに向かったのだ。

 多くの支援をいただいて臨んだ抽選会で、今回は敗退したが11月1日に再度挑戦すべく、爪をといで待ち受ける心地なのだ。
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