「和力と一緒に新年会」の準備

2006年11月30日 | Weblog
 先日、たわわに稔ったピラカンサの実を摘み取ろうと、脚立を出してそれを足場にブロック塀によじ登った。

「和力と一緒に新年会」(1月14日・松戸市)実行委員会で、公演会場のコーディネートを担当するKさんが,「公演会場に入ったら幽玄な趣きのある雰囲気をつくりあげたい」と構想をみんなの前で披露した。そのためには「竹や草木が必要になる」と要望が出た。

 会議では、竹も草木もそれぞれの庭にあるもの、ないものは知り合いから貰おうと決まった。
「うちの庭にはピラカンサが実をつけていて、間もなく野鳥が根こそぎ食べてしまう。その実を使えますか」とお訊きしたら、「使いましょう。今から実を取っておいて乾燥させれば紅いままで保存できます」。

 それで勇躍、「鳥に食われないうちに」ピラカンサの採り入れとなったのである。高い所を切るハサミもあったのだが、それで切り落とせば実がこぼれてしまう。それで花切りハサミを持って手で摘み取ることにした。

 サンダルではまずかろうと靴を履いて、脚立から塀の上によじ登った。
 よじ登ったところが余りに木に近接しすぎていて、枝がつかえて頭が上げられない。「帽子を被ればよかった…」。クィッと頭をもたげると刺トゲの枝に遮られてしまう。中腰のまま頭の上の枝を避けながら足を組み替える拍子に、バランスを崩してしまった。
「なんのこれしき…」冷静であった。踏みとどまる自信は十分にある。
 真下をみると脚立もある。

「先ずは枝に手をかけてあの脚立に片足をのせよう」。
 枝に手を伸ばすと太い刺がはえているではないか。「これは掴めないぞ」。軍手をしていればよかったと思っても後の祭りである。
「あぁあ、落ちる」。
 予定通り片足を脚立に載せたものの落下の勢いが強く、脚立は倒れてしまい地面に投げ出されてしまった。

「起き上がれるだろうか。骨を折っていないだろうか」
 少しの間、横たわっていた。そろそろと身を起こす。どうやら骨は大丈夫のようだ。それにしても脚立の倒れた音も大きかった。近所の人に見られていなかっただろうか。
 …幸いなことに誰にも知られることはなかった。
 右手の肘は長く擦りむいている。出血はしていない。右鼻の横から血が滲んでいる。これは枝の刺が刺さったのであろう。
 なんでだか知らないが、細い枝を1本握り締めている。落下のどさくさに無意識にすがったのだろう。
 一歩、二歩と歩いてみて異常がないことに、胸を撫で下ろす。

 高い所からの転落は、20代の頃わらび座で学校公演をやっていたときに、経験があった。
 
 その頃のわらび座は、学校の体育館を公演会場にすることが多かったから、幕を吊るしたり照明道具をセットするのに、天井近くまで長い梯子(はしご)をつかって仕込みをした。

 わたしは「緞帳(どんちょう)」を張る「大道具係」であったから、ステージ両端の天井に太い釘を打ちこんで、ワイヤーをピンと張る役目だ。

 これが存外に難事業だった。

 緞帳は幕のなかでも重いものだから、よほど頑丈に釘を打ちつけなければ途中で抜け落ちてしまう。
 ある学校で梯子の最上段で作業をしていたら、梯子が滑り出してそれと合わせて身体が地面に落ちていく。
「怪我をしたら今日の舞台には出れなくなる」と落ちながら心配だった。でもこのときには、梯子が柱に沿ってずれて滑って行ったから、地面に着くときにそんなに衝撃はなかった。
 高い所から地面に向っての落下は、「骨が折れるのではないか。どうなる…」と一瞬の時間にしても、恐怖の想像時間は長いものである。だから今でも覚えているのだ。

 人生での2回目の落下事故も、幸い大きな怪我もなく過ごせた。

 ただ太ももの付け根と尾底骨の辺りが、なにかに触れると痛さを感じることがある。  

 少しの痛さは残るけれども、「実行委員会」での取組みのありがたさをつくづく満喫している。「和力と一緒に新年会」は、わたしの仲間の実行委員会のみなさんが公演を組織してくれている。

 この所、和力の公演は事務所主催がつづいた。
 なにからなにまで自分の才覚で運営しなければならないから、会場づくりも「実行委員会ニュース」も割愛して進める他はなかった。

 「新年会」の実行委員会では次のようなやりとりがある。

「先ず、エレベータから降りて受付までの空間は、シンプルな飾りでいく、構想はこうだ」とMさん。

「受付を済ませて一歩、会場に入ると幽玄な異空間が広がり、ステージへと導く」と今度はKさんが語る。

「鏡開きの樽を木槌で割ると中から稲穂を巻いた酒瓶が出る」と会計係のHさんが酒樽を借りてくれた。

「受付でみなさんに渡すお年玉のポチ袋を持ち寄ってください」と実行委員長のTさんが提案をする。

「お汁粉を載せるトレーはどうしようか」事務局長のDさんが相談をかける。

「座布団の下に敷く、ブルーシートは借りられたからね」とSさんから報告が入る。

「次のニュースの原稿締め切りは…」と、いつもあたたかいニュースを編集・発行してくれるOさんがレポートする。
 
 座布団100枚をステージ前面に敷き詰め、その後ろにパイプ椅子を並べる。ステージを取り囲むような配置にして、村の鎮守でのお正月をみなで迎える場をつくる。
 そうやって、みんなの創意で「新年会」のイメージができあがってくる。

 座布団を無料で借りるのもOさんがたいへん骨を折った。
 お汁粉とお神酒とジュースそれに、ナマスをみなさんに振舞う。
 お年玉も小額だがポチ袋に入れて渡そう。

 いろいろと、楽しいお正月の企画が次々に飛び出す。一人の運営・企画では思いつかないし、やろうとしても出来ない事が実行の場にのせられていく。

 こうして、お正月、鎮守の森へ行って「和力」のめでたい芸を楽しむ、その趣向はみなさんの寄せ合った力で、着々と準備されている。
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歴史の生き証人…

2006年11月28日 | Weblog
 昨夜は、古くからの友人であるK君が所属する劇団の公演を観に行って来た。池袋の賑やかな大通りから入って、お寺さんが立ち並ぶ閑静な一角にホールがあった。
「三人でシェイクスピア」と題する演目である。ステージを見下ろすように座席が100ぐらいのこじんまりした会場だ。
 一ベルが鳴り客席の照明が落とされる。三人の演者が目まぐるしく衣装をとっかえ、ひっかえして軽妙に舞台が進展する。なにしろ90分でシェイクスピアの全作品を演じるのだから、みなさん汗だくの熱演だ。

 舞台がはねてからK君と近くの立飲み居酒屋に向う。彼とは旧知のTさんも同行する。Tさんは劇団を主宰している方である。道々の話しではなんと秋田出身で、わらび座の近くの町で生まれ育ったという。中仙町だったかと思う。武家屋敷としだれ桜「東北の小京都」として名高い角館町がその隣りにあって、わらび座のある神代村につづいていた。
「いまはもう廃校になっているが鶯野小学校に通っていた。当時はわらび座が毎年のように来てくれていた。わたしはわらび座の楽器紹介のとき手を上げてコントラバスに触らせてもらった」。
 なんと、Kさんはわたしが舞台に出て、初めて学校をまわり始めた頃にその舞台を観ているのだ。

 わたしが23才の4月にわらび座に入って、3ヶ月の演技者養成期間を経て、3ヶ月の仕込み・稽古をして8人のメンバーで学校を回り始めた。
 演技者は3人しかいなくて、班として結成準備中であった「合奏団」のメンバーが4人、そして裏方1人の8名の編成だ。
 学校公演のオープニングは「狸ばやし」である。「ポンポコポンのスッポンポン」と腹づづみを打ちながら舞台いっぱい跳ねまわる。
 演技者3名だけでは足りないから、楽器演奏者の「合奏団」メンバーもポンポコポンとやっていた。楽器はビオラ・チェロ・コントラバスそしてアコーディオンである。
「村の鍛冶屋」で楽器の演奏が入り、この時には演技者が「トンテンカン」とレールの切れ端を叩いたりして、演奏陣に加わる。奇妙奇天烈な公演班であったがどこでも子どもたちは喜んでくれた。
 そういえば「鶯野小学校」には覚えがある。学校の様子とか子どもたちの印象という事ではなく、「鶯野」という名前が強く印象に残っているのだ。雪深い東北・秋田の農村で「鶯野」は明るい春の景色を思い起こさせる。なんとなく当時あった学校の様子などもうっすらと思い浮かんでくる感じがするのだ。

「猿蟹合戦」「お猿のかごや」「幸せなら手を叩こう」など演目が進み、サンサーンスの「白鳥」、チェロ独奏が始まる。それが終わると「楽器紹介」のコーナーで私の出番である。
「このコントラバスの弓に張られているのは、ある動物の毛です。みなさんどんな動物の毛だか分かりますか」とわたしが生徒たちに尋ねる。
「わからなーい」と一斉に答えがかえってくる。「これは馬の尻尾を使っています」というと「え、えーっ」と講堂に集まった生徒たちがどよめき騒いだものだ。
「では、コントラバスを弾いてみたい人」と誘うと、主には低学年だったが「はーい」と手を上げる。希望者全員が舞台に上がり弾いた。
 おそるおそる弓を弦にあてると「ぶぉーん」と低い音が出る。弾いた本人も驚くが聴いている生徒たちもにぎやかな笑い声をたてた。
 
 あれこれと懐かしい。わたしが学校公演の舞台を務めていたことを証言する人が、現われたとびっくりした。人というものは、どこでどう繋がりあっているか分からないものだ。

 立飲みの小さなテーブルで大根や焼き鳥を食べながら、今みてきたお芝居の中身は吹き飛んで、学校での思い出話や今の学校での「鑑賞活動」がどのようになっているかで、盛り上がった話しになっていった。
「今は学校での鑑賞事業は難しくなってきている。先生方は多忙で中身を吟味する時間がなく、教頭さんとかが電話での応対をする。行事の選定は有名なもの、マスコミに出ているかなどが、大きな基準になってきており、電話での応対も教育者にあるまじき人が多い。電話の最中にガツャンと切ったり…」

 昔を懐かしんでばかりはおられないが、わたしたちが学校を回っていた頃は、公演が終わると先生方と「子どもの表情がいきいきしていた」とか、いつもは見られない子どもたちの変化について、喜び合ったものだ。
 共に作り上げていくそのような雰囲気は、すでになくなってしまったのであろうか。

 子どもたちになにを与えるか、それは無難なお墨付きのものではなく、掘り起こしてこなくてはならないと思うのに、「売れているもの、マスコミ…」が一つの判断基準だとしたら、なんと寂しい限りではないかと、飲み語り合うなかでつくづく思わされた。
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幹ちゃんのヴァリオン演奏

2006年11月26日 | Weblog
 柏文化会館に行って来た。「柏交響楽団」の30周年を迎える演奏会があったのだ。この交響楽団に「わらびっ子」だった松田幹ちゃんが、ヴァイオリンの奏者として参加している。
 幹ちゃんは朗よりいくつか学年が上で、小さいときからヴァイオリンを習っていた。高校を卒業してわらび座の養成所に学んだ後、当時の「わらび座合奏団」に所属してヴァイオリンを弾いて、学校公演などで活躍していたようだ。

 ご両親が座を離れたのを機に、家族で柏市で過ごし始めた。そして「昔とった杵柄」で、ヴァイオリンを再び始めたのだろう。
 かってのわらびっ子たちはさまざまな進路に進んでいるなぁ…と演奏を聴きながら思った。

 わたしの息子は、わらび座で生まれた。たらいにはられた「ひなた湯」に浸かる朗を取り囲んで、幹ちゃんも覗きこんでいる写真がある。
 朗の公演がある度に、関東近隣の元わらびっ子たちにダイナミックな働きかけをしてくれる歩ちゃんは、手を伸ばして今にも朗に触れそうにしている。彼女は、神奈川で「エステ・ヘアーデザイニングのマネージァーとして活躍している。
 朗も他の子どもたちもほとんどが一人っ子だった。わらび座の保育は当時、全寮制で24時間体制で子どもたちの面倒をみていた。だから年令の近い子どもはきょうだいのように過ごしていたものだ。

 朗の年令に前後する子どもたちで、芸術関係にすすんでいるわらびっ子は果たしてどのくらいいるのだろうかと数えてみた。
 三つほど年上の、長掛憲司君はわらび座の創作演出班におり、二つ上の石井総君は備前に住みついて陶芸家の道を進んでいる。
 朗は日本芸能「和力」を仲間と創設して、舞踊家・太鼓奏者・大道芸・話芸をもって世に問う仕事をしている。
 2才下だったと思うが山田耕一郎君は落語家として修行中だ。親方の家に住みこんで「二つ目」になった。
 平野進一君をはじめとして多くはわらび座の舞台で活躍している。

 今は、「和力」のメンバーとして朗と一緒にやっている、津軽三味線奏者の小野越郎君は朗の4才くらい下の年令になる。

 お勤めをしている元わらびっ子は、たくさんおり地域に職場仁その根っ子を張っている。元わらびっ子の舞台となると、その子どもたちが自分の子どもを連れて集まってくるのだ。兄弟・姉妹以上に強い絆にいまさら驚かされ感銘を受ける。
 こういう場には必ず、わらび座保育の創設者であり、学童・中学・高校生までの生活と教育を担当する、「わらび座教育部門」の責任者だった松本美智枝さんが秋田から出てきてくれる。
 昔からの不自由な片足を庇いながら、名古屋・松戸・東京へと遠征してくれるのだ。子どもたちは「コンおばちゃん」と母親のように懐き信頼している。

 朗も一人っ子できょうだいはいなかったし、わたしたち両親は公演のため全国に散っての生活だったから、同年代のわらびっ子をきょうだいとし、コンちゃんたち保母(父)集団を親として、十分な愛情を注いでもらって成長したのだと思う。
 
 いつか、元わらびっ子の多岐にわたるジャンルの文化を、ジョイントして企画してみたら、面白いだろうなぁと思っている。
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もっと英語を勉強しておけば…

2006年11月23日 | Weblog
 月に一度だけ、新松戸に踊りの講習に行く。講習といっても教えると云う事ではなく、身体を動かし一緒に楽しむのが目的なのだ。
「舞雀」と名乗って永らく活動しているサークルで、女性たちが7名、和気藹々といくつもの民舞を手探りでものにしてきた。

 わたしは、わらび座で覚えた「そーらん節」などをみなさんに披露して、この半年ほど仲間に入れてもらっている。9月、敬老の日には「壁塗り甚句」、「秩父音頭」など、わたしが伝授した踊りなどを構成して、地域の集まりに出て喜んでいただいたそうだ。

 みなさんは普段から踊り慣れているから、わたしの持っているレパはたちまちの内に底を尽いてしまう。
 そこで思い出した。わたしがわらび座に入って一番はじめに舞台でやっていた踊り…。入座したのは1962年で23才のときであった。演技者養成期間が3ヶ月で、卒業してすぐさま公演班が編成された。8名の小班で学校を回り始めた。

「狸ばやし」が幕開けで「村の鍛冶屋」、「お猿の駕籠屋」、「猿蟹合戦」などなどを続けてやった。30名ほどの分校にまででかけて「初期のわらび座」のスタイルだといわれた。
 その中の「お猿のかごや」はソロの踊りだったから、思い出せた。

 一通り踊って「可愛らしい踊りだ」とみなさんも喜んでくださった。休憩のときに少し説明をした。
「この踊りの衣装は簡単なものだったのです。初期のわらび座は衣装といっても手持ちはあまりなくて、男性はワイシャツと黒ズボンでした」…ここまではよかった。
「女性はブラジャーと黒いスカートでした」とはなすと「えっ…」みなさんがキョトントしている。「ブラジャーですか。学校で…」
 わたしはなにが可笑しいのかさっぱり分からない。
「もしかしたら、ブラウスじゃないですか」。わたしはますます分からなくなる。どっちだったのだろう。ワイシャツとTシャツはその違いが分かる。ブラジャーとブラウスの違いが分からないのだ。
 こんなこともあるからもっと英語を勉強しておけばよかった…とつくづくそのとき思ったのだった。
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八木節の講習に同行して

2006年11月21日 | Weblog
 11月19日(日)は、長野を5時起きして朗が松戸にやってきた。「東葛合唱団はるかぜ」の「郷土部」が「八木節」を6月のコンサートで発表するからと、講師を引き受けたのである。夏に第1回をやって今回は第2回目になる。

 かなり以前、唐傘をつかった八木節の踊りを「郷土部」でやったことがある。もうかれこれ7年か8年前になるだろうか。
 この当時は、中学生の娘さんたちが大勢「郷土部」にいた。(高校に入ってからは学業に専念するため離れたが…)。このときにも朗が講師をした。
 花も恥らう娘さんたちの踊る八木節は、伸びやかで春の盛りを思わせる明るさだった。
 
 わたしはときたま学校に行って、中学生に和太鼓やソーラン節などの踊りを教えることがある。この年代の子どもたちは覚えるのが早くて、いつも舌を巻いてしまう。
 わたしが半年、1年もかけてようやく身につけたものを、2時間ぐらいでマスターしてしまうのだ。
 これはわたしの教え方がよい…ということではなく、わたしたち位の年齢になると覚えが悪く、会得するのが遅くなっているのだろう。

 だから夏の第1回目の「八木節講習会」は、みなさんがたいへん苦労をしたようだ。それで予定していた10月の講習会を1ヶ月延ばして、その間に自主トレ=お浚いをしてもらうということで、昨日の講習会となったのである。

 朝から雨が降っていて肌寒い。わたしが車を運転して会場である学校に向う。助手席に朗を乗せている。
「あ…車がくるよ」…そんな事は知っている…。「あ…歩行者優先だよ」…そんな事も当然だろう…。いつもは自分で運転してどこにでも出かける朗は、いちいちわたしの運転に注文をつける。
 こうみえてもわたしは運転には自信がある。いちいち口出しされるのは、わたしの誇りに傷がつくではないか。

 学校の体育館は雨に濡れそぼっている。大きな和太鼓が数基もう用意されている。20人ちかくの郷土部のメンバーが、先ずは八木節のお囃子から練習を始めた。
「あ、そうか」…朗の指導で「そうだ、こうなれば音がまとまる」と、みなさんは納得して楽しそうに先に進む。
 わたしは車の運転で注意を受け、率直になれなかったのは、やはりいけなかったのだろうかと少し反省してしまう。

 そして、唐傘踊りの講習に入って3番まで丁寧に進んでいった。だんだんみなさんは楽しそうになってくる。
 わたしはデジカメを抱えてシャッターチャンスを狙っているが、みなさんのように身体を動かしているわけではないから、体育館の寒さが身に染みてしまう。
 12時から始まって5時まで、体育館の屋根の雨音を聞きながら熱い練習が、つづいていった。
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磊也・舞いでの初舞台

2006年11月17日 | Weblog
「…「鶏舞」で磊也が出てきたとたん、来た、来た、来た~!!! って心が高鳴りました。ドキドキしちゃいました。14才の男子中学生なのにねぇ~。
 朗君と磊也が背中あわせになったとき、ドキドキが爆発しそうでした。きゃあ~!!!
始まる、始まる~って。

 そこには、青い青い若竹がすっくと立っていた。ついこの間までは「たけのこ」だったのに…。
 まだまだ細いけれど、気がつくと青竹がそこにいた…。
 磊也はときどき、お父さんのほうをチラッと見たりして、まだまだ不安そうな表情がちょっと出るときもあったのですが、でも口をきゅっと結んで舞うその顔は、とても素敵でした。

 磊也の鶏舞は、すごく真剣でそしてまっすぐで、素直で…透明なガラスみたいでした…」

 上に掲げたのは、わたしたちが「紀美さん」と呼んでいる名古屋市の方からのメールの一部分です。
 5月の「吉祥寺シアター」公演では、4日と8日という飛んでいる日程にもかかわらず2日間、ごらんくださいました。
 10月の武蔵野公会堂にもまたまた名古屋から駆けつけてくださいました。16年前から朗の舞台があると、どこへでも行って下さっています。

 紀美さんは、わたしたちの孫が夏休みで「ディズニーランドに行きたい」と長野から4人そろってきたときには、浦安にすんでいる娘さんと一緒にガイドを引きうけてくれました。
 わたしは上野動物園が好きで何回も行っているのですが、ディズニーには5年ほど前に行っただけです。このときもたいへん助かりました。

 わたしは、磊也の「舞い」での初舞台を見る事ができませんでした。
 
 公演の企画・運営をしていますから、舞台がはじまっても客席には入らずに受付にいたからです。
 どこの公演でもそんな具合で、後から公演ビデオを見て、「おっ、なかなかやるじゃん」と見入るだけなのです。

 ですから、磊也の練習風景も知りません。
 磊也たちはわたしの住む千葉県松戸市から遠く離れた長野県阿智村で生活しているからです。
「磊也が鶏舞をマスターしつつある」と朗から聞いたのは、今年の春先のことでした。武蔵野公演では磊也とのデュエットで舞うつもりだ…と聞いて期待はしていました。でも稽古はどうするのだろう、朗は出演やイベント・教室があり家にはあまりいなそうだし、磊也は柔道部に入りこれまた忙しそうです。

 武蔵野公演が終わって磊也から葉書がきました。
「今回、僕は鶏舞を舞台で初めて舞いました。今年に入って練習を始めて、9月から装束を着ながら練習していました。練習してやっと形になったのが、10月の半ば頃でした。本番に間に合うか正直ドキドキしていました。27日と28日に猛練習をしました。ギリギリで完成しました。…」とあります。

 ビデオを撮っていたわたしの弟の雅義と、受付にいて鶏舞の時だけ客席に入った妻は、「若武者のような瑞々しい姿だった」と云っていました。

 中学2年生で、自分の人生に方向性を掴めたのかも知れない孫に、ある羨ましさを感じると同時に、それを見守る方々の多様さに感謝しています。
 長野県佐久市にお住まいのIさんご一家は「磊也の初舞台を見に来たよ」と、ご夫婦・息子さん一家(子供さん二人を連れて)そして友人をも誘ってお出でくださいました。
 朗一家を、親以上に面倒を見ていただいている方です。磊也が誕生する前から知っていらっしゃるから、磊也の成長をわが子のように喜んでくださっています。

 公演を企画・組織していくには苦労が多いけれど、このような出会いがあるから苦労も吹っ飛んでしまうのです。
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「黄河太鼓」を聴きにいった

2006年11月10日 | Weblog
「横山茂・和力 連なる3世代の祝祭」が終わって、翌々日の11月1日(水)に「文京シビックホール」に行った。中国山西省に本拠を置く「黄河太鼓」の招待券をいただいたのである。

 1963年にわらび座は、中国・朝鮮・ベトナムを訪問して、日本の歌舞=伝統文化を披露してきた。2ヶ月に及ぶ長期の公演であった。
 このときは総勢、30名くらいの班編成だったと思う。横山茂さんは舞台の中心として、また「訪問団」の副団長として(団長は原太郎さん)参加していた。
 北京の公演では当時の首相であった、周恩来さんがカーテンコールにステージに上がって、横山さんと握手している写真が印象に残っている。
 きりりと鉢巻を締めた横山さんが、大きな花束を抱えて周恩来さんと握手をしているのが、「月刊わらび」に載っていたと思う。

 1964年には「3カ国帰朝記念報告公演」として、わらび座は全国公演を展開することになり、横山さんが責任者を務める公演班にわたしも所属した。
 中国の演目で今でも記憶に残っているのは「腰鼓」(ようこ)である。細長い太鼓を左腰にあてがい細いバチで叩きながら、舞うものであった。
 中国からのお土産として楽器もたくさん頂いてきていた。銅鑼もあったし胡弓や太鼓もあった。幾種類もの太鼓は和太鼓とはやはり違っていた。

「黄河太鼓」の幕開きは、低く大きな「どーんー」という地響きのような音から始まったのである。緞帳が静かに上がると舞台奥手に大きな太鼓がやぐらの上に置かれている。後からの説明によると直径2メートルもある大太鼓である。
 皮は鋲で留められ太鼓の胴も和太鼓そのものであった。「これが中国の太鼓?」と一瞬、戸惑ってしまう。

 プログラムに寄ると「黄河太鼓の起源は西暦621年の唐王朝に遡る」とある。唐時代といえば李白や杜甫の詩人が活躍した頃なのだろう。
 わたしは高校に入って都電に乗っての通学時間は、岩波新書の「唐詩選」を片時も離さず読み耽っていた。
 吉川幸次郎さんの解説や訳も匂い立つ流れがあり、色彩の豊かな律動感のある漢詩に酩酊したものだ。
 李白は晩年、湖上に船を浮かべて酒を飲みつつ月を眺めていた。湖面に映った月を捉えようとして溺れて亡くなったという、逸話にも心動かされた。
 なんと豪快な愉快なひとだろうと、すっかり李白のファンになりずいぶんと本を買いあさって読んだ。
 余燼にまみれず自己をつらぬく生き方を羨望したものだ。そして陶淵明などにも共感した。杜甫は真面目な人らしくちょいと煙たかったなぁ…。

 唐時代から連綿としてつづく「黄河太鼓」を聞きながら、脈絡もなくいろいろなことを思い出していた。
 客席に座ってゆっくりと舞台を鑑賞しながら、自分の経てきた事柄を思い出す。

 自分が企画・運営した公演だとこうはいかない。だから手ぶらでのほほんと舞台だけに集中できた、この日は貴重な心の休みとなったように思う。


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武蔵野公会堂公演を終えて

2006年11月01日 | Weblog
 10月29日(日)「横山茂・和力 連なる3世代の祝祭」公演を「武蔵野公会堂」で行った。
 前日の晩から雨が降り始めて、夜中にはかなりはげしい雨音だった。
「せっかくの公演日が雨になってしまうのか」いささか憂鬱になり、2時間ほどで目覚めてしまい、その後はなかなか寝つくことができない。6時半には家を出て会場のある吉祥寺に向おうと思っている。

 思い起こせば、会場の予約を受け付ける「抽選会」のときにも雨の日であった。「俺は雨男なのだろうか」…なにか因縁めいたことを考える。今年1月の松戸公演では前日に、関東地方では近来稀な大雪に見舞われた。
 公演当日は幸い晴れ上がったのだが、道路は凍結してホール周辺を守衛さんがスコップで掘り起こしていたのを思い出す。

「午前中は小雨が降るけど午後からは晴れると天気予報で云っていた」玄関口で妻がいう。そうなればどんなに嬉しい事だろうと傘を開く。
 空を見上げると雲は厚く「予報はほんとうかいな」と不安になる。いままで当り外れがあり、気象予報士の方には申し訳ないが、全幅の信頼がおけないのだ。少しぱらつく雨の中を駅に向う。

 吉祥寺駅には8時に着いた。9時の会場入りだから早く着きすぎた。朝食を駅構内の立ち食いそばで済ませて、会場周辺を歩いてみる。
 キャスト・スタッフをはじめとして、受付などお手伝いの方々への昼食でお茶などがいるだろう。コンビニがあるか偵察をしなければならない。幸い会場の近くにお店があり一安心。
 この頃になると曇ってはいるけれど雨は上がっている。

 和力メンバーが到着して、照明・音響のスタッフも出揃い、車から太鼓などの荷降ろしと舞台設営が始まる。中学2年生の磊也は体力もある。重たい太鼓をせっせと階段下の搬入口に運び入れる。慧(小学6年)は衣装などを運ぶ。
 その頃になると雨は完全に上がり、秋のやわらかな日差しが公会堂の尖った屋根を照らす。
「やっぱり専門家だけある。気象予報士さんの云うことは正しかった。ありがとう」と尊敬の心に溢れる。
 武蔵野公会堂をほんの2分も歩けば「井の頭公園」に出る。公園につづく路の街路樹は黄ばんで微かな風に揺れている。

 12時ちかくになると、続々と受付・精算・会場・売店などを担当して下さる方たちが集まってくる。
 プログラムへの折りこみなどが手早くやられ、会場前の看板掲示なども進む。一人ではとうてい出来ない。ありがたい事である。
 300部を用意したプログラムは受付の机に高く積まれる。「果たしてこれだけのお客さんが来てくれるだろうか」少し不安になる。

 お弁当は28人分を注文した。これも不足しないだろうか…。企画・運営者の心配は絶えることがない。
 お弁当は地元に実行委員会が出来なかったので、頼むべき所の情報がない。「コンビニの弁当でも仕方ないか」と思い悩んでいた。
「食事も文化だから納得したものを…」と、「武蔵野こどもまつり」で「ソーラン節」を教えに行った機会に、公演会場になる公会堂に寄って相談した。
「近くにお弁当屋さんがありますよ」と教えてもらった。湯気がもうもうと立ち上る弁当屋さんを想像していたら、築地塀と格子戸の和風の建物であった。
「松茸ごはん」「赤飯」などいろいろな種類の焚き合せご飯を店頭に並べているお店で、お年寄りや若いカップルがガラスケースを覗きこんで、品定めをしている。
 3種類の焚きこみご飯をセットした「幕の内弁当」を作ってもらったのだ。過不足なくみんなの手に渡ったのを見て、わたしも一ついただく。

 開場時間が迫りお客さんが入り始める。北海道・秋田・岩手一関・名古屋・長野から遠来の方々も見えている。
 多くの方がチケットを広げてくださった。プログラムの山は小さくなっていく。

 350席のアットホームな会場はだんだん席が埋まって、一ベルが場内に響きいよいよ開演だ。
 企画・運営者であるわたしは、始まった舞台を見ることなく受付の机の前で遅れて来た方々をご案内する。モニタースピーカーから場内の拍手などを聞きながら「多くの人のお力でここまで漕ぎつける事ができた」と、舞台を見ることはできないが感無量な思いに耽る。

 公演が終わりロビーで「横山さんを囲む交流会」が行なわれ、評論家の秋山ちえ子さん、わらび座を初期から支えてくださった一関の佐藤謹一郎さん、横山さんとシベリア時代に一緒だった千葉晃久さん、秋田・岩手の教員だった方々などが集まって、歴史に裏付けられた重厚な交流会になったようだ。

 わたしは、荷積みや会場の整理などのためにここにも参加できなかった。これは企画・運営者の宿命でもあるのだろう。
 舞台の様子・交流会の模様は情宣担当の雅義などから、HPに反映されるに違いない。(すでにHPの「楽屋裏から」に写真を含めて掲載された)

 ビデオが完成して舞台・交流会がどのように進行したかを観るのが楽しみだ。

 チケットの販売・公演当日のお手伝い、さまざまにご協力いただいたみなさん、ありがとうございました。
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