とかくこの世は  №2

2003年11月06日 | Weblog

 今日の新聞を読んでいて面白い記事に、出くわした。チャーチルが「猫は人間を見下し、犬は人間を見上げる。豚は人間の目をのぞきこんで自分と同類だと思う」と名言を吐いたと書かれている。
 先週の連休を利用して、長野に在留する息子の所に息抜きにいった。二千六百坪だかの山林を切り開いて、車が交差できないような坂道の途中に、その家はある。切り倒した大木を乾燥させて建てた家は、この季節薪ストーブに暖められて快適だ。
 そこには去年、知人から貰ったという犬が一匹いる。ドイツ原産のドーベルマンとかの、中型犬だ。朝方、人恋しく吠えているので散歩させようと連れ出した。

 鎖をしっかりと掴んで坂を上り始めたのだが、「ビビ」と呼ばれるその犬は、力が強くて握っている手が冷たさで痺れてくる。人もいないし車がくる気配もない、エエーい放しちまえ!と鎖ごと手放した。
 ビビ(全身が真っ黒けなので{魔女の宅急便}の黒猫に因んで名づけられた)は、勇んで坂を駆け上がる。そしてまた駆け下りる。
 そうこうする内に、道下の雑木林に入りこみ、鎖が枯れ葉をカサカサ擦る音がしていたが、それも聞こえなくなりどこに行ったかさっぱり分からない。
「ビビ!」と呼べども、反応はさっぱりない。これは困った、鎖が木か岩に絡みついたら、どうしょう!
 可哀相なことをしたとホゾを噛んでいると、坂の下からヒョイと現れ、駆け下って家の方に曲がっていく姿が目に入った。一安心した。
 家から一段下がった所には一寸した広場があり、その端っこの畠で、か細く大根が葉をつけている。昼過ぎに、山から出た廃材をくべ始めた。
 4人の子供たちもみんな総出で、遊びがてらに木屑を集めて火の中に投げ入れてる。それに混じって何の事はない、ビビも紐など付けずに飛び回っている。
 なにも散歩させるからといって、鎖なんかつけなくてもよかったのだ。


2、泥がこびりついて

 社員旅行で台湾に行って、驚いた事が二つある。

道を埋め尽くすバイクの数の凄まじさ、走る車の間を縫うというよりは、一塊りふた塊りとなって大きな車両をう
しろに従えて、スピードも速い。TVの画面で秋刀魚とか鰯の群泳をみるが、そんな有りようで庶民の熱気が立ち上る。
 それともう一つのことは、犬が放し飼いである。大きな商店街の所々で犬が寝そべっている。通行人なんかには目もくれないで、薄目をあけて世の中の動きを観察したり、大欠伸をしたり、ゆったりと歩きまわったりしている。
 毛には泥がこびりついたりしていて、いわゆるブラッシングなんかはされていない風だ。
 「俺の子供の頃もそうだったなあ」と懐かしかった。
 疎開から引揚げてきて、食うや食わずの生活だったから勿論、自分の所では飼ってはいない。道端や焼け跡の広場などで、群れをなして子供達が遊び呆けていると、必ず犬がいたものだ。
 前足の間に顎をのせて、薄っすら目を開いて子供達の様子を眺めている。野球などでエラーなどすると「なんじゃ!下手っぴい」などと思ってはいただろうが、顔には出さない。
 そんな大人としてのの風格があった。日暮れて、子供達が帰り始めると「どーれ、おいらもそろそろ帰るとするか」と、のったり起きあがって飼い主の少年と共に家路につく。

夜になると繋がれてはいたが昼間はほどかれ、路地のあっちこっちを歩き廻っていた気がする。そして今みたいに、人の顔をみると吠えつくというのも少なかったとおもうのだが? 犬が姦しく吠えつくようになったのは、衣食が足り、座敷で犬が飼われるようになってからのように、思える。スピッツなんかがその典型で、知らない人が見えるとむやみやたらに、キャンキャン鳴きたてる。
 思いきり蹴飛ばしてやりたいが「可愛いワンちゃんですねえ」などとお愛想を言うしか能がない、自分が腹立たしい。
 犬の人間不信と、人間の自己嫌悪はこの時期、同時にやってきた。

 とりあえずは、食うものが食え住む所も安定して、互いに庇い合い助けあって生き延びていく、他人の肌のぬくもりを、感じなくくなってからの変化だ。
 人間の自己嫌悪は更に進んで、互いに距離をおくだけでなく、飼っている犬に対しても心許せなくなってしまい、四六時中鎖に縛りつけざるを得ない心境になってしまった。
 お互いに信頼しあい、強制的な事で縛り付けなければ、分をわきまえた行動で共存していけるなあと、長野の息子の整地もされていない広場で、走りまわるビビを見ながら、思った。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする